朝8時からは安養寺の住職が来られて法要を営まれる大和郡山市小泉町の地蔵盆。
富雄川に架かる橋のすぐ傍の楠地蔵はご利益があると信ぜられ、手を合わせている光景は通る度に見ることがある。
その朝の法要を拝見したのは平成25年の8月23日である。
今から4年前のことであるが、もっと以前のように感じてならない。
富雄川に架かる橋の袂にある地蔵さんは「市場の楠地蔵」。
大和郡山市小泉町の市場垣内にある。
由緒書に「昔、富雄川下流から逆に流れついた楠の化石と俗称されている六字名号碑と半内の石地蔵名号碑の正面」。
続き文に「天正二年甲戌(1574)十一月十五とあり 光背正面 天明八戌甲(1788)正月二十四日以 助力、道入建之表裏 御神前 嘉永六(1853)発五歳 十二月吉日 施主市場半右衛門」とあることから刻印を判読されたのだろうか。
実物の2碑光背を拝見したが、刻印そのものが判別できず、まったくわからない。
六字名号碑と石地蔵名号碑の刻印が混ざって記されたような気がするので、判読しやすいように由緒書を区切ってみて読み取った。
“光背正面”というからには六字名号碑ではなく、地蔵石仏であろう。
由緒書に続き文がまだある。
「高さ六尺五寸巾 二尺五寸余厚さ一尺内 外板碑型で縦に筋の多い一種の水成岩(※堆積岩)だから楠地蔵と呼ばれる」。
「天明の地蔵の光背の右肩に淡赤く色付いている此れは 昔 此の前で相撲を取って戯れていた子供に此の右佛が倒れ掛かり下敷きになって膓(はらわた)が飛び出して死んだ其の時の血痕と云われている 恐ろしいが 一方で なんでも聴いてくださる有難い佛様だと言い傳へられている」とあった。
由緒文に句読点がなかったものだから、判読しにくい。読みやすく区切って補正した。
4年前の同一日。
朝8時からの地蔵法要を拝見したことがある。
法要するお寺さんは浄土宗派の安養寺。
年に一度のお勤めであるが、楠地蔵さんの営みは地元市場に在住する婦人たちは毎月の23日がお勤め。
楠地蔵さんに三巻の般若心経を唱えている。
8月23日は、朝の8時の法要に加えて午後4時からは数珠繰りもする。
今回、訪れた目的は数珠繰りをどのような形式でされているのかを拝見することにある。
4年ぶりにお会いする高齢の婦人たち。
「あれから、そのまま歳がいきましたわ」という。
それは私にとっても同じこと。
あの日から4歳もプラスした年齢になっていた。
拝見したかった大念珠。
それを納めていた数珠箱の表面の色具合を見て、江戸時代に違いないと思った。
その箱の上蓋を開けたら裏面に墨書文字が見つかる。
「上品数子 正□三巳癸年 河出浄頓」の文字だ。
「正」の字がある年号で三年。
干支の「巳」、「癸」があるのは正徳三年しか見当たらない。
正徳三年は西暦1713年。
今から300年以上も前に新調された大念珠であったことがわかった。
そのことを婦人たちに伝えたら驚いておられた。
どこの村、講中であっても同じように所有物が相当な年代ものとわかれば、一様に驚かれる。
大念珠数珠繰りの回数は10回。
数取りの道具は数珠でもなく、数取り木片でもない。
あっと驚くなかれのマッチ棒で数えるのだが、特に珍しいわけではなく、県内でときおり見かける数取り道具である。
数珠の輪の中に入った導師が小型の伏せ鉦を打って調子をとる。
「なむあみだー(ぶつ) なむあみだー(ぶつ)」を繰り返しながら数珠を繰る。
数珠繰りのテンポは割り合い早いほうだ。
付近にキン、キンの音が響き渡るが、街道をゆく人々の耳には聞こえないようだ。
大珠の房が廻ってくれば拝むように頭を下げる。
どこの数珠繰りであっても同じ様相が楠地蔵の前でも行われる。
およそ10分間の数珠繰りを済ませたら、束ねた数珠で無病息災、身体健勝をしてもらう。
これもまた、どこでもそうだが、数珠は肩から背中にかけてさすってもらえば、思わず手を合わしてしまう。
そのときも通行人は誰一人として立ち止まらない。
(H29. 8.23 SB932SH撮影)
(H29. 8.23 EOS40D撮影)
富雄川に架かる橋のすぐ傍の楠地蔵はご利益があると信ぜられ、手を合わせている光景は通る度に見ることがある。
その朝の法要を拝見したのは平成25年の8月23日である。
今から4年前のことであるが、もっと以前のように感じてならない。
富雄川に架かる橋の袂にある地蔵さんは「市場の楠地蔵」。
大和郡山市小泉町の市場垣内にある。
由緒書に「昔、富雄川下流から逆に流れついた楠の化石と俗称されている六字名号碑と半内の石地蔵名号碑の正面」。
続き文に「天正二年甲戌(1574)十一月十五とあり 光背正面 天明八戌甲(1788)正月二十四日以 助力、道入建之表裏 御神前 嘉永六(1853)発五歳 十二月吉日 施主市場半右衛門」とあることから刻印を判読されたのだろうか。
実物の2碑光背を拝見したが、刻印そのものが判別できず、まったくわからない。
六字名号碑と石地蔵名号碑の刻印が混ざって記されたような気がするので、判読しやすいように由緒書を区切ってみて読み取った。
“光背正面”というからには六字名号碑ではなく、地蔵石仏であろう。
由緒書に続き文がまだある。
「高さ六尺五寸巾 二尺五寸余厚さ一尺内 外板碑型で縦に筋の多い一種の水成岩(※堆積岩)だから楠地蔵と呼ばれる」。
「天明の地蔵の光背の右肩に淡赤く色付いている此れは 昔 此の前で相撲を取って戯れていた子供に此の右佛が倒れ掛かり下敷きになって膓(はらわた)が飛び出して死んだ其の時の血痕と云われている 恐ろしいが 一方で なんでも聴いてくださる有難い佛様だと言い傳へられている」とあった。
由緒文に句読点がなかったものだから、判読しにくい。読みやすく区切って補正した。
4年前の同一日。
朝8時からの地蔵法要を拝見したことがある。
法要するお寺さんは浄土宗派の安養寺。
年に一度のお勤めであるが、楠地蔵さんの営みは地元市場に在住する婦人たちは毎月の23日がお勤め。
楠地蔵さんに三巻の般若心経を唱えている。
8月23日は、朝の8時の法要に加えて午後4時からは数珠繰りもする。
今回、訪れた目的は数珠繰りをどのような形式でされているのかを拝見することにある。
4年ぶりにお会いする高齢の婦人たち。
「あれから、そのまま歳がいきましたわ」という。
それは私にとっても同じこと。
あの日から4歳もプラスした年齢になっていた。
拝見したかった大念珠。
それを納めていた数珠箱の表面の色具合を見て、江戸時代に違いないと思った。
その箱の上蓋を開けたら裏面に墨書文字が見つかる。
「上品数子 正□三巳癸年 河出浄頓」の文字だ。
「正」の字がある年号で三年。
干支の「巳」、「癸」があるのは正徳三年しか見当たらない。
正徳三年は西暦1713年。
今から300年以上も前に新調された大念珠であったことがわかった。
そのことを婦人たちに伝えたら驚いておられた。
どこの村、講中であっても同じように所有物が相当な年代ものとわかれば、一様に驚かれる。
大念珠数珠繰りの回数は10回。
数取りの道具は数珠でもなく、数取り木片でもない。
あっと驚くなかれのマッチ棒で数えるのだが、特に珍しいわけではなく、県内でときおり見かける数取り道具である。
数珠の輪の中に入った導師が小型の伏せ鉦を打って調子をとる。
「なむあみだー(ぶつ) なむあみだー(ぶつ)」を繰り返しながら数珠を繰る。
数珠繰りのテンポは割り合い早いほうだ。
付近にキン、キンの音が響き渡るが、街道をゆく人々の耳には聞こえないようだ。
大珠の房が廻ってくれば拝むように頭を下げる。
どこの数珠繰りであっても同じ様相が楠地蔵の前でも行われる。
およそ10分間の数珠繰りを済ませたら、束ねた数珠で無病息災、身体健勝をしてもらう。
これもまた、どこでもそうだが、数珠は肩から背中にかけてさすってもらえば、思わず手を合わしてしまう。
そのときも通行人は誰一人として立ち止まらない。
(H29. 8.23 SB932SH撮影)
(H29. 8.23 EOS40D撮影)