この年の地蔵盆に伺った奈良市古市町。
場は町の北方にある北の地蔵さんである。
地蔵さんの祭りに来られていたKさんが話してくれた「こうぜんさん参り」に興味をもった。
「こうぜんさん」は一般人の進入禁止区域になっている春日山中にある。
その一角に鎮座する鳴雷神社のことである。
一般人である私は入山することできないが、参拝される古市町の人たちに同行する形で承諾してもらった「こうぜんさん参り」である。
聞いていた当日に集まってこられた水利組合組合長に経緯を伝えて同行させていただくが、組合員によるこの参拝は参拝後の寄り合いも組まれている。
寄り合い場へも行く行程に組合員が乗る車は会場の送迎バス。
バスの後方についてきてくださいと、云われて走る第一の関所は新若草山・高円山ドライブウエイの料金所。
軽自動車の場合は往復通行料が670円だった。
何十年ぶりになるのだろうか。
家族で連れだってやってきたことがあるが随分前のことだ。
奈良奥山ドライブウエイが正式名所のコースに「万葉若草の宿三笠」に「ホテル平城」がある。
宿泊利用したのはたしか「三笠」だったと思う。
メインに鍋料理を食べた記憶があるというかーさん。
思い出の映像は白く混濁した鍋だったというから、それは飛鳥鍋だと思う。
当店は柳生鍋。
創館以来ずっとそうであるらしいから記憶違いだったろう。
さて、余談はそれくらいにして「こうぜんさん参り」である。
料金所を通過してしばらく走った先で組合員は降車する。
足元は完全装備。
山地に生息するヤマビルに噛まれないように長靴は必需品。
忘れた場合はズボンの裾をしっかりとバンドなどで〆て侵入されないようにする。
また、首元には肌をみせないようにタオルで首に巻いて覆う。
地蔵まつりの際に聞いていたヤマビル対策。
普段着で禁足地にはいるが、装備は万全にと聞いていたが、すっかり失念していた。
縛るものも、隠すものも持ち合わせていない。
普段着のままの入山に思い出すヤマビルの被害。
ヤマビルの洗礼を浴びた場はここよりほぼ近い柳生へ向かう滝坂の道であった。
気がついたらぬるぬる赤い血がべったり。
ジーパンが赤色状態でわかったヤマビルの仕業には驚いたものだ。
特に湿気が多い時季に出没するヤマビル。
頭上にある樹木からおりてくる場合もあるが、9月の山はカラカラ。
乾いた季節は出没しないと組合員が話していた。
まさにその通りであるが、「こうぜんさん参り」は里に下りるまでヒヤヒヤしていた。
なお、貝を吹いておられるが、水利組合としてではなく、趣味で吹いているとのことだった。
目的地は香山(こうぜん)或いは荒神の高山(こうぜん)と呼ぶ地に鎮座する鳴雷(なるいかづち)神社である。
ずるずる滑りやすい道なき道なのか、それともあるようで、ないようなわからない道をゆく。
すぐ下は池だという。
水源地の池は干上がることがないという竜王池。
写真ではわかりにくいが、水面は斜光によって煌めいている。
入山する場に拝見した略図。
掲示板の地図を見ても現地はどこであるのかわからない。
かつて、この林道を下って鶯の滝にたどり着いたことがある。
滝は花山川の上流地。
距離がどれくらいだったかまったく記憶に残っていない。
組合員の一人が資料をくださった。
それはネットからプリントした「奈良歴史漫歩 春日山の水神信仰」。
鳴雷神社について詳しいことが書いてあるという。
その竜王池の向かい側。
西面に建つ社殿が見えてくる。
登りやすい石段。
踏みしめて登っていったところに到着と同時に拝礼したくなる鳴雷神社がある。
春日大社の末社である鳴雷神社の祭神は天水分神(あめのみくまりのかみ)。
史料によれば「延喜式神名帳の大和国添上三十七座の筆頭にくる鳴雷神社に擬される。明治時代の初年までは“高山(香山)竜王社”と呼ばれていた」とあった。
「二月の祈年祭、十一月の新嘗祭には中央から中臣氏の官人がさし遣わされた格の高い神社。現在も春日大社の末社の中で唯一新嘗祭が行われている」と書いてあった。
組合員は到着するとともに直ちに準備するローソク立て。
スルメに塩、お神酒を供える。
中央に、このときだけに置かれる水利組合専用のさい銭箱も。
めいめいが手を合わせて参拝する願いは一つ。
水たんもれである。
「大和豊年米喰わず」という。
溜池が多い大和平野は水に恵まれる豊かな土地。
その土地が豊作を育む天の恵み。
旱にも水を満々とたたえる竜王池。
「こうぜんさん」は水の神さんだから、こうして毎年に参拝してきたという。
2拝、2拍、1拝。
それぞれが参拝を済ませたら直ちにその場で直会である。
供えたスルメを千切って配る。
お神酒も注がれて水の恵みを飲み干す。
しばらく滞在した直会。
お神酒は社殿周りに撒かれる。
社殿周辺に石柱がある。
社殿右手の石柱にあった刻印は「高山龍王社」。
裏面に「安政四巳年(1857)閏五月吉日」。
もう一面、側面に寄進者らしき四人の名が刻まれていた。
ほとんど判別できないなかで読み取れたのは「戸田一東明寺」であるが・・・。
社殿より左側にあった石柱の正面は「奉納 願満」。
側面に「郡山大字高田 農民中」とある。
寄進されたのは現在の大和郡山市高田町の農民であろう。
右側面に年号らしき刻印がある。判読できたのは「明□二十六年・・」。
26年もあるのは明治時代にしかないから「明治26年」の寄進とわかる。
江戸時代、明治時代に行われていた「高山(こうぜん)」参りの記録でもある。
今もなお参拝し続ける農家や水利組合の人たち。
おそらく古市町以外の地区も雨乞い祈願に登坂していたのだろう。
参拝を済ませた組合員は当地を下っていく。
樹齢はかなりのものだと思った大杉の際を廻って下った先は送迎の車。
宴の場に出かけていった。
ここで別れてそのまま帰路につくにはもったいない。
折角ここまで来たのだからと思って高円山ドライブウエイから大和平野を一望する。
天候状態の関係だろうか、遠くも近くも霞んでいる。
溜池多しと云われている大和平野。
ここからの眺望に見えるのはごくごく一部。
手前の山並みは二上山あたりから南に伸びる葛城山系。
その奥にかすかに見える山並みは和歌山・大阪を境界に東西に連なる紀泉山脈だ
右にレンズを大きくパンしてみれば住宅に団地がぎっしり。
ずっと、ずっと先に見えた建物は現在建造中の奈良県総合医療センター。
開院は平成30年5月初めになる。
とらえた映像の中心点より右上に見られる建物である。
ここから見て、とてつもなく大きい建物である。
この建物からの距離は測り難いが、我が家はすぐ傍。
見えない位置にある。
向こう側に山々が見える。
手前の山並みは矢田丘陵地。
その向こう側が平群から生駒山に繋がる生駒山地である。
少しだけ右にパンしてみれば山頂にある電波塔などの鉄塔が見える。
左に戻したら信貴山向こうに見える大阪のビル群も視野に入る。
展望地の標高が高ければもっと見えただろうな。
(H29. 9. 1 SB932SH撮影)
(H29. 9. 1 EOS40D撮影)
場は町の北方にある北の地蔵さんである。
地蔵さんの祭りに来られていたKさんが話してくれた「こうぜんさん参り」に興味をもった。
「こうぜんさん」は一般人の進入禁止区域になっている春日山中にある。
その一角に鎮座する鳴雷神社のことである。
一般人である私は入山することできないが、参拝される古市町の人たちに同行する形で承諾してもらった「こうぜんさん参り」である。
聞いていた当日に集まってこられた水利組合組合長に経緯を伝えて同行させていただくが、組合員によるこの参拝は参拝後の寄り合いも組まれている。
寄り合い場へも行く行程に組合員が乗る車は会場の送迎バス。
バスの後方についてきてくださいと、云われて走る第一の関所は新若草山・高円山ドライブウエイの料金所。
軽自動車の場合は往復通行料が670円だった。
何十年ぶりになるのだろうか。
家族で連れだってやってきたことがあるが随分前のことだ。
奈良奥山ドライブウエイが正式名所のコースに「万葉若草の宿三笠」に「ホテル平城」がある。
宿泊利用したのはたしか「三笠」だったと思う。
メインに鍋料理を食べた記憶があるというかーさん。
思い出の映像は白く混濁した鍋だったというから、それは飛鳥鍋だと思う。
当店は柳生鍋。
創館以来ずっとそうであるらしいから記憶違いだったろう。
さて、余談はそれくらいにして「こうぜんさん参り」である。
料金所を通過してしばらく走った先で組合員は降車する。
足元は完全装備。
山地に生息するヤマビルに噛まれないように長靴は必需品。
忘れた場合はズボンの裾をしっかりとバンドなどで〆て侵入されないようにする。
また、首元には肌をみせないようにタオルで首に巻いて覆う。
地蔵まつりの際に聞いていたヤマビル対策。
普段着で禁足地にはいるが、装備は万全にと聞いていたが、すっかり失念していた。
縛るものも、隠すものも持ち合わせていない。
普段着のままの入山に思い出すヤマビルの被害。
ヤマビルの洗礼を浴びた場はここよりほぼ近い柳生へ向かう滝坂の道であった。
気がついたらぬるぬる赤い血がべったり。
ジーパンが赤色状態でわかったヤマビルの仕業には驚いたものだ。
特に湿気が多い時季に出没するヤマビル。
頭上にある樹木からおりてくる場合もあるが、9月の山はカラカラ。
乾いた季節は出没しないと組合員が話していた。
まさにその通りであるが、「こうぜんさん参り」は里に下りるまでヒヤヒヤしていた。
なお、貝を吹いておられるが、水利組合としてではなく、趣味で吹いているとのことだった。
目的地は香山(こうぜん)或いは荒神の高山(こうぜん)と呼ぶ地に鎮座する鳴雷(なるいかづち)神社である。
ずるずる滑りやすい道なき道なのか、それともあるようで、ないようなわからない道をゆく。
すぐ下は池だという。
水源地の池は干上がることがないという竜王池。
写真ではわかりにくいが、水面は斜光によって煌めいている。
入山する場に拝見した略図。
掲示板の地図を見ても現地はどこであるのかわからない。
かつて、この林道を下って鶯の滝にたどり着いたことがある。
滝は花山川の上流地。
距離がどれくらいだったかまったく記憶に残っていない。
組合員の一人が資料をくださった。
それはネットからプリントした「奈良歴史漫歩 春日山の水神信仰」。
鳴雷神社について詳しいことが書いてあるという。
その竜王池の向かい側。
西面に建つ社殿が見えてくる。
登りやすい石段。
踏みしめて登っていったところに到着と同時に拝礼したくなる鳴雷神社がある。
春日大社の末社である鳴雷神社の祭神は天水分神(あめのみくまりのかみ)。
史料によれば「延喜式神名帳の大和国添上三十七座の筆頭にくる鳴雷神社に擬される。明治時代の初年までは“高山(香山)竜王社”と呼ばれていた」とあった。
「二月の祈年祭、十一月の新嘗祭には中央から中臣氏の官人がさし遣わされた格の高い神社。現在も春日大社の末社の中で唯一新嘗祭が行われている」と書いてあった。
組合員は到着するとともに直ちに準備するローソク立て。
スルメに塩、お神酒を供える。
中央に、このときだけに置かれる水利組合専用のさい銭箱も。
めいめいが手を合わせて参拝する願いは一つ。
水たんもれである。
「大和豊年米喰わず」という。
溜池が多い大和平野は水に恵まれる豊かな土地。
その土地が豊作を育む天の恵み。
旱にも水を満々とたたえる竜王池。
「こうぜんさん」は水の神さんだから、こうして毎年に参拝してきたという。
2拝、2拍、1拝。
それぞれが参拝を済ませたら直ちにその場で直会である。
供えたスルメを千切って配る。
お神酒も注がれて水の恵みを飲み干す。
しばらく滞在した直会。
お神酒は社殿周りに撒かれる。
社殿周辺に石柱がある。
社殿右手の石柱にあった刻印は「高山龍王社」。
裏面に「安政四巳年(1857)閏五月吉日」。
もう一面、側面に寄進者らしき四人の名が刻まれていた。
ほとんど判別できないなかで読み取れたのは「戸田一東明寺」であるが・・・。
社殿より左側にあった石柱の正面は「奉納 願満」。
側面に「郡山大字高田 農民中」とある。
寄進されたのは現在の大和郡山市高田町の農民であろう。
右側面に年号らしき刻印がある。判読できたのは「明□二十六年・・」。
26年もあるのは明治時代にしかないから「明治26年」の寄進とわかる。
江戸時代、明治時代に行われていた「高山(こうぜん)」参りの記録でもある。
今もなお参拝し続ける農家や水利組合の人たち。
おそらく古市町以外の地区も雨乞い祈願に登坂していたのだろう。
参拝を済ませた組合員は当地を下っていく。
樹齢はかなりのものだと思った大杉の際を廻って下った先は送迎の車。
宴の場に出かけていった。
ここで別れてそのまま帰路につくにはもったいない。
折角ここまで来たのだからと思って高円山ドライブウエイから大和平野を一望する。
天候状態の関係だろうか、遠くも近くも霞んでいる。
溜池多しと云われている大和平野。
ここからの眺望に見えるのはごくごく一部。
手前の山並みは二上山あたりから南に伸びる葛城山系。
その奥にかすかに見える山並みは和歌山・大阪を境界に東西に連なる紀泉山脈だ
右にレンズを大きくパンしてみれば住宅に団地がぎっしり。
ずっと、ずっと先に見えた建物は現在建造中の奈良県総合医療センター。
開院は平成30年5月初めになる。
とらえた映像の中心点より右上に見られる建物である。
ここから見て、とてつもなく大きい建物である。
この建物からの距離は測り難いが、我が家はすぐ傍。
見えない位置にある。
向こう側に山々が見える。
手前の山並みは矢田丘陵地。
その向こう側が平群から生駒山に繋がる生駒山地である。
少しだけ右にパンしてみれば山頂にある電波塔などの鉄塔が見える。
左に戻したら信貴山向こうに見える大阪のビル群も視野に入る。
展望地の標高が高ければもっと見えただろうな。
(H29. 9. 1 SB932SH撮影)
(H29. 9. 1 EOS40D撮影)