京都府の南山城村高尾の民俗調査を終えて帰路につく。
カーナビゲーションにセットしたのは大和郡山市の自宅まで。
高尾からの戻り道を指示するルートは柳生経由の奈良市内行き。
初めて通る道にワクワクする。
ほんの2kmぐらいだろうか。
開けた地に出たところは三叉路。
左右を走る道路は広くなった。
ここはどこ。
カーナビゲーションが表示した地名は奈良市邑地町。
えっ、ここに出て来たのか。
邑地町といえば水越神社の宵宮を取材したことがある。
当時は取材の細かさは聞き取りできていないが、宵宮に奉納される翁の舞や袖を触るジンパイやふんどし姿で神さんにささげる神事スモウがある。
平成17年の10月8日の状況であるが、未だに翌日の昼間に行われる本祭は見たことがない。
第二日曜日は無理なこと。
諦めの気持ちである。
撮らせてもらった写真に著書の『奈良大和路の年中行事』も献本させてもらった村である。
目と鼻の先に繋がっていた奈良の邑地町と京都の高尾の距離に驚いたものだ。
その先を示したカーナビゲーションは右へいけ、である。
指示にもう反逆するつもりはない。
奈良市内に向けて、GO(ゴー)である。
見覚えのある史跡が右手に見ながらカーブを曲がり切る。
その直後に現われた民家が数軒。
一番手前にあったお家の玄関に注連縄があった。
もしかとすれば、もしかとすれば、と思って急停車。
道路脇に停めて表札を見れば、ここであったのか、と嬉しさがこみ上げる。
興ヶ原町在住のTさんだ。
80歳はとっくにクリアーしている元宮司。
地元興ヶ原町では天満神社の宵宮を取材させてもらったことがある。
平成24年10月15日だった。
その年は宮司の務めをしながら当家も務められた。
宮司は2年前に引退された。
退任および宮司引継ぎを伝える封書をいただいたのは平成28年の4月7日。
宮司職を退職されたのはその年の3月末だった。
その宮司後任に指名されたのは甥っ子の奈良市阪原町に住まいするO宮司。
先代の親父さんも存知している親子である。
O宮司とは前年の平成28年12月4日。
引き継がれた山添村大西の稲荷神社の新嘗祭に出会った。
そのときの話題は神職を引退されたTさんのことだった。
通知も、Tさんからの直接の電話も貰っていたから、できる限り、早めにお会いしたいと思っていた。
家に帰れば住居番地はわかるが、なければ聞かざるを得ない。
そう思っていた日々。
いきなり現れたTさんが住まいする家に思わず呼び鈴を押す。
屋内から出てこられたのはTさん。
おおーと云いながら顔合わせ。
何年ぶりにおあいするのだろうか。
たぶん平成24年の天満神社の宵宮が最後だったように思える。
そのときの行事の状況は調査報告書に残された。
その日の基調講演に登場した吉村旭輝さんが天満神社の宵宮を調査されていた。
平成28年11月15日に行われた「農とつながる伝統祭事フォーラム」に基調講演をされていた吉村さん。
神社行事の翁舞を調査された報告書は『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』にある。
詳しくは平成26年3月末に発刊された調査報告書を読んでいただければ幸いであるが、販売はされていない。
最寄りの図書館に置いてあるはずなので是非探してもらいたい。
なんでも大西でお会いしたO宮司から私のことを聞いていたようだ。
甥っ子になるO宮司の父親に嫁いだのがTさんの姉。
O宮司はTさんのことを叔父と云っていたので、親族繋がりがやっとわかった。
高尾の民俗調査の発端は南山城村の北大河原の産直販売店。
その売り場で聞いたカンセンギョ・・・の言葉に反応されたTさん。
それなら我が家でもしているというのだから、これまた驚きである。
今は名誉宮司になられたが、Oさんに引き継いだ兼社は17カ所。
山添村が多いらしいが、宮さん行事以外にカンセンギョの言葉がTさん直々に話してくださるのは光栄である。
供えるところを案内してあげる、といわれてくっついていく。
川沿いの道路に沿って東に数百メートル。
大きな木がある。
その木は太くなったフジツルが絡んでいるカシの木。
その下に大岩があるという。
昭和2年に拡張された道路によって大岩の頭の部分が動いたらしい。
大岩には由来があるというTさんは昭和4年生まれ。
現在88歳である。
道路格闘時代はまだ生まれてはいないがその由来とは・・。
なんでも豊臣秀吉の時代になる。
大坂城築城の際に地方から寄進された大岩は城造りの石に利用された。
秀吉から命令がきた興ケ原町はそうしたか、である。
秀吉を命令を避けるためには大岩が動かないことを示したい。
それが理由にした地蔵石仏に転化した。
地蔵さんであれば命令に背いたことにはならず、動かせないという理由にしたのである。
結局は運べという話しは消えた。
その地蔵さんはカシの木の下にあると云って案内する。
どこをそう探っても地蔵さんの姿は見えない。
Tさんがいうには深彫りの地蔵さん。
線刻であれば、見つかり難いが、深彫りであれば・・と思うのだが、見つからない。
そういう結果であったが、カンセンギョに供える場には違いない。
大寒の日になるのか、覚えておられなかったが、家族の何人かが膳に盛ったアブラゲメシを供えにいくというから、是非とも、である。
ちなみに稲荷講に属しているT家であるが、講中の皆がそこへ供えることなく、T家だけの特有の祭り方である。
稲荷講は真言宗御室派安楽寺に属するようだが、寺行事ではないカンセンギョが行われると想定される日が近くになったころにお電話をさせていただくことにした。
ちなみTさんが出仕していた山添村の各村。
今年の1月のオコナイを取材させてもらった鵜山もあれば、葛も、である。
両村とも実は三重県に同名の村がある。
いずれも明治時代になってから分かれた村である。
T家を離れて再び街道に戻る。
ここから次の村が柳生である。
橋架かりに信号機がある。
ここまで来れば通り過ぎるわけにはいかない。
これもまた何年もお会いしていないI家がある。
Iさんは現職宮司。
なにかとお世話になってきた宮司家の前を通り過ぎてしまったら罰が当たる。
運転するハンドルが意思を伝えてくれて右に切る。
目の前にI夫妻がおられた。
運転席から手を振ったら、気がつかれた。
Iさんも、先にお会いしたTさんも賀状のやりとりをしている。
短い文で私の病いのことを伝えていたから、自ずとその話題になるが、こんなに元気になった顔に二人とも喜んでくれたのが嬉しい。
話題開口一番は奈良交通が動いてくれる神社巡り団体参拝ツアー。
ツアーコンダクターがなんと、なんとの南都銀行ではなく、奈良交通社勤務のTさんであった。
TさんがIさんも存じている写真家Nさんと写真で繋がっていたことを知って、どこでどう繋がっていくやら・・と驚いておられた。
久しぶりの顔合わせにやはりのIさんが出仕されている地域の行事話題。
中ノ川町の行事はIさんのおかげで宵宮を取材したことがあるが、近隣になる東鳴川町は未だに行けていない。
場所も知っているが、地区の長老とお会いできていなくて、そのままになっている。
Iさんが云うにはお供えにシトギ(粢)がある。
シトギの原材料は粳米の殻付き玄米。
その殻を除去するには板擦り作業がある。
板に挟んでゴシゴシ。
取れた殻は口で吹いて飛ばす。
まるで唐箕のように風起こしで殻を飛ばす。
奇麗になった玄米は粉挽きする。
米粉にしたら練りに入る。
練りに使う水分はお酒である。
アルコールは蒸発してしまうというシトギ作りは、それで終わりでなく、厚さが数センチの丸型に広げて出来上がり。
もう一つの特徴は重箱詰めの手造り料理である。
重箱は三つ。
一つは煮た捻りコンニャク。
二つ目に白菜のおひたし。
三つ目のお重は細い姿の酢ゴボウ。
これらお供えは下げて直会でいただく。
お重の料理は味付けしているからすぐ食べられるが、シトギは電熱コンロで焼いて食べるそうだ。
その行事日は第二日曜日。
諦めるか、それとも・・。
(H29. 9.19 SB932SH撮影)
カーナビゲーションにセットしたのは大和郡山市の自宅まで。
高尾からの戻り道を指示するルートは柳生経由の奈良市内行き。
初めて通る道にワクワクする。
ほんの2kmぐらいだろうか。
開けた地に出たところは三叉路。
左右を走る道路は広くなった。
ここはどこ。
カーナビゲーションが表示した地名は奈良市邑地町。
えっ、ここに出て来たのか。
邑地町といえば水越神社の宵宮を取材したことがある。
当時は取材の細かさは聞き取りできていないが、宵宮に奉納される翁の舞や袖を触るジンパイやふんどし姿で神さんにささげる神事スモウがある。
平成17年の10月8日の状況であるが、未だに翌日の昼間に行われる本祭は見たことがない。
第二日曜日は無理なこと。
諦めの気持ちである。
撮らせてもらった写真に著書の『奈良大和路の年中行事』も献本させてもらった村である。
目と鼻の先に繋がっていた奈良の邑地町と京都の高尾の距離に驚いたものだ。
その先を示したカーナビゲーションは右へいけ、である。
指示にもう反逆するつもりはない。
奈良市内に向けて、GO(ゴー)である。
見覚えのある史跡が右手に見ながらカーブを曲がり切る。
その直後に現われた民家が数軒。
一番手前にあったお家の玄関に注連縄があった。
もしかとすれば、もしかとすれば、と思って急停車。
道路脇に停めて表札を見れば、ここであったのか、と嬉しさがこみ上げる。
興ヶ原町在住のTさんだ。
80歳はとっくにクリアーしている元宮司。
地元興ヶ原町では天満神社の宵宮を取材させてもらったことがある。
平成24年10月15日だった。
その年は宮司の務めをしながら当家も務められた。
宮司は2年前に引退された。
退任および宮司引継ぎを伝える封書をいただいたのは平成28年の4月7日。
宮司職を退職されたのはその年の3月末だった。
その宮司後任に指名されたのは甥っ子の奈良市阪原町に住まいするO宮司。
先代の親父さんも存知している親子である。
O宮司とは前年の平成28年12月4日。
引き継がれた山添村大西の稲荷神社の新嘗祭に出会った。
そのときの話題は神職を引退されたTさんのことだった。
通知も、Tさんからの直接の電話も貰っていたから、できる限り、早めにお会いしたいと思っていた。
家に帰れば住居番地はわかるが、なければ聞かざるを得ない。
そう思っていた日々。
いきなり現れたTさんが住まいする家に思わず呼び鈴を押す。
屋内から出てこられたのはTさん。
おおーと云いながら顔合わせ。
何年ぶりにおあいするのだろうか。
たぶん平成24年の天満神社の宵宮が最後だったように思える。
そのときの行事の状況は調査報告書に残された。
その日の基調講演に登場した吉村旭輝さんが天満神社の宵宮を調査されていた。
平成28年11月15日に行われた「農とつながる伝統祭事フォーラム」に基調講演をされていた吉村さん。
神社行事の翁舞を調査された報告書は『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』にある。
詳しくは平成26年3月末に発刊された調査報告書を読んでいただければ幸いであるが、販売はされていない。
最寄りの図書館に置いてあるはずなので是非探してもらいたい。
なんでも大西でお会いしたO宮司から私のことを聞いていたようだ。
甥っ子になるO宮司の父親に嫁いだのがTさんの姉。
O宮司はTさんのことを叔父と云っていたので、親族繋がりがやっとわかった。
高尾の民俗調査の発端は南山城村の北大河原の産直販売店。
その売り場で聞いたカンセンギョ・・・の言葉に反応されたTさん。
それなら我が家でもしているというのだから、これまた驚きである。
今は名誉宮司になられたが、Oさんに引き継いだ兼社は17カ所。
山添村が多いらしいが、宮さん行事以外にカンセンギョの言葉がTさん直々に話してくださるのは光栄である。
供えるところを案内してあげる、といわれてくっついていく。
川沿いの道路に沿って東に数百メートル。
大きな木がある。
その木は太くなったフジツルが絡んでいるカシの木。
その下に大岩があるという。
昭和2年に拡張された道路によって大岩の頭の部分が動いたらしい。
大岩には由来があるというTさんは昭和4年生まれ。
現在88歳である。
道路格闘時代はまだ生まれてはいないがその由来とは・・。
なんでも豊臣秀吉の時代になる。
大坂城築城の際に地方から寄進された大岩は城造りの石に利用された。
秀吉から命令がきた興ケ原町はそうしたか、である。
秀吉を命令を避けるためには大岩が動かないことを示したい。
それが理由にした地蔵石仏に転化した。
地蔵さんであれば命令に背いたことにはならず、動かせないという理由にしたのである。
結局は運べという話しは消えた。
その地蔵さんはカシの木の下にあると云って案内する。
どこをそう探っても地蔵さんの姿は見えない。
Tさんがいうには深彫りの地蔵さん。
線刻であれば、見つかり難いが、深彫りであれば・・と思うのだが、見つからない。
そういう結果であったが、カンセンギョに供える場には違いない。
大寒の日になるのか、覚えておられなかったが、家族の何人かが膳に盛ったアブラゲメシを供えにいくというから、是非とも、である。
ちなみに稲荷講に属しているT家であるが、講中の皆がそこへ供えることなく、T家だけの特有の祭り方である。
稲荷講は真言宗御室派安楽寺に属するようだが、寺行事ではないカンセンギョが行われると想定される日が近くになったころにお電話をさせていただくことにした。
ちなみTさんが出仕していた山添村の各村。
今年の1月のオコナイを取材させてもらった鵜山もあれば、葛も、である。
両村とも実は三重県に同名の村がある。
いずれも明治時代になってから分かれた村である。
T家を離れて再び街道に戻る。
ここから次の村が柳生である。
橋架かりに信号機がある。
ここまで来れば通り過ぎるわけにはいかない。
これもまた何年もお会いしていないI家がある。
Iさんは現職宮司。
なにかとお世話になってきた宮司家の前を通り過ぎてしまったら罰が当たる。
運転するハンドルが意思を伝えてくれて右に切る。
目の前にI夫妻がおられた。
運転席から手を振ったら、気がつかれた。
Iさんも、先にお会いしたTさんも賀状のやりとりをしている。
短い文で私の病いのことを伝えていたから、自ずとその話題になるが、こんなに元気になった顔に二人とも喜んでくれたのが嬉しい。
話題開口一番は奈良交通が動いてくれる神社巡り団体参拝ツアー。
ツアーコンダクターがなんと、なんとの南都銀行ではなく、奈良交通社勤務のTさんであった。
TさんがIさんも存じている写真家Nさんと写真で繋がっていたことを知って、どこでどう繋がっていくやら・・と驚いておられた。
久しぶりの顔合わせにやはりのIさんが出仕されている地域の行事話題。
中ノ川町の行事はIさんのおかげで宵宮を取材したことがあるが、近隣になる東鳴川町は未だに行けていない。
場所も知っているが、地区の長老とお会いできていなくて、そのままになっている。
Iさんが云うにはお供えにシトギ(粢)がある。
シトギの原材料は粳米の殻付き玄米。
その殻を除去するには板擦り作業がある。
板に挟んでゴシゴシ。
取れた殻は口で吹いて飛ばす。
まるで唐箕のように風起こしで殻を飛ばす。
奇麗になった玄米は粉挽きする。
米粉にしたら練りに入る。
練りに使う水分はお酒である。
アルコールは蒸発してしまうというシトギ作りは、それで終わりでなく、厚さが数センチの丸型に広げて出来上がり。
もう一つの特徴は重箱詰めの手造り料理である。
重箱は三つ。
一つは煮た捻りコンニャク。
二つ目に白菜のおひたし。
三つ目のお重は細い姿の酢ゴボウ。
これらお供えは下げて直会でいただく。
お重の料理は味付けしているからすぐ食べられるが、シトギは電熱コンロで焼いて食べるそうだ。
その行事日は第二日曜日。
諦めるか、それとも・・。
(H29. 9.19 SB932SH撮影)