十津川村から戻ってすぐさま確認したおふくろの状態。
旅先の十津川から9月30日に架けた電話の声は相変わらずの状態だと伝えていた。
何かが起これば直ちにケータイしてくれと頼んでいたが、翌日の10月1日もかかってこなかったから現地から電話を入れた。
相変わらずの状態という状態そのものが不安で仕方なかった。
大和高田駅で解散したあとは孤独にさいなまれる。
もう、車いすには乗り込めないだろうと思っていた。
そうであればおんぶするしかない。
何日か前もそうしたかったが、本人は身体が痛くておんぶどころではなかった。
中腰もできない。
膝で立つこともできなかったから諦めた。
結局はハイハイの這いつくばり移動でなんとか間に合った。
帰るなり、かーさんが云った言葉は「明日のブロック注射も歯医者も行けません」であった。
最悪のおんぶも閉ざされた。
どうすることもアイキャンノット。
お手上げだ。
おふくろを運べないなら救急車。
行先は大阪・住之江の須見整形外科医院。
救急車にお願いしてもそりゃ無理だ。
あり得ない選択であるが、大和郡山市内の医院なら可能である。
もう一つの選択は往診治療である。
須見整形外科医院でしてもらおうとしていたブロック注射を往診医にお願いする。
いきなり電話をしてくれるのだろうか。
これもまたあり得ない選択である。
悩んだ解決手段はそれぐらいしか思いつかないが、果たしてそれでいいのだろうか。
かーさんと相談した結果は、介護であろうが、何であろうが、相談したいことがあれば大阪・住之江の地域包括支援センターへ電話してくださいの一言である。
助けを求めるのはここへ頼むしかない。
そう思って就寝についた。
おふくろは食欲も落ちていた。
なんとかしたいが、明日の2日の朝を待つしかない。
2日の午前9時である。
番号をプッシュする先は大阪・住之江の地域包括支援センター。
受話器を取られたから相談にのってくださるB職員の名を告げて指名する。
B職員とお会いしてお願いにあがったのは前月の9月27日。
翌日の28日から痛みが強くなり、今はもう歩くことも不可能な状況でどうすればいいのでしょうか、とお願いする。
28日、29日、30日、1日の4日間の身体状況を伝えたら、介護と治療は別、と云われた。
介護よりも優先すべきは治療。
介護はそれからだと云う。
この言葉に、はっと気がついた。
そうなんだ。
痛む原因を探って判れば適切な処置をする。
それが医療である。
身体状況から専門家による運搬が望ましい。
望ましいというよりもそれしかない。
つまりは救急車の要請である。
救急車の行先は県内の大病院に。
レントゲン検査などがきちんとできる大病院。
おふくろのカルテがある大病院ならもちろん、である。
私が伝えるおふくろの現状。
話しの状況からB職員が推測された結果は、圧迫骨折のように思える、ということだ。
ハイハイで移動しておれば手や腕に負担がかかり、いずれは全身が動けないようになる、という。
B職員は介護福祉士。
経験豊富な職員の体験を話される。
要介護の患者さんを介護していた。
おふくろのような痛みが突発的に発症した。
介護している家といえば患者さんがお住まいする自宅で発症した。
動かすことはままならない。
こういう場合も救急車を呼ぶことになる。
ものごとは先に解決すべきことを優先する。
こういったご指示を伝えてくださって心のもやもやが溶けた。
すぐさま救急車を呼びたいところだが、急激な変化に対応するのはおふくろである。
相談した結果をおふくろに伝える。
痛みは辛い。
なんとかして欲しいと願っているのはおふくろ。
そうさせてあげたい手段が救急車。
検査もしてもらって治療に専念しよう、と話しかけたら、そうして、と答えた。
事情を察して同意したおふくろはよろしくお願いします、と手を合わす。
救急車をコールする役目はかーさんにバトンタッチ。
私であれば、長々といらんことまで話してしまいそうだから、交替してくれとバトンを渡した。
10年以上も前のことだ。
隣に住んでいた老女が倒れた。
救急車をコールしたのはかーさんだ。
経験があるからバトンタッチした。
簡潔明瞭に伝える。
後は救急受付者の質問に対して答えるだけだ。
受話器を置いておよそ7分後に到着すると伝えられて外で待つ。
玄関を出て外に。
しばらくすれば遠くの方からサイレンの音が聞こえる。
それは小さな音であったが、徐々に大きくなる。
自宅近くになればピタッとサイレンが停まった。
時間は午前10時56分になっていた。
玄関先に出て救急に我が家はここですと手を振って合図する。
一人の隊員がすぐさまおふくろが居るリビング部屋に飛び込む。
身体状況を問診する隊員。
もう一人の隊員も降りて来て、レスキュー担架やストレッチャーがすんなり通れるように息子次男の単車を移動してくださいと云われる。
一人ではなかなか動かせない重たい単車。
私も手伝いましょうと云ってくれたのが嬉しい。
そうして担架になんとか乗せてから車付きストレッチャーへ。
時間帯は午前11時11分。
身体状況は歩けないもの。
一分一秒を争う緊急具合い。
移動する際に痛さを感じさせないようにしてくださる。
かーさんも乗り込んで、いざ、出発・・・にはならない。
救急車が向かう先は車内から連絡をされる電話でやり取り。
受け入れ先の病院が決まればお教えしますので、待ってくださいと云われる。
私は愛車に乗って待っていた。
決定した時間帯は午前11時12分。
早い決定である。
先に出発した救急車。
同乗しているかーさんから電話が鳴った。
行先は田北病院だ。
私もおふくろも入院・治療を受けた病院。
どの道を行けばいいのか周知している。
私は救急車が移動した方向とは真逆の方向で走る。
地区をぐるりと旋回して田北病院に向かう道に出合う突然サイレンを鳴らしはじめた救急車。
住宅地から現れた。
そこからは幹線道を行く救急車。
私は真逆の地道を行く。
たぶんに次に出合う場所はあそこだ。
そう思っていた通りに遭遇する。
私が病院に着いて玄関に向かっていたら、救急車はもぬけの殻。
早くも救急診察室に入ったようだ。
その時間は午前11時23分。
いかに近くであるのかよくわかる。
まずは午前11時30分にはじまったレントゲン撮影。
診察した医師が云う。
レントゲン検査の結果は「骨折しています」である。
詳しい部位を診たいからと云われて、その次にはじまったMRI検査。
時間帯は午前11時50分だ。
精密な画像が得られて呼び出された診察室。
そこで説明される医師は副医院長のⅠ整形外科医師。
レントゲンの結果では不鮮明で骨折は認められなかったが、MRI検査では骨折が判明した。
その箇所は胸椎(きょうつい)。
背骨の一部に変形が認められる。
正常な背骨であれば四角いが、骨折と判断される骨は一定の長さより短いという。
背骨が折れてあれば、他の背骨も折れている可能性がある。
骨折が判明した上の部分に下の部分も診ておこう。
念のために首から下の頸椎や骨盤の可能性もあるから大腿部・臀部も診ましょうということで、その2カ所を追加にMRI検査をしてみようということになった。
MRI検査はだいたいが20分もかかる検査。
2カ所もあるから合計で40分。
先ほどの検査も含めたトータル時間は1時間以上にもおよぶ検査に、おふくろの身体がもつだろうか。
91歳のおふくろの我慢はどこまでできるか・・、というよりもガンバッて欲しいのである。
それらが終わった午後1時50分。
長時間に亘った検査はようやく終えた。
それから始まった医師の診断結果は、胸椎骨折が2骨とわかった。
痛みの原因は骨折であったのだ。
その部分を映像で示してくださる。
2骨のうち、下の骨は白い映像。
それを診た医師は、この骨折は最近というか、直近に発症したもの。
その真上にある骨折カ所は黒いことから、以前に発症したものと推定される。
骨折部に発症した日付け記録はどこにも書いていないが、考えられるのは白い骨折は9月21日の夜に発症したものであろう。
骨折はあったが、痛み激しく動けなくなったのは9月28日だ。
そのときにはさらに損壊が酷くなったのかもしれない。
黒い骨折は間違ってなければ8月5日。
その日は背中が痛かった。
翌日の6日は腰の辺りが痛くなった。
そして、7日が強い痛みに歩けなくなった。
後日にわかったことだが、5日の前は胸が痛かったというのである。
MRI検査は横から撮影された画像を映し出す。
背骨が曲がる部分は第5骨・第6骨辺り。
猫背姿になる辺りだ。曲がった背中に沿って神経が走っている。
その曲がったところの骨折部が神経線スレスレに当たっているようだという。
その神経が擦れて当たることによって痛みが発症する。
それは当たった部分以外にも影響を与える。
背中が、腰が、臀部が、太ももがと痛み部分が移動したのではなく、擦れた神経が線を伝って他にも痛みを発症したのであろう。
痛みの原因のそもそもは今回の検査で判明した第5骨・第6骨辺りの圧迫骨折であった。
救急に診てもらった8月7日の大阪住之江の友愛会病院も同じMRI検査。
精度は異なるかもしれないし、痛みがあった部分しか検査していなかったことも。
発見できなかったのは、友愛会病院のせいでもないが、その上部の骨折であったことがようやくわかった。
今さら悔やんでも仕方はないが、あのときにもっと積極的に医師に詰めておれば・・ここまで病状が悪化もしなかった、なんてことを言いたくもなる。
原因がはっきりすれば治療処置であるが、骨粗しょう症による圧迫骨折を治すには安静加療しかない。
我が家で安静状態を診ることは不可能である。
トイレもそうだが、身体を動かしてしまうから安静を保つのは無理がある。
先生、お願いします、と要請するしかない。
医師が云った。
入院を受け入れることは可能であるが、ナースステーションより離れた病室になるが・・である。
動けない状態であれば遠く、近くは関係ない。
認知症の疑いがまったく認められないおふくろの意識。
遠いところですが、良いでしょうか、の答えはよろしくお願いします、である。
原因は骨折とわかっても、骨粗しょう症による圧迫骨折だけに手術を施すなどの根本的な治療はできない。
安静加療、しかも自然治癒に任せるしかないという入院措置である。
入院は2週間。胸椎骨折をガード、フォローするには特殊なコルセット装着が必要になる。
製品はアメリカ製。
一人、一人の身体つきが違うから採寸して補装具を調整しなければならない。
この日に駐在していた㈱冨金原義肢の義肢装具士の手によって採寸された。
座っているのも難しいおふくろの採寸は寝たまま採寸。
時間もかかったようだ。
調製、出来上がりは3日後の10月5日にでき上がる。
そのときに支払う現金払いは高額。領収書並びに医師の意見書を添えて大阪住之江区の区役所に申請する後期高齢者補助手続きによって9割が戻ってくる。
1割負担でも4900円ほどになるから補助がなければ負担額は大きい。
でき上って装着するコルセットは背骨をがっちりガードする上半身装具。
逆に背中を前に屈めることはできないデメリットもある。
医師はもう一つの補助具を勧める。
勧めるといっても半ば強制である。
それはエコノミークラス症候群の防止である。
身体が太っている人ほどかかりやすいエコノミークラス症候群。
震災などで避難に選んだ狭い自家用車暮らし。
稀には飛行機の乗客にもあり得る症候群を防止するには足元に履くストッキングである。
91歳のおふくろは肥満体でなく、どちらかと云えば痩せている方だ。
そういう場合は症候群にはかかりにくいが、長期間に亘って寝たきり安静状態を保つには血の流れが遅滞する。
それを避けるためのストッキングは血液が堪らないようにする装具である。
ストレッチャーで運ばれたおふくろは病室へ。
部屋のベッドに移されてやっと落ち着いた。
ある程度の用意をしていたが、足らないものがいっぱいある。
自宅へ戻って大急ぎのUターン。
ベッドに横になったおふくろは入院を受け入れてくれたと、手を合わせて喜んでいた。
自宅に戻った時間帯は午後4時半にもなっていた。
落ち着いたところで報告しなければならないのは住之江の地域包括支援センターへの報告である。
検査の結果や入院になったことを伝えなくてはならない。
相談にのってくださったB職員に、おかげさまで原因もわかって安静加療に地元大病院の田北病院に2週間の入院などを伝えたら、今後の対応も考えてほしいというアドバイスである。
一つはおふくろが住んでいる4階から移転して1階に移っていただくこと。
これは大阪阿倍野の監理事務所に出向くことだ。
もう一つは移転ではなく、独り暮らしそのものが不可能になることも考えられるので、介護を受けられる高齢者マンションを探しておくことである。
できれば往復など負担軽減を考えて大和郡山市内の施設を市内の地域包括支援センターへ申し出て教えてもらうことである。
介護保険サービスの提供を受けるには、まずは、地域包括支援センターへ出向くこと。
サービス提供にどういうものがあるのか、認識するとともに、認定を受けた要支援の区別変更申請をすることである。
現状をみれば、要支援ではなく要介護になるべき状況であると判断された。
申し出をするときは「私の名刺を提示してください」と云われるB職員の心遣いが嬉しい。
その夜は身も心も解けてぐっすり寝てしまった。
(H29.10. 2 SB932SH撮影)
旅先の十津川から9月30日に架けた電話の声は相変わらずの状態だと伝えていた。
何かが起これば直ちにケータイしてくれと頼んでいたが、翌日の10月1日もかかってこなかったから現地から電話を入れた。
相変わらずの状態という状態そのものが不安で仕方なかった。
大和高田駅で解散したあとは孤独にさいなまれる。
もう、車いすには乗り込めないだろうと思っていた。
そうであればおんぶするしかない。
何日か前もそうしたかったが、本人は身体が痛くておんぶどころではなかった。
中腰もできない。
膝で立つこともできなかったから諦めた。
結局はハイハイの這いつくばり移動でなんとか間に合った。
帰るなり、かーさんが云った言葉は「明日のブロック注射も歯医者も行けません」であった。
最悪のおんぶも閉ざされた。
どうすることもアイキャンノット。
お手上げだ。
おふくろを運べないなら救急車。
行先は大阪・住之江の須見整形外科医院。
救急車にお願いしてもそりゃ無理だ。
あり得ない選択であるが、大和郡山市内の医院なら可能である。
もう一つの選択は往診治療である。
須見整形外科医院でしてもらおうとしていたブロック注射を往診医にお願いする。
いきなり電話をしてくれるのだろうか。
これもまたあり得ない選択である。
悩んだ解決手段はそれぐらいしか思いつかないが、果たしてそれでいいのだろうか。
かーさんと相談した結果は、介護であろうが、何であろうが、相談したいことがあれば大阪・住之江の地域包括支援センターへ電話してくださいの一言である。
助けを求めるのはここへ頼むしかない。
そう思って就寝についた。
おふくろは食欲も落ちていた。
なんとかしたいが、明日の2日の朝を待つしかない。
2日の午前9時である。
番号をプッシュする先は大阪・住之江の地域包括支援センター。
受話器を取られたから相談にのってくださるB職員の名を告げて指名する。
B職員とお会いしてお願いにあがったのは前月の9月27日。
翌日の28日から痛みが強くなり、今はもう歩くことも不可能な状況でどうすればいいのでしょうか、とお願いする。
28日、29日、30日、1日の4日間の身体状況を伝えたら、介護と治療は別、と云われた。
介護よりも優先すべきは治療。
介護はそれからだと云う。
この言葉に、はっと気がついた。
そうなんだ。
痛む原因を探って判れば適切な処置をする。
それが医療である。
身体状況から専門家による運搬が望ましい。
望ましいというよりもそれしかない。
つまりは救急車の要請である。
救急車の行先は県内の大病院に。
レントゲン検査などがきちんとできる大病院。
おふくろのカルテがある大病院ならもちろん、である。
私が伝えるおふくろの現状。
話しの状況からB職員が推測された結果は、圧迫骨折のように思える、ということだ。
ハイハイで移動しておれば手や腕に負担がかかり、いずれは全身が動けないようになる、という。
B職員は介護福祉士。
経験豊富な職員の体験を話される。
要介護の患者さんを介護していた。
おふくろのような痛みが突発的に発症した。
介護している家といえば患者さんがお住まいする自宅で発症した。
動かすことはままならない。
こういう場合も救急車を呼ぶことになる。
ものごとは先に解決すべきことを優先する。
こういったご指示を伝えてくださって心のもやもやが溶けた。
すぐさま救急車を呼びたいところだが、急激な変化に対応するのはおふくろである。
相談した結果をおふくろに伝える。
痛みは辛い。
なんとかして欲しいと願っているのはおふくろ。
そうさせてあげたい手段が救急車。
検査もしてもらって治療に専念しよう、と話しかけたら、そうして、と答えた。
事情を察して同意したおふくろはよろしくお願いします、と手を合わす。
救急車をコールする役目はかーさんにバトンタッチ。
私であれば、長々といらんことまで話してしまいそうだから、交替してくれとバトンを渡した。
10年以上も前のことだ。
隣に住んでいた老女が倒れた。
救急車をコールしたのはかーさんだ。
経験があるからバトンタッチした。
簡潔明瞭に伝える。
後は救急受付者の質問に対して答えるだけだ。
受話器を置いておよそ7分後に到着すると伝えられて外で待つ。
玄関を出て外に。
しばらくすれば遠くの方からサイレンの音が聞こえる。
それは小さな音であったが、徐々に大きくなる。
自宅近くになればピタッとサイレンが停まった。
時間は午前10時56分になっていた。
玄関先に出て救急に我が家はここですと手を振って合図する。
一人の隊員がすぐさまおふくろが居るリビング部屋に飛び込む。
身体状況を問診する隊員。
もう一人の隊員も降りて来て、レスキュー担架やストレッチャーがすんなり通れるように息子次男の単車を移動してくださいと云われる。
一人ではなかなか動かせない重たい単車。
私も手伝いましょうと云ってくれたのが嬉しい。
そうして担架になんとか乗せてから車付きストレッチャーへ。
時間帯は午前11時11分。
身体状況は歩けないもの。
一分一秒を争う緊急具合い。
移動する際に痛さを感じさせないようにしてくださる。
かーさんも乗り込んで、いざ、出発・・・にはならない。
救急車が向かう先は車内から連絡をされる電話でやり取り。
受け入れ先の病院が決まればお教えしますので、待ってくださいと云われる。
私は愛車に乗って待っていた。
決定した時間帯は午前11時12分。
早い決定である。
先に出発した救急車。
同乗しているかーさんから電話が鳴った。
行先は田北病院だ。
私もおふくろも入院・治療を受けた病院。
どの道を行けばいいのか周知している。
私は救急車が移動した方向とは真逆の方向で走る。
地区をぐるりと旋回して田北病院に向かう道に出合う突然サイレンを鳴らしはじめた救急車。
住宅地から現れた。
そこからは幹線道を行く救急車。
私は真逆の地道を行く。
たぶんに次に出合う場所はあそこだ。
そう思っていた通りに遭遇する。
私が病院に着いて玄関に向かっていたら、救急車はもぬけの殻。
早くも救急診察室に入ったようだ。
その時間は午前11時23分。
いかに近くであるのかよくわかる。
まずは午前11時30分にはじまったレントゲン撮影。
診察した医師が云う。
レントゲン検査の結果は「骨折しています」である。
詳しい部位を診たいからと云われて、その次にはじまったMRI検査。
時間帯は午前11時50分だ。
精密な画像が得られて呼び出された診察室。
そこで説明される医師は副医院長のⅠ整形外科医師。
レントゲンの結果では不鮮明で骨折は認められなかったが、MRI検査では骨折が判明した。
その箇所は胸椎(きょうつい)。
背骨の一部に変形が認められる。
正常な背骨であれば四角いが、骨折と判断される骨は一定の長さより短いという。
背骨が折れてあれば、他の背骨も折れている可能性がある。
骨折が判明した上の部分に下の部分も診ておこう。
念のために首から下の頸椎や骨盤の可能性もあるから大腿部・臀部も診ましょうということで、その2カ所を追加にMRI検査をしてみようということになった。
MRI検査はだいたいが20分もかかる検査。
2カ所もあるから合計で40分。
先ほどの検査も含めたトータル時間は1時間以上にもおよぶ検査に、おふくろの身体がもつだろうか。
91歳のおふくろの我慢はどこまでできるか・・、というよりもガンバッて欲しいのである。
それらが終わった午後1時50分。
長時間に亘った検査はようやく終えた。
それから始まった医師の診断結果は、胸椎骨折が2骨とわかった。
痛みの原因は骨折であったのだ。
その部分を映像で示してくださる。
2骨のうち、下の骨は白い映像。
それを診た医師は、この骨折は最近というか、直近に発症したもの。
その真上にある骨折カ所は黒いことから、以前に発症したものと推定される。
骨折部に発症した日付け記録はどこにも書いていないが、考えられるのは白い骨折は9月21日の夜に発症したものであろう。
骨折はあったが、痛み激しく動けなくなったのは9月28日だ。
そのときにはさらに損壊が酷くなったのかもしれない。
黒い骨折は間違ってなければ8月5日。
その日は背中が痛かった。
翌日の6日は腰の辺りが痛くなった。
そして、7日が強い痛みに歩けなくなった。
後日にわかったことだが、5日の前は胸が痛かったというのである。
MRI検査は横から撮影された画像を映し出す。
背骨が曲がる部分は第5骨・第6骨辺り。
猫背姿になる辺りだ。曲がった背中に沿って神経が走っている。
その曲がったところの骨折部が神経線スレスレに当たっているようだという。
その神経が擦れて当たることによって痛みが発症する。
それは当たった部分以外にも影響を与える。
背中が、腰が、臀部が、太ももがと痛み部分が移動したのではなく、擦れた神経が線を伝って他にも痛みを発症したのであろう。
痛みの原因のそもそもは今回の検査で判明した第5骨・第6骨辺りの圧迫骨折であった。
救急に診てもらった8月7日の大阪住之江の友愛会病院も同じMRI検査。
精度は異なるかもしれないし、痛みがあった部分しか検査していなかったことも。
発見できなかったのは、友愛会病院のせいでもないが、その上部の骨折であったことがようやくわかった。
今さら悔やんでも仕方はないが、あのときにもっと積極的に医師に詰めておれば・・ここまで病状が悪化もしなかった、なんてことを言いたくもなる。
原因がはっきりすれば治療処置であるが、骨粗しょう症による圧迫骨折を治すには安静加療しかない。
我が家で安静状態を診ることは不可能である。
トイレもそうだが、身体を動かしてしまうから安静を保つのは無理がある。
先生、お願いします、と要請するしかない。
医師が云った。
入院を受け入れることは可能であるが、ナースステーションより離れた病室になるが・・である。
動けない状態であれば遠く、近くは関係ない。
認知症の疑いがまったく認められないおふくろの意識。
遠いところですが、良いでしょうか、の答えはよろしくお願いします、である。
原因は骨折とわかっても、骨粗しょう症による圧迫骨折だけに手術を施すなどの根本的な治療はできない。
安静加療、しかも自然治癒に任せるしかないという入院措置である。
入院は2週間。胸椎骨折をガード、フォローするには特殊なコルセット装着が必要になる。
製品はアメリカ製。
一人、一人の身体つきが違うから採寸して補装具を調整しなければならない。
この日に駐在していた㈱冨金原義肢の義肢装具士の手によって採寸された。
座っているのも難しいおふくろの採寸は寝たまま採寸。
時間もかかったようだ。
調製、出来上がりは3日後の10月5日にでき上がる。
そのときに支払う現金払いは高額。領収書並びに医師の意見書を添えて大阪住之江区の区役所に申請する後期高齢者補助手続きによって9割が戻ってくる。
1割負担でも4900円ほどになるから補助がなければ負担額は大きい。
でき上って装着するコルセットは背骨をがっちりガードする上半身装具。
逆に背中を前に屈めることはできないデメリットもある。
医師はもう一つの補助具を勧める。
勧めるといっても半ば強制である。
それはエコノミークラス症候群の防止である。
身体が太っている人ほどかかりやすいエコノミークラス症候群。
震災などで避難に選んだ狭い自家用車暮らし。
稀には飛行機の乗客にもあり得る症候群を防止するには足元に履くストッキングである。
91歳のおふくろは肥満体でなく、どちらかと云えば痩せている方だ。
そういう場合は症候群にはかかりにくいが、長期間に亘って寝たきり安静状態を保つには血の流れが遅滞する。
それを避けるためのストッキングは血液が堪らないようにする装具である。
ストレッチャーで運ばれたおふくろは病室へ。
部屋のベッドに移されてやっと落ち着いた。
ある程度の用意をしていたが、足らないものがいっぱいある。
自宅へ戻って大急ぎのUターン。
ベッドに横になったおふくろは入院を受け入れてくれたと、手を合わせて喜んでいた。
自宅に戻った時間帯は午後4時半にもなっていた。
落ち着いたところで報告しなければならないのは住之江の地域包括支援センターへの報告である。
検査の結果や入院になったことを伝えなくてはならない。
相談にのってくださったB職員に、おかげさまで原因もわかって安静加療に地元大病院の田北病院に2週間の入院などを伝えたら、今後の対応も考えてほしいというアドバイスである。
一つはおふくろが住んでいる4階から移転して1階に移っていただくこと。
これは大阪阿倍野の監理事務所に出向くことだ。
もう一つは移転ではなく、独り暮らしそのものが不可能になることも考えられるので、介護を受けられる高齢者マンションを探しておくことである。
できれば往復など負担軽減を考えて大和郡山市内の施設を市内の地域包括支援センターへ申し出て教えてもらうことである。
介護保険サービスの提供を受けるには、まずは、地域包括支援センターへ出向くこと。
サービス提供にどういうものがあるのか、認識するとともに、認定を受けた要支援の区別変更申請をすることである。
現状をみれば、要支援ではなく要介護になるべき状況であると判断された。
申し出をするときは「私の名刺を提示してください」と云われるB職員の心遣いが嬉しい。
その夜は身も心も解けてぐっすり寝てしまった。
(H29.10. 2 SB932SH撮影)