大和郡山市内のさまざまな地区に見られた砂の道。
氏神さんに参る導きの道として、或いは神さんが我が家にやってくるという砂の道。
聞き取りした村の人たちの記憶。
一様に話された砂の道は一直線だった。
隣近所の家もしていた砂の道。
隣の家がしておれば我が家も。
集落道にずっと繋げた砂の道。
その道は神社まで繋がっていた。
それだけでは家の前を神さんが通り過ぎるだけである。
我が家にきてもらうにはその砂の道から門屋、玄関へと砂を敷いて繋げた。
あちこちの家で見られた砂の道はいずこも大晦日にしていた、という数珠繋ぎの砂の道である。
僅かだが、その面影が残っている白土町の砂の道。
氏神さんを祭る白坂神社がある。
本社殿から真っすぐに敷いた砂の道。
境内を通って鳥居まで。
まだまだ繋げて鳥居前の集落道まで繋げる砂の道。
かつては集落の1軒、1軒もしていたから壮観だったろう。
集落道はやがてアスファルト舗装になった。
風雨にさらされた砂の道は崩れて路面に広がる。
その結果は・・。
足元が滑る、自転車で走っていたカーブ道でずずっと滑る。
砂の道の体験ではないが、秋篠川に沿って舗装されている自転車道がある。
あるときカーブ道を通ったときだ。
カーブに車体を斜めにしたとたんにタイヤが滑った。
カーブに早い速度は禁物。
ブレーキをかけつつカーブを曲がったときに横滑りした。
一緒に走っていた息子の自転車も同じように滑った。
大きな事故にはならなんだのは速度を緩めていたからだ。
尤も、現在の自転車道は滑りにくい構造(※インターブロッキング舗装など)になっているからそうした事故は発生しないのだろう。
集落道はかつて土の道だったが、よほどのことがない限り滑ることのない柔らかめの土だった。
パンパンに硬い地面であれば滑ることもあるが、こんなところに砂があったら危険だというようになった。
それがすべての地区に当てはまる原因ではないが、集落道にしていた砂の道はほどなく消えた。
この日に取材した地区のMさんの記憶である。
土の道だった集落道がアスファルト舗装になったのはおよそ40年も前。
昭和50年ころの時代である。
土の道に雨が降って水溜まりができた。
そこを通り抜ける車のタイヤが撥ねる泥の水。
家の壁にバシャッと飛んだ泥水が点々・・。
泥水で汚れた壁をブラシでゴシゴシ。
乾拭きでなく水を流してゴシゴシ。
汚れをゴシゴシ洗っていた記憶。
蘇る記憶の中の映像はMさんが小学校高学年のころ。
昭和47年のころはまだ土の道だったようだ。
土の道だったころの砂の道は雨が降れば砂は流れて土に同化して土と化すから、正月が明けてもそのままにしていたが、アスファルト舗装では跡形が残る。
今では、正月2日、3日は箒で砂を掃いて奇麗にするが、それでも若干の跡形が残るが、滑ることはない。
その状態を見たのは、この年の1月2日だった。
ほぼ1年前に見た光景に感動して取材をお願いした。
お家を伺った日は年末の12月25日。
そのころであれば、砂の道をするか、しないかはっきりしているだろうと思って訪れた。
呼び鈴を押して出てこられた婦人に、貴重な砂の道造りの取材主旨を伝えた。
砂の道造りは息子さんがしているという。
門屋前の道から門屋を潜って屋内の敷地まで砂を敷いていく。
玄関近くまで撒く砂の道を祖母が呼んでいた「神さんがとおらはる道」。
以前は佐保川の砂を利用していたが、現在は店屋で買った砂を撒く。
そう話してくれたが、息子さんに聞いてみないと・・ということで承諾待ち。
数日経った30日に電話があった。
息子さんの奥さんが伝えてくれた許可電話である。
隣家のご主人もしていたが、お亡くなりになられたこともあって同家もしていた砂の道は途絶えたが、我が家は・・。
実は止めてしまうのが怖かったそうだ。
止めることによって何かが起きてしまうことにならないか。
不安を覚えることになっても・・と、いうことで今も継続してきた、という。
村の行事を中断する。
その後になんらかの事象が生じたから元の状態に戻したという事例を度々聞くことがある。
あのときに中断してしまったから、そうなった。
災いは避けたい、と村の総意で元に戻した事例もあれば、中断しても何も起こらなかったという事例もある。
そのときの決断は腹をくくって決めたのだろう、と思う。
その件は、ともかく代々がずっと継承してきた神さんが通らはる道作りである。
かつては造り酒屋、その後においては酒販売店。
そのような経緯もあったが、やがて廃業された旧家が今もなお継承されている「神さんが通らはる道」作りを拝見させていただく。
いつの時代から行われてきたのか。
始まり経緯の記録もなく、ただただ伝承してきた砂の道。
大和郡山市内にかつてあった地域は広範囲に亘っている。
聞き取りの範囲内であるが、地域は、高田町、天井町、伊豆七条町、横田町(※横田町では墓にも砂の道をしていた)の本村、横田町柳生垣内、番条町、井戸野町、新庄町、発志院町、小南町、※豊浦町、池之内町、椎木町、額田部町、馬司町、長安寺町、八条町、柏木町、筒井町に、であった。
氏神さんとの関係性は話題に登らなかったので不明だが、とにかく家の前に砂の道を敷いていたというのである。
なお、豊浦町については後年に地元住民のNさんから50年前に行われていた砂撒き情報を寄せられた。
外川町と同様に川砂は富雄川より。
氏神さんを祭る八幡神社に砂の道を撒いていたと伝えてくださった。
神社に繋がるようにしていた白土町の事例以外に新庄町鉾立の鉾立神社、観音寺町の八幡宮、野垣内町の若宮社がある。
前述した“滑る”から危険と判断されて集落道から砂の道が消えた。
野垣内町の事例では鳥居前の僅かな集落道にも撒いていた。
また、新庄町鉾立も僅かであるが鳥居前から集落道まで撒いていたが、近年はそれもやめたようだ。
この日に取材させていただく元酒商家のMさんの話によれば、隣近所のほとんどがしていたという。
向こう三軒両隣ではないが、集落道に沿った隣家、それぞれがしていた砂の道。
10軒の家がしていた砂の道が繋がった一本道。
F家、K家の他、おしめさんもしていたT家にT家、S家、Y家などなど。
北側に旧家もあるが、その道を通る道幅が狭くて、見る機会もないから、実際にしていたかどうかは定かでないという。
毎年、継承してきた砂の道作りは、一度中断したことがあるという。
父親が亡くなったその年は服忌。
やむを得ず中断した。
服忌明けの翌年の決断である。
隣家の当主は身体具合にほぼできなくなった。
亡くなる直前までしていた砂の道は、跡を継ぐ者もいなくて途絶えた。
Mさんに伝えた奥さんの思い。
「やめてしまうのは気持ちがよくない、続けたほうが・・」と進言。
やめる理由も見つからない。
最後に残ったM家は続けていく意思を固めた。
それからの毎年。
息子さんに娘さんも、気ぃ良く手伝ってくれているという。
先代、先々代のときは、数kmも離れた佐保川に出かけて綺麗な砂を掬って、それを撒いていたそうだ。
護岸工事の影響で川砂が消えた。
それ以来、市販の川砂を買ってしているという。
外川町の在り方も同じ。
富雄川の護岸工事で川砂が消えたということだ。
川砂が消えたことも砂の道をしなくなった理由。
先に挙げた観音寺町や柏木町の住民から聞いたことがある。
地区によって異なるが、西は富雄川。
東が秋篠川に佐保川。
いずれも護岸工事によって奇麗だった川砂が汚れた。
汚れた川砂で神さんが通る道を作るわけにはいかなくなった事例であるが、先に挙げた旧村各町の位置である。
距離に若干の差があるが、近くに川があったところに砂の道を作る旧村があったわけである。
出かけていた娘さん。
傘をさして帰宅したと同時にはじめた父親の手伝い。
父親が砂の道作りに用いた道具は塵取り。
農具の箕でなく掃き掃除道具の塵取りである。
先に拝見していた外川町の砂の道作り道具は箕だった。
砂を入れる量に差はあるが、用途は同じ。
道具は使いようであると思ったが、先代の奥さん、つまりMさんの母親の記憶は箕。
先代は箕を利用して砂を撒いていたという。
外川町の人たちと同じようにさっさ、さっさと道具を揺すって砂を少しずつ落とす。
落ちる面の線に沿って砂が落ちる。
少しずつ移動していくことで砂の道になる。
昔、先代がしていた光景を思い出されているように息子さんや孫の作業を見つめていた母親。
「神さんが通らはる道」ができていく姿を見ていた。
塵取りは一つしかないから、手伝う娘さんはスコップ。
砂置場と砂撒きの場を何度も往復して砂の道作り。
小雨の雨天決行に傘をもささずに作業していた。
砂を撒いていく箇所は前の道に横一本通し。
隣家の境界まで撒いていく。
その手前に同家所有の建物。
かつては酒蔵だったが、今は倉庫。
その扉がある出入り口の前まで砂を撒く。
集落道の砂の道ができたら場を移して屋内に。
門屋から玄関まで撒く一本の砂の道。
門屋から続く砂の道は庭まで。
そこへ行くまでの左右にある倉庫の出入り口も同じように短い砂の道。
5カ所も撒いていた。
さらには建屋の勝手口まで・・・。
父親と娘さんの共同作業はおよそ20分間。
大雨にならなかったのが幸い。
強い降りなら砂の道が流れてしまう。
除夜の鐘が鳴って年越し。
7時間半はなんとか小雨であってほしいと願うばかりだ。
どうぞ、お茶してくださいと暖房の効いたお部屋に座らせもらった。
座った前にテーブル。
これは何でしょうか、と思わず尋ねる物品。
3枚の折敷の右は燭台に立てた九つの蝋燭。
中央は二段重ねの小餅が七つ。
左はなにもないが、時間ともなればお神酒を、という。
造り酒屋の時代から蔵など、いろんな処にお燈明を灯す。
小餅にお神酒を供えて正月を迎える。
小餅は小型であるが鏡餅である。
屋内にもさまざまな神さんがおられるので同様のことをしているが、屋外にある蔵は蝋燭に火を点けたままにしておけば、いつ倒れるやわからない。
倒れて延焼、火事に見舞われるようでは危険。
そういう判断もあって、玄関脇の室内に纏めて1か所に。
こうしておけば安全、ということにしたそうだ。
元日の雑煮は青豆のキナコでよばれると話してくださった奥さん。
生まれ故郷は県南部。
そこではキナコ雑煮はなかったという。
ただ、地域に生息するイノシシ汁が雑煮だったと。
また、母親の出里は大阪の東部。
その地もキナコ雑煮はしていなかったと正月の話題を話してくださったのが嬉しい。
この場を借りて、厚く御礼申し上げます。
(H29.12.31 EOS40D撮影)
氏神さんに参る導きの道として、或いは神さんが我が家にやってくるという砂の道。
聞き取りした村の人たちの記憶。
一様に話された砂の道は一直線だった。
隣近所の家もしていた砂の道。
隣の家がしておれば我が家も。
集落道にずっと繋げた砂の道。
その道は神社まで繋がっていた。
それだけでは家の前を神さんが通り過ぎるだけである。
我が家にきてもらうにはその砂の道から門屋、玄関へと砂を敷いて繋げた。
あちこちの家で見られた砂の道はいずこも大晦日にしていた、という数珠繋ぎの砂の道である。
僅かだが、その面影が残っている白土町の砂の道。
氏神さんを祭る白坂神社がある。
本社殿から真っすぐに敷いた砂の道。
境内を通って鳥居まで。
まだまだ繋げて鳥居前の集落道まで繋げる砂の道。
かつては集落の1軒、1軒もしていたから壮観だったろう。
集落道はやがてアスファルト舗装になった。
風雨にさらされた砂の道は崩れて路面に広がる。
その結果は・・。
足元が滑る、自転車で走っていたカーブ道でずずっと滑る。
砂の道の体験ではないが、秋篠川に沿って舗装されている自転車道がある。
あるときカーブ道を通ったときだ。
カーブに車体を斜めにしたとたんにタイヤが滑った。
カーブに早い速度は禁物。
ブレーキをかけつつカーブを曲がったときに横滑りした。
一緒に走っていた息子の自転車も同じように滑った。
大きな事故にはならなんだのは速度を緩めていたからだ。
尤も、現在の自転車道は滑りにくい構造(※インターブロッキング舗装など)になっているからそうした事故は発生しないのだろう。
集落道はかつて土の道だったが、よほどのことがない限り滑ることのない柔らかめの土だった。
パンパンに硬い地面であれば滑ることもあるが、こんなところに砂があったら危険だというようになった。
それがすべての地区に当てはまる原因ではないが、集落道にしていた砂の道はほどなく消えた。
この日に取材した地区のMさんの記憶である。
土の道だった集落道がアスファルト舗装になったのはおよそ40年も前。
昭和50年ころの時代である。
土の道に雨が降って水溜まりができた。
そこを通り抜ける車のタイヤが撥ねる泥の水。
家の壁にバシャッと飛んだ泥水が点々・・。
泥水で汚れた壁をブラシでゴシゴシ。
乾拭きでなく水を流してゴシゴシ。
汚れをゴシゴシ洗っていた記憶。
蘇る記憶の中の映像はMさんが小学校高学年のころ。
昭和47年のころはまだ土の道だったようだ。
土の道だったころの砂の道は雨が降れば砂は流れて土に同化して土と化すから、正月が明けてもそのままにしていたが、アスファルト舗装では跡形が残る。
今では、正月2日、3日は箒で砂を掃いて奇麗にするが、それでも若干の跡形が残るが、滑ることはない。
その状態を見たのは、この年の1月2日だった。
ほぼ1年前に見た光景に感動して取材をお願いした。
お家を伺った日は年末の12月25日。
そのころであれば、砂の道をするか、しないかはっきりしているだろうと思って訪れた。
呼び鈴を押して出てこられた婦人に、貴重な砂の道造りの取材主旨を伝えた。
砂の道造りは息子さんがしているという。
門屋前の道から門屋を潜って屋内の敷地まで砂を敷いていく。
玄関近くまで撒く砂の道を祖母が呼んでいた「神さんがとおらはる道」。
以前は佐保川の砂を利用していたが、現在は店屋で買った砂を撒く。
そう話してくれたが、息子さんに聞いてみないと・・ということで承諾待ち。
数日経った30日に電話があった。
息子さんの奥さんが伝えてくれた許可電話である。
隣家のご主人もしていたが、お亡くなりになられたこともあって同家もしていた砂の道は途絶えたが、我が家は・・。
実は止めてしまうのが怖かったそうだ。
止めることによって何かが起きてしまうことにならないか。
不安を覚えることになっても・・と、いうことで今も継続してきた、という。
村の行事を中断する。
その後になんらかの事象が生じたから元の状態に戻したという事例を度々聞くことがある。
あのときに中断してしまったから、そうなった。
災いは避けたい、と村の総意で元に戻した事例もあれば、中断しても何も起こらなかったという事例もある。
そのときの決断は腹をくくって決めたのだろう、と思う。
その件は、ともかく代々がずっと継承してきた神さんが通らはる道作りである。
かつては造り酒屋、その後においては酒販売店。
そのような経緯もあったが、やがて廃業された旧家が今もなお継承されている「神さんが通らはる道」作りを拝見させていただく。
いつの時代から行われてきたのか。
始まり経緯の記録もなく、ただただ伝承してきた砂の道。
大和郡山市内にかつてあった地域は広範囲に亘っている。
聞き取りの範囲内であるが、地域は、高田町、天井町、伊豆七条町、横田町(※横田町では墓にも砂の道をしていた)の本村、横田町柳生垣内、番条町、井戸野町、新庄町、発志院町、小南町、※豊浦町、池之内町、椎木町、額田部町、馬司町、長安寺町、八条町、柏木町、筒井町に、であった。
氏神さんとの関係性は話題に登らなかったので不明だが、とにかく家の前に砂の道を敷いていたというのである。
なお、豊浦町については後年に地元住民のNさんから50年前に行われていた砂撒き情報を寄せられた。
外川町と同様に川砂は富雄川より。
氏神さんを祭る八幡神社に砂の道を撒いていたと伝えてくださった。
神社に繋がるようにしていた白土町の事例以外に新庄町鉾立の鉾立神社、観音寺町の八幡宮、野垣内町の若宮社がある。
前述した“滑る”から危険と判断されて集落道から砂の道が消えた。
野垣内町の事例では鳥居前の僅かな集落道にも撒いていた。
また、新庄町鉾立も僅かであるが鳥居前から集落道まで撒いていたが、近年はそれもやめたようだ。
この日に取材させていただく元酒商家のMさんの話によれば、隣近所のほとんどがしていたという。
向こう三軒両隣ではないが、集落道に沿った隣家、それぞれがしていた砂の道。
10軒の家がしていた砂の道が繋がった一本道。
F家、K家の他、おしめさんもしていたT家にT家、S家、Y家などなど。
北側に旧家もあるが、その道を通る道幅が狭くて、見る機会もないから、実際にしていたかどうかは定かでないという。
毎年、継承してきた砂の道作りは、一度中断したことがあるという。
父親が亡くなったその年は服忌。
やむを得ず中断した。
服忌明けの翌年の決断である。
隣家の当主は身体具合にほぼできなくなった。
亡くなる直前までしていた砂の道は、跡を継ぐ者もいなくて途絶えた。
Mさんに伝えた奥さんの思い。
「やめてしまうのは気持ちがよくない、続けたほうが・・」と進言。
やめる理由も見つからない。
最後に残ったM家は続けていく意思を固めた。
それからの毎年。
息子さんに娘さんも、気ぃ良く手伝ってくれているという。
先代、先々代のときは、数kmも離れた佐保川に出かけて綺麗な砂を掬って、それを撒いていたそうだ。
護岸工事の影響で川砂が消えた。
それ以来、市販の川砂を買ってしているという。
外川町の在り方も同じ。
富雄川の護岸工事で川砂が消えたということだ。
川砂が消えたことも砂の道をしなくなった理由。
先に挙げた観音寺町や柏木町の住民から聞いたことがある。
地区によって異なるが、西は富雄川。
東が秋篠川に佐保川。
いずれも護岸工事によって奇麗だった川砂が汚れた。
汚れた川砂で神さんが通る道を作るわけにはいかなくなった事例であるが、先に挙げた旧村各町の位置である。
距離に若干の差があるが、近くに川があったところに砂の道を作る旧村があったわけである。
出かけていた娘さん。
傘をさして帰宅したと同時にはじめた父親の手伝い。
父親が砂の道作りに用いた道具は塵取り。
農具の箕でなく掃き掃除道具の塵取りである。
先に拝見していた外川町の砂の道作り道具は箕だった。
砂を入れる量に差はあるが、用途は同じ。
道具は使いようであると思ったが、先代の奥さん、つまりMさんの母親の記憶は箕。
先代は箕を利用して砂を撒いていたという。
外川町の人たちと同じようにさっさ、さっさと道具を揺すって砂を少しずつ落とす。
落ちる面の線に沿って砂が落ちる。
少しずつ移動していくことで砂の道になる。
昔、先代がしていた光景を思い出されているように息子さんや孫の作業を見つめていた母親。
「神さんが通らはる道」ができていく姿を見ていた。
塵取りは一つしかないから、手伝う娘さんはスコップ。
砂置場と砂撒きの場を何度も往復して砂の道作り。
小雨の雨天決行に傘をもささずに作業していた。
砂を撒いていく箇所は前の道に横一本通し。
隣家の境界まで撒いていく。
その手前に同家所有の建物。
かつては酒蔵だったが、今は倉庫。
その扉がある出入り口の前まで砂を撒く。
集落道の砂の道ができたら場を移して屋内に。
門屋から玄関まで撒く一本の砂の道。
門屋から続く砂の道は庭まで。
そこへ行くまでの左右にある倉庫の出入り口も同じように短い砂の道。
5カ所も撒いていた。
さらには建屋の勝手口まで・・・。
父親と娘さんの共同作業はおよそ20分間。
大雨にならなかったのが幸い。
強い降りなら砂の道が流れてしまう。
除夜の鐘が鳴って年越し。
7時間半はなんとか小雨であってほしいと願うばかりだ。
どうぞ、お茶してくださいと暖房の効いたお部屋に座らせもらった。
座った前にテーブル。
これは何でしょうか、と思わず尋ねる物品。
3枚の折敷の右は燭台に立てた九つの蝋燭。
中央は二段重ねの小餅が七つ。
左はなにもないが、時間ともなればお神酒を、という。
造り酒屋の時代から蔵など、いろんな処にお燈明を灯す。
小餅にお神酒を供えて正月を迎える。
小餅は小型であるが鏡餅である。
屋内にもさまざまな神さんがおられるので同様のことをしているが、屋外にある蔵は蝋燭に火を点けたままにしておけば、いつ倒れるやわからない。
倒れて延焼、火事に見舞われるようでは危険。
そういう判断もあって、玄関脇の室内に纏めて1か所に。
こうしておけば安全、ということにしたそうだ。
元日の雑煮は青豆のキナコでよばれると話してくださった奥さん。
生まれ故郷は県南部。
そこではキナコ雑煮はなかったという。
ただ、地域に生息するイノシシ汁が雑煮だったと。
また、母親の出里は大阪の東部。
その地もキナコ雑煮はしていなかったと正月の話題を話してくださったのが嬉しい。
この場を借りて、厚く御礼申し上げます。
(H29.12.31 EOS40D撮影)