「和州添上郡白土村念仏講 室町住出羽大○宗味作」の文字が刻まれている鉦を打ち鳴らして白土の町内を巡る念仏講がある。
7日から14日までの毎日だ。
夕刻間近、浄福寺の門前に集まってきた子供たち。
昭和の後期に調整された太鼓と古い鉦を持ってきた。
もうひとつの鉦には「和州添上郡白土村観音堂什物 ○○享伍代辰七月十五日奉寄進石形壹施主西覚 出羽大○宗味作」とある。
同寺にある観音堂で使われていたものであろうか。
享保か享和年代かどうか判別できないが、いずれも製作者は同一人物だ。
そのような刻印があるとも知らずに昔から続けてきたという念仏講。
白土町には子供の念仏講と大人の念仏講がある。
二つの講の成立を示す資料はないが同時期に始まったとされている。
講中はどちらにも所属するわけではない。
子供の念仏講に所属する家は大人の念仏講には入っていない。
逆もそうである。
そのようなことだからお互いがどのような念仏作法をしているか判らないという。
チャンチャン、チャチャチャと打ち鳴らす念仏鉦。
その音色から子供のチャチャンコとも呼ばれている子供の念仏講。
先導は音頭取りの太鼓打ち。
この音に合わせて鉦を打つ。
最初に右手の一本でドン、ドン、ドドド。次に二本を持ってドコドコドン、ドコドコドンと連打。
それを繰り返す。
二本のバチで叩くリズムが正しくなければ「もういっかいや」と先輩に言われたと話す父親。
念仏講は男の子と決まっている。
最年長は小学6年生。
中学になると卒業する。
下は幼児まで。
35歳になった当時の息子はおしめにほ乳瓶を持っていたのだと語る母親。
この日もおしめをしていた男の子が初参加した。
この子の父親が鉦を叩いていたころ、バチはヤナギの木だった。
叩く力が強くすぐにボロボロになった。
そんなわけでヤナギの木は毎日採りにいていたと祖母は話す。
始めに浄福寺の門下で行われる。
その次は本堂の前に移る。
叩く回数は数えられなかったが子供たちには判るらしい。
そして自転車に跨って集落の中心部になる辻に行った。
西に向かって太鼓と鉦を打つ。
次は北の辻。
水路の橋の上だ。
東に向けて数回打ち鳴らした。
それから西の墓に向かった。
墓入り口で打ち鳴らして、そこから南へ行った。
ここも水路の橋の上。
その向こうには墓がある。
旧仲家の墓だという。
最後は再び浄福寺に戻って、出発と同じように門下と本堂前で行われるが念仏講とお寺の関係は特にないという。
行事を終えてお菓子を貰った子どもたちは急ぎ足で帰っていった。
このように子供だけで行われる念仏講は極めて珍しい。
少子化の時代、女児も入れてはどうかと意見もあったが現状を変えずに続けてきた。
一人二人になるころは大変革をしなくてはならないのだろう。
貴重な子供念仏講は難題を抱えている。
なお、子供の念仏講は春の彼岸(入り)と秋の彼岸に淨福寺に集まる。会計報告の日だという。
(H22. 8. 7 EOS40D撮影)