マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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ハチノコ

2010年09月20日 08時23分32秒 | 自然観察会(番外編)
施設にアシナガバチの巣が見つかった。

清掃に来ていたおじさんが殺虫剤を撒いて退治された。

巣のなかを見ればハチノコが頭を出してニョキニョキ動く。

おじさん曰く、「ハチノコを食べたことあるで、フライパンで炒ったもんや、美味いでー」という。動いていたハチノコ。

炎天下に放っておいたら死滅した。

1か月前にも他の施設でハチが発生して大騒動。

施設だけに利用者への危害がなくてほっとした。

(H22. 8. 8 SB932SH撮影)

白土町大人の念仏講

2010年09月19日 09時11分35秒 | 大和郡山市へ
夜8時、子供の念仏講が行われた浄福寺の山門前に集まってきた男性たち。

三つの組からなる念仏講の集団だ。

白土町には子供の念仏講とは別に組織されている大人の念仏講がある。

かつては子供の念仏講と同じように7日から14まで毎日行われていたという。

「子供のころやったから、随分と前のことだ」と話す。

それが7日と中日と13日になった。

その中日がなくなり、いずれ13日も止められた。

一日、一日と削減されて7日だけになったという大人の念仏講は新仏の家(大人の念仏講の講家)に参って鉦を叩く。

お念仏はカセットテープ。

当時、オンドサン(音頭さん)と呼ばれる導師だった長老が生前に残された生声のお念仏。

「なむあみだーぶつ、なむあみだー」の唱名に合わせて鉦を打つ。

チャ、チャ、チャンの繰り返し。

お念仏の声が聞こえたらチャン、チャンの連打で終える。

肩から太い紐で通された鉦を掛けた講中。

山門をくぐった墓の前で叩かれた。

そのあとは新仏の家に参って鉦を打つ。

念仏の曲名は判らないというが「南無阿弥陀仏や」と答えた。

1軒ごとに1曲唱えて小休止。

それからお礼の1曲を唱えて次の家へ行く。

今年は1軒。前の年の新仏は7軒もあった。

お下がりを貰っていくのは良いが相当時間がかかったと話す。

新仏の念仏を終えたら集落の墓地に行く。

セセンボと呼ばれている墓地の入り口は照明もなく真っ暗。

お念仏鉦の音色が町内に響き渡る。

長老の話では漢字を充てれば千千墓だという。

千に意味があるのかどうかは判らないが近年に流行った歌を思い出された。

こうして新仏や先祖供養の念仏は終わった。

念仏講の組の人数はおよそ5、6人。

3組を合わして15人ほどになるという。

それぞれの組には年当番がいる。

念仏鉦などを預かる当番だ。年に一度の鉦叩きを終えて鉦を回収された。

(H22. 8. 7 EOS40D撮影)

満願寺町古田神社住吉祭り

2010年09月18日 07時06分54秒 | 大和郡山市へ
現在は富雄川の西側の西岳山に鎮座する満願寺町の古田神社。

口承伝(句碑)によればかつては東側にあったとされる。

片桐の殿さんが小泉のほうにも米作ができるようにと川を付け替えた。

中世の富雄川は外川から東の田中、新木へと流れていたそうだ。

大乗院寺社雑事記に「文明二年(1470)此の井出は鳥見河をせき、切上て・・・三カ所より出合て沙汰云々・・新木池ともに入置きて」と、三ヶ井堰のことが書かれているそうだ。

また、築造年代は不明だが満願寺村に井堰を設置。

灌漑は七ノ坪から取水したことから七ヶ井堰と命名したようだ。

直線的な川に付け替えたという富雄川。

満願寺領から土を採って堤に利用したと話す住民たち。

だから今でも東側は低い湿地帯なのだという。

口伝によれば、富雄川の氾濫によって万寿年間(1024~1028)は現在地の東側に鎮座していた古田神社を西に遷座したそうだ。

1028年といえば長元元年。

治安が悪化した平安争乱の時代になる。

前述した井堰の記録時代と一致しないが旧社地には神田(じんでん)、鳥居前の地名が残されているという。

そのことはともかく、氏神さんを一年間守っているのは一人の村神主。

前日から神饌に供えるシトギ(粢)を作る。

一握りほどの白米を一晩水に浸ける。

それをすり鉢で磨りつぶす。

ドロドロになるのは米のエキスだという。

それを素焼きのカワラケにひたひた程度に注ぐ。

水分はカワラケに浸みこんでシトギは真っ白に乾燥する。

夕刻から始まった住吉さんのお祭り。

自治会長や長老らは拝殿右の上座に座る。

左は下座で宮司、巫女、村神主だ。

中央の道は「正中(せいちゅう)」。

神さんが通る道は開けておくと話す宮司。

戦後までは上座と下座の二座組織があったそうだ。

当時は服装も羽織袴だった。

簡素化されて今は普段着。

神社行事を下働きするトーヤやユタキサン。

二人組で構成されている。

住吉さんのお祭りはユタキサンが調えた御湯立てに向かって巫女が神事を行う。

東は伊勢大明神、南は多武峰大権現、西は大阪住吉大明神、北は春日若宮大明神の名を告げて呼びおこす。

湯に笹を浸けてそれを振る。

再び四方に向かい、それぞれの大明神に「この屋敷に送りそうろう」とお戻りになられることを告げた。

「祓いたまえ、清めたまえ」と鈴を振って祓い清める。

座の順に一人ずつ祓い清められて神事を終えた。

拝殿の席にお皿を置いていくのは村神主。



シトギの皿を添えていく。

一人一人は箸で一摘みしてシトギを手に置く。

それを口にするのが儀式。

味はないが祭典にとっては大切なもの。

シトギを祭礼に使うケースは県内行事でも数少ない。

シトギを神饌に用いる形式は古い時代を残していると考えられている。



儀式に登場するシトギは毎回の祭礼で差し出される。

かつて古田神社の祭礼に詣でるときは風呂敷に家で作った料理を重箱に詰めてやってきた。

拝殿は満席。氏子家族は境内に筵を敷いて食べていたという。

地元で採れた川魚。小さなジャコを煮詰めていた。

手で提げてきた提灯は拝殿にぶら下げた。

その名残の紐は今でもある。

昭和の時代まで掲げていたというから20年ほど前のことだった。

ちなみに満願寺町には旧地名とされる小字が残っている。ドウノマエ(堂ノ前)、ジンデン(神田)、フルヤシキ(古屋敷)などだ。

(H22. 8. 7 EOS40D撮影)

白土町子供のチャチャンコ

2010年09月17日 08時03分07秒 | 大和郡山市へ
「和州添上郡白土村念仏講 室町住出羽大○宗味作」の文字が刻まれている鉦を打ち鳴らして白土の町内を巡る念仏講がある。

7日から14日までの毎日だ。

夕刻間近、浄福寺の門前に集まってきた子供たち。

昭和の後期に調整された太鼓と古い鉦を持ってきた。

もうひとつの鉦には「和州添上郡白土村観音堂什物 ○○享伍代辰七月十五日奉寄進石形壹施主西覚 出羽大○宗味作」とある。

同寺にある観音堂で使われていたものであろうか。



享保か享和年代かどうか判別できないが、いずれも製作者は同一人物だ。

そのような刻印があるとも知らずに昔から続けてきたという念仏講。

白土町には子供の念仏講と大人の念仏講がある。

二つの講の成立を示す資料はないが同時期に始まったとされている。

講中はどちらにも所属するわけではない。

子供の念仏講に所属する家は大人の念仏講には入っていない。

逆もそうである。

そのようなことだからお互いがどのような念仏作法をしているか判らないという。

チャンチャン、チャチャチャと打ち鳴らす念仏鉦。

その音色から子供のチャチャンコとも呼ばれている子供の念仏講。

先導は音頭取りの太鼓打ち。

この音に合わせて鉦を打つ。

最初に右手の一本でドン、ドン、ドドド。次に二本を持ってドコドコドン、ドコドコドンと連打。

それを繰り返す。

二本のバチで叩くリズムが正しくなければ「もういっかいや」と先輩に言われたと話す父親。

念仏講は男の子と決まっている。

最年長は小学6年生。

中学になると卒業する。

下は幼児まで。

35歳になった当時の息子はおしめにほ乳瓶を持っていたのだと語る母親。

この日もおしめをしていた男の子が初参加した。

この子の父親が鉦を叩いていたころ、バチはヤナギの木だった。

叩く力が強くすぐにボロボロになった。

そんなわけでヤナギの木は毎日採りにいていたと祖母は話す。

始めに浄福寺の門下で行われる。

その次は本堂の前に移る。

叩く回数は数えられなかったが子供たちには判るらしい。

そして自転車に跨って集落の中心部になる辻に行った。

西に向かって太鼓と鉦を打つ。



次は北の辻。

水路の橋の上だ。

東に向けて数回打ち鳴らした。



それから西の墓に向かった。

墓入り口で打ち鳴らして、そこから南へ行った。



ここも水路の橋の上。

その向こうには墓がある。

旧仲家の墓だという。



最後は再び浄福寺に戻って、出発と同じように門下と本堂前で行われるが念仏講とお寺の関係は特にないという。



行事を終えてお菓子を貰った子どもたちは急ぎ足で帰っていった。

このように子供だけで行われる念仏講は極めて珍しい。

少子化の時代、女児も入れてはどうかと意見もあったが現状を変えずに続けてきた。

一人二人になるころは大変革をしなくてはならないのだろう。

貴重な子供念仏講は難題を抱えている。

なお、子供の念仏講は春の彼岸(入り)と秋の彼岸に淨福寺に集まる。会計報告の日だという。

(H22. 8. 7 EOS40D撮影)

それは突然にやってきた

2010年09月16日 07時19分54秒 | いどう
山添北野で元総代のNさんと予定稿の確認を終えて都祁に向かおうと走り出した直後だった。

フロントパネルに怪しき警告ランプが点灯した。

何これ?。

バッテリーの表示だ。

坂道を登る速度はヨレヨレ。

力が入らない。

そのうち温度計の針が上昇してきた。

これはいかんと緊急停車した。

エンジンを止めたらブッシュっと音をたててボタボタ水が落ちてきた。

冷却水だろうか。

緊急コールするにも停車した場所は携帯電話の表示は圏外だ。

圏内に入るには数キロメートルも離れている。

どうにもこうにもならんで一服落ち着こう。

照りはきつい。

このままでは解決にはほど遠い。

どこまで行けるかわからないがとにかく走りだそう。

そろそろと走ってなんとか小倉インター辺りまで来た。

表示は三本柱になった。

先日も修理してもらったSオートサービスへコールした。

出ない。

仕方ないので自宅にコールしたら昼ご飯食べて工場に向かったと奥さん。

かくかくしかじかでご主人に連絡してほしいとお願いしたら速攻で返ってきた。

どうしたん?の声に事象を伝える。

バッテリーの故障には間違いないので出来るところまで走って帰ってという。

こうなりゃ走るしかないと名阪国道をそろりそろりと走っていく。

当然ながら、クーラーやラジオは消してだ。

窓は全開して制限速度内で走っていく。

温度計が気に掛かる。

さっきはあがっていったが今度は徐々に下がり始めた。

下がるってどういうこと?。

エンジンも馬力なく落ちていく。

こりゃいかんと思って側道に緊急停車。

そこで再びSモーターサービスへコール。

どうなったんの問いにこういうことやでと答えた。

エンジンかけてみるもうんともすんとも。

完全にグロッキー状態だ。

場所は針インターから数百メートルのところだ。

じゃーバッテリー三つ持ってそっちへ行くと心地よい答えが返ってきた。

待つこと1時間。

側道に流れる風はビュービュー。

走っていく車の鼓動が怖い。

いつなんどきこっちへ寄ってくるかもしれないという恐怖感。

夜中にぶつかってきたという事故はたびたびニュースで報道される。

昼間はともかく夜間でなくてよかった。

到着してバッテリーを交換。

エンジンはスタートした。

取材に行くなら乗ってきた車に乗りなと嬉しい言葉に乗り換えた。

工場までは到着しなかったそうだ。

バッテリーは天理インター辺りまでしか保たなかったそうだ。

これより3日前に修理したばっかりだったスクラム。

窓ガラスを上下するときにギリギリの音。

ギヤが減っているからとパーツごと交換した。

それはギヤではなかったが相当へたっていたのだった。

もうひとつは発進するしばらく発生するキュルキュル音。

信号待ちの出足。

カーブを抜けてスピードをあげたときに鳴る現象。

巡航速度になったら音はしない。

どうもミッションがよろしくないという。

後輪に駆動させる駆動輪にガタがきている。

直すにはミッションごとの交換となる。

中古でも相当な費用がかかるので走るところまで走ってみようということだった。

これが今回のトラブルに影響していたのか。

そうではなかった。

ダイナモの故障だったのだ。

バッテリーが充電されなかったのでストップしたのだ。

2日後、中古品で交換修理を終えたスクラム。

いつまで保つのかどうか。

現在の走行は16万km。

これからも突然の現象に心しておかねばならない。

出張手配は2000円、ダイナモ3000円、交換も3000円だ。

その二日前に修理したレギュレターが2500円。

タイヤ交換を含めて3000円。

(H22. 8. 7 EOS40D撮影)

山添村北野の井戸替え

2010年09月15日 05時50分21秒 | 山添村へ
盆入りの七日は各地で井戸替えが行われている。

山添村の北野では地域の共同井戸である中継槽を朝から掃除した。

山に水源地がある。

そこからパイプで引いてきた水を一旦水槽に落としこむ。

二カ所の谷を越えて流れてきた谷の水。

共同利用されている7軒の人たちは朝から水源地やパイプの状況を点検してきた。

パイプは流水できるようにしておかねばならない。

途中で山折りになっていれば空気が溜まって流水できない。

空気の圧力が水を流さないのだ。

バルブの栓を開けて空気を抜く。

中継槽は2カ所あった。

水圧がにぶくなって一カ所は撤去された。

そこでは濾過していた。

最初に大き目の石を敷く。

その上には炭だ。

さらにシュロの葉を敷き詰めて粗い石を敷いていた。

当時は飲料水に使っていたが、水道も引かれるようになり、谷水も濾過もしなくなったので現在は家庭の洗水などで使っている。

しかし、水道の水はカルキが入っているので頭が痛くなると話される。

最近の気象状況も影響しているのではないかと前置きされて話したのは「山の保水能力の低下」。

年間雨量はさほど変わらないが集中豪雨が多くなってきたという。

シトシト雨は自然と山に染みこんでいく。

それがいっときに振れば流れるだけだという。

山に染みこんだ水は湧き水となって谷水に。

それが美味しい水だという。

中継槽はコンクリート作り。

深さは2m以上もある。

梯子を掛けて降りていった二人。

水を掻き出してバケツで汲み上げる。

泥水状の谷水は何杯出しただろうか。

4人で行っていた汲み出し作業が終わるころ、谷水やパイプを点検してきた3人と合流した。

この日はウナギを食べるのが楽しみなんだと話される。

4、50年も続いているだろ作業後の会食はウナギ料理と決まっている。

かつては当番のヤドの家で買ってきたウナギを料理していた。

月ヶ瀬にはウナギ捕りの名人が居たそうだ。

11軒から7軒に減った共同井戸利用の家。

10年ほど前、料理もたいそうになってきたので料亭に替わったという。

土用丑のウナギ喰いは一年間の水に感謝する慰労会だと話す。

家にも井戸があるが使うことがなくなったそうだ。

そこも井戸替えをしていた。

深さはそうとうなもの。

水温は13度。

長時間の作業になれば痛くなってくるという。

(H22. 8. 7 EOS40D撮影)

山添大塩の行事

2010年09月14日 07時34分49秒 | 山添村へ
8月7日は盆入りの墓掃除。

大塩の老人会は大勢で綺麗にしている。

八柱神社の清掃をしていた人たちが戻ってきたら公民館で食事会。

村のコミュニケーションの場は安否確認の日でもある。

昨今のニュース報道の偽りの長寿とは無縁の地域だ。

それはともかく昔はこの日に井戸替えが行われていた。

サラリーマンが増えて集まりやすい第一日曜日になった。

朝は8時に集まって山の水源地に行く。

5カ所あるそうだ。

この水で飲む山添のお茶はとても美味しいという。

近年には神野山から水道水が引かれたがカルキがあって臭いがきつい。

普段の生活飲料水は、綺麗な源泉の井戸水に決まっとると話す。

井戸は数軒の組ごとにある。

それぞれを浚える村の行事だ。

墓掃除を終えて食事の場は公民館。

下駄箱に(15足の)草鞋(わらじ)が置いてあった。

八柱神社の秋祭りに使う草鞋。

「草鞋とちゃうで、それは神つけ草履(ぞうり)」や。草鞋は死ぬときに履くもんや。神社のお渡りに使うもんやから草履と呼ぶんだ。」と語る老人会の代表者。

その見わけが判らない。

(H22. 8. 7 SB932SH撮影)

山添の井戸替え盆

2010年09月13日 08時17分34秒 | 山添村へ
山添村では水道が引かれるまでは井戸替えをしていたそうだ。

堂前の下では家にあった井戸を浚っていた。

盆入りの七日の行事だ。

水道の水源は布目ダム。

それを一旦、豊原辺りの神野山にあげる。

そこから各地域に引いているそうだ。

堂前ではその水道水がきてからは井戸替えの風習はなくなった。

箕輪でも同じだとうが七日は墓掃除をされている。

管生はどうだろうかと思って大きな杉の大木下にある井戸を拝見した。

現在は使われていないのだろうか。

一度尋ねればならない。

こういった井戸替えの風習は盆地部の大和郡山でもあった。

満願寺町の住民の話では各家にあった井戸を浚えていたという。

井戸を使わなくなったので止めたそうだ。

(H22. 8. 7 EOS40D撮影)

白土町の念仏講について

2010年09月12日 07時10分44秒 | 大和郡山市へ
大和ではお盆の時期に鉦を叩いて町内を巡り、先祖供養をする念仏講の集団がある。

旧村にはそれぞれにあったとされている。

無形民俗文化財に指定されている安堵町の六斎講や八島の念仏鉦講が知られている。

大和郡山の井戸野町でもかつて存在していた。

それを証明する念仏鉦が残されている。

その念仏講はどのような形態であったのかは資料も残されていないのでその様子を伺うことは出来ない。

井戸野町からおよそ500メートル南に白土町がある。

そこでは現在も念仏講が現存しているという。

白土の念仏講は大人の念仏講と子供の念仏講がある。

二つの講の成立を示す資料はないが同時期に始まったとされている。

講中は両方に所属するわけではない。

大人の念仏講に所属する家は子供の念仏講には入っていない。

逆もそうである。

そのようなことだからお互いがどのような念仏をしているか詳しくは判らないという。

大人の念仏講は年に一回。

8月の13日(後日に判明した日は7日だった)の夜に新仏の家に参って念仏鉦を打つ。

一方、子供の念仏講は盆入りの7日から先祖送りの前日の14日まで毎夕方に行われている。

太鼓打ち、鉦叩きは講中の男児で行われている。

女児はそれに参加することはできない。

少子化の波は白土にも当てはまり子供は少ない。

生まれても女児が多いという。

今年のヤク(当番)いなるK家では3人目にやっと男児が生まれた。

一歳になる子供もこれに参加することができ、「やっと講中に貢献することができるようになった」と目を細める。

男児の年長は小学6年生。

中学になると卒業する。

K氏は32年前に体験していた子供の念仏講を語り始めた。

チャンチャン、チャチャチャと打ち鳴らす念仏鉦。

その音色から子供のチャチャンコと呼ばれている。

先導は音頭取りの太鼓打ち。

この音に合わせて鉦を打つ。

タイミングが合わなかったら「もういっかいや」と言われたと話すルートを教えてくださったもう一人のK氏。

同じく45歳。

二人の息子が鉦を叩くそうだ。

子供の念仏講は夕方近くに浄福寺に集まる。

そこがスタート地点。

念仏講とお寺の関係は特にないという。

先頭は太鼓叩き。

バチを持つ。

2番手は太鼓持ち。

紐を肩から掛けて担ぐ。

それに続くのは鉦叩き。

小さい子供は親が付いていくそうだ。

最終日の14日は集落を抜けて外回りまで行く。

時計回りに進んでいく。

子どもたちは自転車で巡拝するそうだ。

鉦を叩くのはそれぞれの謂われがある場所だという。

7日から13日までは集落内を巡拝する。

墓地や辻などの場所で鉦をチャンチャン、チャチャチャと打ち鳴らす。

およそ6カ所。

新仏がある家(子供念仏講の講家)があればそこの家にあがって念仏鉦を打つ。

その家からはお金をもらうのだが本質的にはお念仏のお勤めであろう。

連日のお勤めは反時計回りになるという。

14日は集落の東へ抜けて南へも回る大外回りになる。

隣町の石川町の境界になる中ツ道沿いは千束(せんぞく)の街道筋で1カ所。

出屋敷の地だとされる。

そこから南下してかつて祠があった地。

そこは道路を拡張した際に消滅したので念仏鉦は打たない。

さらに南下して辻堂橋の傍らに祀られている地蔵さんで打つ。

ここからは西に向かう。

白土池の堤防を抜ける。

その端のほうで鉦を打つ。

昔にその池で亡くなった人を弔うのだという。

もう少し行って田んぼの境目。

そこは牛の弔い地。

昔のことだがそこで牛を飼っていた。

その牛が亡くなったので弔いの鉦を打つという。

そこからは再び集落に向けて北に向かう。

集落の西南の地。

墓地が傍にあるがそこまでは行かない。

辻で鉦を叩く。

北上して地区の墓地。

集落を抜けて北の端の辻。

南へ戻って集落の中央の辻となる。

ここでようやく終えて出発地の浄福寺境内に戻ってくる。

およそ2時間だそうだ。

着いたら集めた会費を子どもたちに分配する。

お布施のようなものであろう。

この日だけは新仏の家へあがって太鼓や鉦を打つ。

1回やってひと休憩。

中休みだという。

それからもう1回する。

このように子供だけで念仏講が行われているのは極めて珍しいのではないだろうか。

いつまで続けられるのであろうか。

女児も入れてはどうかと意見もあったが現状を変えずに続けてきた。

いずれは大変革の時代を迎えることだろうと講中は話される。

太鼓や鉦はヤク(当番)が一年間預かる。

それには古文書と想定される文書もあるという。

しわくちゃな文書で見ることもないそうだ。

最近の記録はノートに記している。

拝見しないことには判断できないがおそらくそこには年代が書いてあるのではないだろうか。

いずれ拝見したいものだ。

太鼓と鉦は古くなったので新調したそうだ。

古いものは捨てたのではないかという。

現物が残っていれば年代が判ったものだけに残念である。

映像は西大寺再興に力を注いだ興正菩薩叡尊模造像を祀る堂(自治会管理)。

(H22. 8. 1 SB932SH撮影)

池之内八幡神社住吉祭り

2010年09月11日 08時46分37秒 | 大和郡山市へ
田んぼの土用干しを間近に控えた池ノ内町の住民。

夕刻の時間に集まってきた。

毎年7月30日は八幡神社の末社になる住吉神社のお祭りだ。

大阪の住吉大社から底筒(そこつつ)、中筒(なかつつ)、表筒(うわつつ)男(お)命(みこと)の三神を勧請したとされる。

同大社はこの日が夏祭りの宵宮だ。

夏祭りの別名に「おはらい」と呼ばれているそうだ。

拝殿に登って拝礼する池ノ内の人たち。

天井にぶら下げていたカブラ提灯を降ろして、一際大きい氏子中提灯のオヒカリからローソクに火を移す。

カブラ提灯はカブラダイコンから名付けられたのか、神楽提灯が訛ったのか、どうも判らないと宮司は話す。

提灯は2週間ほど前に行われた祇園祭りでぶら下げていた各家のものだ。

文様は老松で統一されているが、それぞれには家紋と家名が記されている。

住吉さんの祭りの日は猛暑が続く。

この日も汗がほとばしるぐらいに暑さが増す。

前日までは夕立が降って涼しくなったが、降雨をもたらす雲は現れない。

汗をぬぐいながらの神事が始まり、宮司は住吉神社に向けて祝詞を奏上された。

玉串奉奠のあとは祇園祭と同様に湯立神事が行われる。

浴衣姿の子どもたちも交えて親子連れ4組の参拝者。

氏神さんを呼び出した巫女は神懸かりとなって湯立神事をなされる。



祓い清める湯立ての作法。

笹の葉で飛び散らした御湯は清めの湯。

氏子たち一人一人に「交通安全、家内安全、水難盗難、身体健勝、祓いたまえ、清めたまえ」。



まさにオハライの夏祭りである。

神事を終えたら拝殿で直会。

お下がりのブドウ、スモモにいつも通りの昆布〆とスルメを肴にお神酒をよばれた。

(H22. 7.30 EOS40D撮影)