マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

小倉倉立の祈祷札

2011年07月21日 06時38分38秒 | 民俗あれこれ(護符編)
奈良市の都祁の地。

小倉と上深川境に小倉倉立と呼ばれる石碑がある。

かつては東大寺荘園の一つにあった黒田荘から修理築造調達する木材を運ぶルートにあったとされる地でその名もずばりの「小倉倉立」の地名である。

名阪国道インターで出たところにある小倉倉立には気にかかるお札が見られる。

夕方近くに撮ったものだがいつ、どこで営まれたものであろうか。

そのお札は神野山神野寺の名がある祈祷札。

その名の寺の住職が虫の祈祷をされる地がある。

それは小倉の観音寺と上深川の元薬寺だ。

18日に通りがかったときにはまだ古いお札だった。

それは真新しいお札に替っている。

以前に聞いた話では小倉は二か所で当地には挿されない。

21日に行われているとされる上深川の虫の祈祷の害虫退散五穀成就を祈るお札ではないだろうか。

(H23. 6.22 EOS40D撮影)

白土の行者講

2011年07月20日 06時43分51秒 | 大和郡山市へ
大和郡山には数か所の地域で行者講が行われている。

井戸野町の金丸講は数年前に寄らせてもらって取材したが白土町は初めてだった。

一昨年に宮さんの行事をされていた六人衆の一人からそれはしていると聞いていた。

白土町の行者講は回り当番の家で寄り合いをする回り講である。

先達の存在は確認できていないことから大峰さんに参ることはないのだろう。

昨年の回りはK家だった。

その人は昨年の六人衆の一人だった。

祭りの行事取材でお世話になった人だ。

縁は行者講まで繋がったが法要が重なったために欠席された。

今年の回りはKT家があたる。

回りの家では三体の掛け図が掲げられた。

不動明王、修験道再興の祖とされる理源大師、五大明王である。

装丁し直された掛け図はもう一体ある。

それは役行者座像である。

これはなぜか掲げないことになっていると講家の当主がいう。

厨子は特に見られないから元々なかったのであろう。

その掛け図の前に木製の祭壇が置かれている。

これは引きだしをもつ構造で内部に掛け図などを納める仕組みになっている。

そこから出した灯明立てや神酒口、ホラ貝、五鈷杵のリン、鉦、文政五年(1822年)正月の記名がある撞木(しゅもく)、錫杖を並べる。

御供はセキハンとなっているそうだ。

傍らには白土町の行者講を示す古文書も置かれた。

残された文書には弘化四年(1840年)から始まる行者講営帳、天明3年(1783年)の行者講指引帳、延享五年(1748年)三月の大峯永代講中であるからおよそ260年前には行者講の営みがあったようだ。

行者講営帳によれば弘化四年は正月、二月・・・十二月まである。

ひと月ごとに営みを済ませた印があるが八月までだった。

それ以降の江戸時代の記録はなく明治2年に飛んでいる。

軒数が多かったのかそのころは西組と東組に分かれて日待ちと呼んで正月、五月、九月に営まれていたようだ。

それは明治十二年ころには協議がされて五月、九月に縮小されたようで13軒の名が記されている。

そのころは総日待ちになっている日もあれば宿営みもある別個に行われていたような記載の仕方だけに断定しにくい。

やがてその実施月は、四月であったり六月の場合もある。

都合でそうなったのか判らないが変動することが多かったようだ。

大正から昭和三年までの記録では実施月はないが年に一度の集まりとなったようだ。

その後の記録は残っていないが戦後しばらくまで続けていたという。

理由は定かでないがそれから途絶えた行者講の営みは平成元年に11軒が集まることになって復活した。

当時の献立は記録されていないがご婦人は覚えているそうだ。

行者講は男性が集まり膳を食べて酒を飲み交わす飲食の場。

婦人たちはその場にあがることはできないが膳の支度をしていたのだ。

当時はタケノコの木の実和えがあったというから5月のようだったと当主も話す。

それはいつしか田植え終わりのころ合いを見計らって日にちを決めるようにされた。

膳は手間のかからない一合半の寿司折りとトーフの吸い物やデザートの果物だけとなった。

かつては一反ぐらいの行者講の田んぼ(農地解放で消滅)があったそうだ。

そこで収穫した稲を売った金で講の費用を賄っていたという。

行者講指引帳によれば当時の講中は28人の名が記されている。

その後の記帳には示すものがないが、復活した平成元年は11軒、その後に転居などがあり現在は8軒で営まれている。

男性が不在であればその講中は参加できない。

男児が生まれれば復活されるのかもしれないと当主はいう。

その大峯永代講中は南無なにがしの念仏が書かれている。

そのなかには白坂大明神、治道牛頭天皇も見られる。

白坂大明神は同町に鎮座する氏神さんの白坂神社で、治道牛頭天皇とは南に位置する隣村の横田町に鎮座する和爾下神社のことであろう。

巻末には安政七年(1860年)二月と記されているから書写されたのではないだろうか。

また平成元年の講中名簿には「宿営順序」とあるから集まりの講家は「宿(やど)」と呼んでいたのであろう。



この年の夜は五人が「宿」に集まった。

それまでに当主はお風呂に入って潔斎をする。

講の営みに際して身を清めるのだ。

会食の準備が整った座席でよもやま話。

それから始まった講中の儀式はローソクを灯して線香をくゆらす。

そしてホラ貝を吹いて掛け図の前で手を合わせる。

念仏を唱えることもなくそれで終わった儀式を済ませると会食に移る。

ビールや酒で一夜の寄り合いはこうしてふけるまで会話を交わす。

大和郡山には大江、若槻、稗田、美濃庄、番匠田中、下と上三橋に行者講があると井戸野の金丸講の講中が言うが調査は未だすすんでいない。

後日の聞き取りでは伊豆七条町にもあるそうだ。

また、番条と中城の境界付近には行者像の石仏もある。

講の営みはなくとも風化が進まぬうちに調べておかねばならない。

以前に勤められた講家の婦人の記憶によれば膳の名は「オヒラ」と呼んでいた。

丸い椀が数種類あって平たい椀があったことからそう呼んだのかも知れないがその料理は精進料理だったそうだ。

一つは煮物でゼンマイ、サトイモ(ドロイモ)にアゲサン(アブラアゲ)、ゴボウ、コンニャク、タケノコに青物としてアオマメか湯がいたホウレンソウ、若しくはフキを煮たものだったそうだ。

それは開催年によって異なるが5品もしくは7品だった。

その他の椀にはホウレンソウのお浸し、切り身の焼き魚(アジかサバか)、キュウリとタコの酢ものとトーフのおつゆ(すまし汁)、香物の漬物にシロゴハンだった。

ゴハンの椀と酒を飲む盃は講中が持参するのでめいめいの器を間違わないように出さんといけないという。

魚は地区に行商で売りに人から買ったそうだ。

ゼンマイはお嫁さんの出身地である野迫川村から送ってもらっていた。

水が奇麗からだろうかスーパーで買うよりもそれはとても美味しかったと笑顔で話される。

(H23. 6.19 EOS40D撮影)

矢部六月観音講

2011年07月19日 07時19分40秒 | 田原本町へ
毎月の観音講の営みをされている講中は8人。

お一人だけはお若いがほとんどの人は80歳代だ。

その方はお姑さんが引退されたので参加しているという。

久しぶりに揃って、かつてあんじゅさんが住んでいたとされる観音堂でお勤めをされる。

いつものように安楽寺から住職がやってきた。

近くではあるが不自由な身体だけに電動アシスト付き自転車でやってきてお堂に上がられた。

彼岸のときは寒いからと堂の扉を閉めていたがこの月は暑いからと風が吹きこむようにそれを開けてお勤めをする。

座椅子に座る講中の婦人たち。

導師となってお念仏を唱える住職は赤い座布団に座る。

鉦や磬(キン)、それに木魚を叩く音が堂内に広がった。



それを済ませると導師は座の位置を変えた。

今度は弘法大師の前である。

同じようにお念仏を唱えてさらに毘沙門堂へと移る。

そこでもお念仏を唱える。

狭いお堂だけに3人ぐらいしか入れないから中間の間や観音堂に座って念仏を唱える観音講の婦人たち。

こうして「身体堅固 ゆーずーねんぶつ なむあみだー なむあいだぶっー」と三度のお念仏をおよそ一時間でお勤めを終えた。

来年の3月末には久しぶりに「五重伝法」が営まれる安楽寺。70数名もの法要申込が入ったそうだ。

昭和46年、平成2年以来の実施だというから、ほぼ20年ぶりの法要である。

生きているうちに墓に入る。

それは再生を意味することで、不幸の源を断ち健康と幸福を得るという。

現生ではその功徳が延命長寿、来世で往生できるという庶民信仰の修行なのであろう。

それは数日間も勤めるもので、逆修作法が儀礼化された擬死再生の儀礼で<五重・融通正>伝法(融通念仏宗)や五重相伝(浄土宗)、帰敬式(浄土真宗)、結縁灌頂(真言宗)などの呼び名がある。

住職はその五重伝法を二十歳のころから勤められてきた。

それは3回目となる伝法となり、ありがたいことだと話される。

住職が戻られたあとはいつものようによもやま話に花が咲く。

講中のうち3軒は畑で干瓢作りをされている。

タネオトシをして7月末ぐらいには干瓢ができあがる。

小学校3年生のときぐらいから皮剥きをしていたと話すUさん。

実家の天理市吉田でも作っているそうだ。

Yさんは米蔵の保冷庫から2年前に収穫したカンピョウを持ってこられた。

天日干しを繰り返して作ったカンピョウは新聞紙で包んでいたから色褪せてはいない美しい姿だった。

そのYさんの実家は桜井市の穴師。

兵主神社があるところだ。

9月1日は風日待ちのコモリがあって結んだカンピョウを供えていたという。

ミカン畑を買い上げてくれてその地にはスモウの館を建てたそうだ。

そのカンピョウを干している景観を求めて多や嘉幡に出かけたことがある。

矢部や吉田にもあることを知ったが大和郡山では見かけない。

来月にはそれがあるかどうか調査対象地域を広げねばならない。

(H23. 6.18 EOS40D撮影)

染田の虫送り

2011年07月18日 06時40分14秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
16日に予定されていた室生区染田の虫送りは大雨で翌日に持ち越しされた。

フィールドの行事であるだけに松明を持ち歩く虫送りを実施するには判断が難しい。

針ケ別所では雨があがったことから実施されたと聞く。

染田では県外からその虫送りの様相を拝見したいと団体で来られていたが中止となってしまっては遠方から来られたのに気の毒だと野鍛冶師のFさんが、その鍛冶の仕事ぶりを見せてやろうと急遽実施された。

俳句をされている団体だけにそれは大喜びであったそうだ。

さて、染田の虫送りといえば地区の田んぼを松明で虫を送っていく行事で、周囲を練り歩く距離は4kmにもなる。

それが始まる前の午後6時半ころ。十輪寺の境内で火を点けられる。

それまでは村の人に始まりの合図として鉦と太鼓が打たれる。

それは子供の役目。

カン、カン、カンの鉦の音色に続いてドン、ドン、ドンと太鼓が打たれる。

二人の呼吸がピタリと合まってそれはまるでお念仏の音色のように聞こえる。

虫送りは稲の生育を阻害する害虫を駆除する役目もある行事。

松明で虫を焼き殺す殺生だけに虫を供養する意味もある。

それはこの鉦と太鼓が打ちだす念仏の鉦鼓なのであろう。

染田天神講連歌会発祥の地として名高い連歌堂の回廊で打たれていた鉦を太鼓は軽トラックに移された。

以前はそれをオーコで担いで村練り歩いていた。

それは相当な大きさの太鼓だけに担ぐことが困難になった。

そういうことからトラックに載せて随行する形になったのである。

ロープでしっかりと荷台に固定された太鼓は再び子供が叩く。

それを聞いた村人たちは松明を担いでやってきた。

鉦鼓打ちは始まるまで1時間あまりも打ち続けられていたが出発前には大人に替った。

辻ごとに立てられる祈祷札も載せている。

それは3か所に立てられるのだ。

春日神社北方での最初の休憩場、次に石仏が並ぶ穴薬師算(ざん)のある染田口バス亭付近、そして小原向う街道筋のトンド場である。

村の役員が挨拶をされて火点けが始まった。



勢いよく燃えだす松明を持って出発した。

子供が持つ松明は小さいが村の役目を担う一人でもある。



女児もいるし男性に混じってご婦人も松明を持っている。

重たいからと途中で交替する人もいる。



松明の数はおよそ10数本。

今年は少ないとついていく消防団が話す。

それのせいなのかいつもの年より早い速度で村を練り歩いた時間はおよそ1時間でトンド場に着いた。

この日は蒸し暑い夜だった。

虫送りをしていた田んぼにはホタルが光を放っていた。

それを見つけた子供たちは松明の火に集まったホタルを手にする。



それはゲンジボタルであった。

話によれば「数週間もすればヘイケボタルばかりになるんや」と話す。

ホタル狩りに夢中なっていた子供たちもトンド場まで向った。

そうして長い距離を練り歩いた虫送りは田んぼの稲を荒らす害虫を村外に追い出したのであった。



その歩数はおよそ8千歩にもなった。

(H23. 6.17 EOS40D撮影)

アゼマメの所在

2011年07月17日 08時21分07秒 | 民俗あれこれ(四季耕作編)
ビールの肴に塩茹で豆がある。

その豆は大豆である。

丹波の黒豆は特に美味いといわれている。

たしかに美味い。

農耕行事をする際にはその豆がでてくる場合がある。

「豆たばり」と呼ばれる行事が天理南六条の三十八神社ではその名もずばりで、宵宮の晩にトーヤ(頭屋)が栽培された枝豆を奉納される。

それを参拝した氏子たちがたばって帰る。

「たばる」とは「賜る」が訛ったもので貰うということだ。

奈良市北野山の戸隠神社の宵宮もそうである。

山添村切幡では旧暦の9月13日の十三夜に子供たちが各家を回って豆をもらって帰るという行事があったそうだ。

それを「豆たわり」と呼んでいる。

いずれも枝付きの豆を貰って帰る「マメタバリ」の行事である。

都祁藺生町の龍王神社ではたばることはないが枝豆は御供として供えられるそうだ。

こうした行事はいずれも秋祭りである。

それらの祭りに用いられる枝豆はトーヤの人たちが特別に栽培したものであるが、取材地でときおり話題になるのが「アゼマメ」という呼び名だ。

「アゼマメ」はその名のごとく畔で栽培された大豆である。

都会の人には聞きなれないアゼマメは農家の人ではごく普通にそう呼んでいる。

その畔豆は食卓に並べばビールの肴のエダマメとなる。

飲み屋ではエダマメはつきもの。

まずはエダマメをお店にたのむ(注文する)。

それを口にして一杯目のビールをゴクゴク飲む。

夏は特にもってこいだ。

エダマメは若い大豆で枝付きの大豆を茹でて食べる。

枝付き豆を略してエダマメと呼んだのであろうが一般的に飲み屋で出てくるのは「枝」は見られない。

枝がなくともエダマメと呼称しているのである。

さて、アゼマメ(畔豆)はなんでそう呼ぶのか。

その漢字のとおり畔に植えているからだ。

田植えを終えてすくすくと生育する稲田。

その田んぼ周りは畔である。

そこに大豆を蒔いておく。

稲の成長とともに大豆も育つ。

なぜにここへ大豆を蒔くのか。

それは根に根瘤菌があるからだという。

根瘤菌(根につく丸く小さな瘤粒に含まれるバクテリア菌)は空気中の窒素を取り込んで寄生植物に供給する性質があり畑地にとっては肥料となって土壌に働きかけるのである。

畔豆はそういう地力回復の役目をもっている。

春にレンゲの種を蒔くのも同じことでやせた土地を回復させる。

レンゲも大豆もマメ科の植物である。

マメ科の植物のすべてに根瘤があるのか私は存知しないが農家ではレンゲも大豆も畑の回復植物として使われてきた。

戦後の農作は化学肥料に転じていった。

それとともにレンゲ畑もアゼマメも田んぼから消えていったのではないだろうか。

白土町に住むNさんの話によればそうとう前に「そんなことはしなくなった」と話す。

大和郡山一円を探してみるがそれはない。

こうした時代だからこそ今でもアゼマメをされている田んぼはないものかと思っていたら室生の染田でそれを発見した。

そう、昨年に「ウエハジメまたはウエゾメ(植え初め)」を取材させていただいた田んぼにあったのだ。

畔そのものにではなく畦であったものの、そこにはオコナイのヤナギも残っていた。

それからしばらくして大和郡山の田んぼを探索してみた。

ところがいっこうにそれは見当たらない。

城、小林、小泉、白土、番条、稗田、椎木、額田部などだ。

矢田丘陵はどうなのかと山田も行ってみたが見つからない。

そうして矢田に行った。



そこには二か所であったアゼマメ。

まさしく畔に植えている。

(H23. 6.17 EOS40D撮影)
(H23. 6.27 EOS40D撮影)

三輪高宮の観音講

2011年07月16日 07時51分24秒 | 桜井市へ
本尊の観音さんに祈りを込めて営みをする観音講がある。

山間では桜井や天理にもあるがそれは大和平野部辺りで相当数の講中で行われているようだ。

見聞きする範囲の講中はお年寄りの高齢者ばかりである。

いずこも若い人が入ってくれんから一人減り、二人減りという具合で消滅する時期は近いと話される。

その観音講は観音さんの功徳の日とされる17日に営みをされる場合が多いようだが毎月17日にされる地域は数少ない。

同じような状況下にある桜井市の三輪高宮でもそれは変わらない。

数年前にお一人が亡くなられたことから7人になった講中が集まったのは高台にある高宮の会所だ。

昼食を終えた人たちがやってくる前に当番の人が会所の扉を開けて支度をする。

座敷にはめいめいが座りやすいように設えた座イスもある。

足が痛いから伸ばすことができない工夫であるとS区長は話す。

毎月営まれていることは知っていたがその様子を見たくて挨拶に来られた。

行事取材がきっかけとなったわけである。

会所は平成6年に改築された。

それまでは朽ちるくらいにボロボロであったという。

村の費用で賄った改築だったようだ。

その折にそこらじゅうにあった石仏を寄せて並べた。

愛宕大神、庚申供養塔、荒神宮、延命地蔵などの6体である。

そのなかの庚申供養塔は享保九年(1724年)の記名が残されているからおよそ300年前に建てられたものだ。

その庚申さんには庚申講があった。

あったのは数年前までだ。

103歳の男性が営まれていたがこれ以上続けることができなくなってしまったことから古文書や掛け図は区長に預けられたという。

どのようなことが記帳されていたのか判らないが貴重な文書は大切に保管されているそうだ。

保管といえば会所もそうである。

昨今は仏像泥棒がはびこる時代だけに安全性を考えて厳重なセキュリティを設置している会所。

窓を開けた瞬間に非常ベルが鳴りだした。

そう、セキュリティロックの解除をし忘れていたのだった。

そういう安全面は呼出に使われる梵鐘にも鍵を取り付けて会所内に納められているのだ。

そうこうしているうちにいつもの時間になれば観音さんのお祭りの日だといって講中が集まりだした。

ローソクを灯し線香をくゆらし安置している十一面観音立像に向かってお念仏を唱えていく。

光背が美しい「観音さんはそんじょそこらにあるようなものではない」という。

会所の建て替えの際に埃まみれだった観音さんは布地で奇麗にぬぐったという区長。

壊れやしないかとおそるおそる拭いたそうだ。

導師は中央に座って隣は鉦叩き。

当番の人が鉦を叩いて拍子をとる。

始めの香偈文や懺悔偈文、般若心経を三巻唱えられあとは西国三十三番のご詠歌に移る。

長丁場のご詠歌だけに23番で一旦終えて休憩する。

各地で行われている観音講もだいたいそうされている。

お茶やお菓子をいただいて一息いれたあとは再びご詠歌が続けられる。

その最初に唱和するのが高宮の観音さんのご詠歌である。

「まよいぬるむつの ちまたをかなしみて みわのふもとに いとすくうらん」と詠みあげる。

その次が24番となってすべてを終えるお勤めには1時間もかかった。

高齢者とは思えない力強いご詠歌は会所に響き渡った。

こうして暑い日も寒い日も続けてきた観音講の営み。

「寝込むことなく、しかも長ごう苦しまんと亡くなることができる。先年亡くなった人もそうやった。ありがたい観音さんや」と笑顔で91歳のご婦人は話された。

ちなみに8月23日の地蔵盆にも観音講が営まれる。

その日は延命地蔵の前に座って般若心経を三巻唱える。

そのお勤めを終えると梵鐘を吊って鐘を叩く。

それはお下がりが配られる合図であるという。

なぜか21日の夜は宵宮で境内には溢れるほどの村人が集まってくるそうだ。

三輪の高宮(たかみや)さんはかつて大神神社の代々代宮司を輩出した地区だそうで、同神社を氏神さんと言えるのはここだけやと区長はいう。

(H23. 6.17 EOS40D撮影)

無山の虫送りの夜

2011年07月15日 09時05分17秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
毎年16日に田の虫送りが行われている地域が多くある。

室生地区では無山に染田

天理では山田地区

都祁では針ケ別所小倉がある。

田の虫送りはお寺で祈祷してもらったお札を集落の周りの辻に立てる。

その際に火を点けた松明をもって田んぼの虫を送っていくのだ。

焼き払う意味もあるらしいがいずれにしてもフィールドであるだけに雨天では実施できない。

雨量が多い日となったこの日はほとんどの地域で実施日程を順延されたが無山ではやむなく中断の決断をされた。

当日は雨だったが虫送りする時間には止んだことから実施した年もあったが中断したのは珍しいという。

ずいぶん前には中断したときもあったそうだがそれほど雨の影響を受けない日が夏至の数日前にあたる16日なのであろう。

村のお寺である牟山寺には大きな呼出し太鼓が置かれている。

虫送りを始める合図に使われているがこの日は本堂にある。

1月5日に行われたオコナイで邪悪を祓った鬼の的が残されている。

虫送りの松明は中断されたが、お札だけは辻に挿してきたという役員たちは会所で会食をされていた。

その役員たちは9月に行われる会式に供える御供作りがされる。

竹筒にご飯を入れてトコロテンのように突きだすという。

それをカエデの葉に乗せて本堂に供えるのだがもう一つの供え物もあるという。

それは朝から村の人たちが寄進したナスビである。

そのナスビは翅のようなものや脚を取り付けるツクリモノだという。

村の戸数にあたる20個を作るそうだ。

それを作り終えたちょうど昼ごろに般若心経を唱えて会式を営む。

天理上入田の御膳、都祁小倉の十七夜ゴゼン、あるいは来迎寺の会式に近いツクリモノであろう。

それは秋の収穫祭と思われる。

また、氏神さんの九頭神社では5月末に田植え終わりの毛掛け、8月末には風の祈祷もしているそうだ。

(H23. 6.16 EOS40D撮影)

上仁興釈尊寺虫の祈祷

2011年07月14日 07時42分28秒 | 天理市へ
行事に際しては毎月の当番の人が決められている天理上仁興の集落。

それぞれ営まれる村の行事の支度を公民館で整える。

月に一回もあれば二回ある場合もあり、この月は農耕行事にあたる虫の祈祷と休み座が行われる。

毎年の16日は田んぼを荒らす虫を殺生した供養の虫の祈祷で村の男性たちが公民館に集まってくる。

円座には当番の人が用意されたカマボコや練り物のテンプラなどが皿に盛られた。

村は13軒で当日の夕方に集まったのは10人ほど。

仕事を終えてやってきた人もいる。

そろそろ始めようかと隣室に移動する。

そこには釈迦如来座像が安置されている。

かつてあった釈尊寺の本尊の仏さんである。

当番の奥さんがいうには「ひゃくそんじ」だという。

先代のおばあさんがそう呼んでいたそうだが、それは「しゃくそんじ」が訛ったものと思われる。

祭壇の前には太鼓と鉦が置かれた。

その席に座るのは宮本六人衆のうちの一老と二老と決まっているが二人の叩き役には特段の決まりはない。

この日は休まれたことから区長が導師を代行された。

本尊の前に座って始まった虫の祈祷。

太鼓はドン、ドン、ドン。鉦はカン、カン、カンとそれにあわせて「なん、まん、いだ」と唱和する。

狭いお堂だが、それぞれの拍子がピタリと合って念仏は聞き取れない。

それを繰り返すこと100回。

数取りの人が数えられてちょうど100回で終えた百念仏。

田んぼの虫を供養する意味もあるお念仏だ。

各地で営まれる虫の祈祷ではそれを供養したお札が見られるが上仁興では登場しない。

虫を成仏させるお念仏そのものである。

奈良県立民俗博物館では9月24日まで「モノまんだらⅡ 太鼓とカネ」が企画展示されている。

そこには庶民の暮らしとともに歳時で使われてきた太鼓や鉦が出現する行事の紹介がある。

六斎念仏、双盤念仏、祈祷念仏、盆踊りや人寄せにまつわる道具である。

太鼓踊りや田楽で用いられるものもあるがその多くはお寺行事の念仏にあると思う。

その企画展も動画出展として協力している関係もあって上仁興の虫の祈祷はとても興味深いお念仏に聞こえた。

それはともかく念仏を終えた村の男性たちは公民館の座敷で円座になって会食を始めた。

肴にはお酒がつきもの場にはお茶は不要だと区長はいう。

次の行事である夏の休み座の案内や村のことの話題に盛りあがる。

休み座は春と夏の座がある。

いずれも農休みの意味がある。

夏の休み座は元々26日だったが田植えが終わる日を考えて今年は19日となった。

これは四社神社の行事であり、お下がりのお神酒をいただく慣習になっている。

(H23. 6.16 EOS40D撮影)

野依の田休み

2011年07月13日 06時38分03秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
農家にとっては田植えどきが忙しい。

家族が揃わないとできない仕事だ。

それを終えてほっとする時期は農休みとか田休みといわれている。

そして無事に終えたことを氏神さんにそれを報告するのが毛掛祭とか植付祭と呼ばれている地区の行事になる。

斑鳩の稲葉に住むYさんはその日を「ときより」と呼んでアンツケモチを作って食べたという。

大和郡山の横田に住むSさんはタコとキュウリの酢和えを食べたことを覚えているという。

「さなぶり」のことであったろう。

大宇陀の野依ではその日を「田休み」と呼んで社務所に集まってくる。

農家を営む人が多いようだ。

参拝といえばまずは社務所に納められている観音さんに手を合わす。

一人のご婦人はブルーベリーを混ぜた手作りの大福餅を供えた。

畑で栽培しているブルーベリー農家である。

小さな実だけにそれ採取するには手間がかかる。

実が採れるのは一時だけに年中売れるものにしたいと考案された大福餅。



それは加工品となるから保険所の許可を得なければならない。

試行錯誤されて作った大福餅を保険所で試食してもらったら大好評だったそうだ。

それは毎月一日の日に近くの道の駅で販売されている。

そうして村の行事が始まった。

集まるころに降りだした雨は本降りになりだした。

それで仕方なく白山神社の本殿に向けてローソクを立てた祭壇を廊下に設えた。

神饌はといえば本殿にある。

頭家が無農薬で栽培したダイコンと小松菜だ。

この一年を守っている頭家は始めて家で作ったという。

タネオトシをして栽培してきた神さんへ捧げる作物。

そのご加護もあるのか健康でいられると話す。

二人の頭家の奥さんは朝から境内を清掃されて枯れ葉をとんどで焼いていた。

「朝から降らなかったことが幸いでした」と話す。

さて、神事といえば般若心経を三巻唱えることだ。



長老が前に座りいつものように全員で唱えられた。

本来なら本殿の前に座るのだがこの日は雨だからそうされた。

「ゲッゲッゲッゲッ…」「クワックワックワッ…」の鳴き声は雨を欲しがる雨蛙(アマガエル)。

雨鳴きが聞こえてくる社に向かって田休みの喜びを祈った。

それを終えれば会食に移る。

風呂敷に包んで持ってきた家の料理は重箱もみられる。

以前はほとんどの家がそうであったが買ってきた弁当もあるがそれぞれの家のごっつぉだ。



ビールや酒も持ち込みの会食は村の講中の集まりでもある。

供えられた大福餅も下げられて配られた。

皮にも混ぜたブルーベリーの酸っぱさが餅の甘さと絡って、それはビール飲みにも好評な味。

1個100円で販売されているというから是非購入したいものだ。

(H23. 6.12 EOS40D撮影)

野遊び④in正暦寺周辺

2011年07月12日 06時29分15秒 | 自然観察会
週間予報では雨天のはずだった自然観察会の日。

ryu先生が久しぶりに参加されたこともあってこの日は雨がない。

どこへ行ってもなぜか雨が降らないという先生。

そのありがたさを受ける参加保護者会は17人。

スタッフも同数の17人で、ちょうどいいぐらいの人たちは昨年もやってきたヤマボウシの白い花が咲く正暦寺の駐車場に集まった。

平野部では6月に入ったころにヤマボウシの花が咲いていた。



そのひと月前にはハナミズキが春を彩っていた。

同じミズキの仲間だけに花はとても似ているが、ハナミズキは北アメリカ原産で花先は丸っこく白やピンクもあって華やか。

それに対して初夏に咲くヤマボウシは日本などを含むアジア産で先は尖がっている。

その花を見たくて植えたという丹生町に住む婦人。

7年もかかってやっと咲いてくれたと話す。

それはともかくこの日の観察会は雨降り模様を気にかけながら始まった。

出発の際には一昨日にryu先生が採取されたゴマダラチョウ標本を拝見する。

生きていたものではなくて死体を標本されたもの。



この蝶が生息している地域にはエノキの木があるらしい。

そう、エノキがあれば都市部であっても見られるのだ。

野神さんの行事ではエノキの木に蛇綱を掛ける地域がある。

そのエノキのゴマダラ・・・見たいものだがそれは幼虫。

若い葉っぱが喰われていたらそこにはゴマダラがいるということになるようだ。

そのゴマダラは脚が4本だそうだ。

昆虫なら脚は6本なのに・・・なんでと思いきや前脚の2本は小さく畳んでいるから隠れて見えない。

退化したんでしょうか。



ちなみに東大寺大仏殿にある青銅製の造作アゲハチョウの脚は8本もあるらしい。

集合までの時間帯に捕虫網で採ったオサムシは器に入れられた。

ゴミムシの仲間ででっかく脚は長い。

後ろ翅が退化して飛べない昆虫は歩いて移動する。

ということは生息地がそれほど広がらない。

それはミミズまで食べてしまう肉食系。

だから分泌物質が臭いといわれるオサムシ。

そう、その名はオサムシ好きであったことからペンネームにされた手塚治虫。

ちょうどブッダの映画が上映されている。

その場ではイシガケチョウも採取された。



文様はまさに石垣の様相だが見方によってはクモの巣のようにも見える。

平成21年に訪れたこの地域で再び目にしたのだ。

南方系のイシガケチョウはこの地で越冬、生息しているのだろうか。

同じ場所の駐車場ではウラギンシジミも飛んでいた。



翅を閉じれば渋い銀の色。

裏面はそうだが広げた内面の色はまったく違う。

まさにウラギンであるがなかなか閉じてくれない。

白花のオドリコソウ。



その名のごとくまるで何人かの踊り子さんが笠を被って円舞を演じているかのように見える。

その反対側にはヤワゲフウロが咲いていた。



ヨーロッパ原産の花は1977年に大阪で発見された帰化植物。

千早赤阪を越えて金剛山麓、山辺の道まで浸食しているらしい。

モンキアゲハは住民の家の庭に飛んでいったので見届けることができなかった。

その住民が出てこられてO先生はどこですかと尋ねられた。

そう、先生はかつてここで学習されていた。

久しく合う人との立ち話になったことはいうまでもない。

さて、そのモンキアゲハは日本で最大級のアゲハチョウ。

黒い文様はすぐにわかる。

ご主人の奥さんは「ゴクラクチョウ」と言った。

そう、当地ではサンコウチョウのことをそう呼んでいるのだ。

その鳴き声は聞けなかったが多種多様な自然の姿が満喫できる山間部。

田んぼの稲はすくすくと育っている。

かつては牛を飼っていたともう一軒のご夫婦が仰った。

悪さをして親に叱られたときに「牛小屋に入れてやる」と言われたことを思い出された。

その夫妻、当日は上のほうの畑にトマトを植えるだんどりをされていて、来週には天理の西井戸町で田植えをするらしい。

それはここからずいぶんと遠い遠隔地。

車で行く場合でも時間がかかる。

4、50年も前はどうして行ったのだろうか。

そのような会話を経て足取りは急な坂道を登っていった。

そこにはオオスズメバチが木に止まっていた。



子供たちがいるだけに危険は避けなければならないが、その10cm下にはヒカゲチョウもいた。

撮ったときには判らなかったがどうもクヌギの樹液を吸っているようだ。



その木の裏側にはコクワガタもいた。

さらに上へと進めば林のなかに咲くイチヤクソウがあった。

傍らには昨年に咲いたと思われるものが立っている。

同じ場所だが絶対に採ってほしくない大切な植物だ。



山の植物は家では育たない。

この地であるから生息できるのである。

心ない人の手によって絶滅した事例はたくさんある。

ササユリもそうだ。

何年か前の下見の際に矢田丘陵で発見したことがある。

ところが一週間後には消えていたのである。

こうした記述はしたくないのが本音であるのだが・・・ササユリ・・・望遠鏡で探してみよう。

ユキノシタは川沿いに咲いている。



湿ったところに生育するユキノシタは五花弁のダイモンジソウの仲間。

それはないが家の庭でよくみかけるユキノシタ。

園芸種なのであろうか。

オトシブミはところどころで見かけるが驚いたのはツチアケビだった。

平成19年の曽爾での観察会以来だ。

その翌年には消えていたツチアケビ。

あっちこっちに握り手が伸びているように見える。

ランの仲間でも葉緑素をもたない腐生植物で葉はない。

一週間もすれば花が咲くことであろうが曽爾の二の舞にはなってほしくない。



このツチアケビは予想通り21日ころにはラン科特有の花を魅せる。

その後は真っ赤なウインナーソーセージのようになるのですとウメちゃん、やまちゃん先生が確認してくれた。

感謝でありまする。

赤いお腹が美しいアカハライモリの♀。



こんな上の田んぼまでやってきたんだ。

それほどに水がきれいということだろう。

オタマジャクも小さな水槽に入れて観察した。

そうした器で観察はしやすいが撮影となると・・・。

オサムシに混じっていつのまにかベニカミキリが増えている。



触角が長いから♂だろう。

縁が黒けりゃヘリグロカミキリだがそれではないようだ。

上流から流れる水は早い。

その水路にオニヤンマのヤゴ(一年生)やひらたヒラタカゲロウもいた。



花といえばニワフジもタツナミソウも咲いている。



雑木林にはニワトコの赤い実やヤブムラサキの花が咲き、アマガエルが葉っぱに止まっていた。





アマガエルはジャンプ力がすごい。

こんなところにも跳んでいくのだ。

そのニホンアマガエルの脚は吸盤をもっている。



ガラス面でもぺっちゃりくっつく脚はこのようになる。

赤い実がたくさんぶら下がっているのはウグイスカズラの実。



一か月ほど前に咲いた漏斗状のピンク色の花は実になる。

ウグイスがその花や実を食べる姿が神楽を舞っているように見えることからその名がついたとされるが・・・。

赤く熟した実は口にいれるとジュワっと甘い汁がでる。

それはなんともいえない甘さであり、子供も大人もついばむほど美味い。

その向こうにいたのが小さなトンボ。



ではなくアブ(ムシヒキアブ科のシオヤアブの♀)。

干からびていた姿は飛んでいったので驚いたものだ。

撮っているときには気がつかなかったがなにやら脚で掴んでいるのは小さなバッタのようだけに肉食性であることがよく判る。



カギバの仲間は種類が多い。



その姿は枯れ葉のようで見えないステルス爆撃飛行機のような形だ。

その他にもヤマカガシ、ホソミオツネントンボ、カワトンボ、モリノアブラムシ、アメンボ、ゾウムシ、テングチョウ、ヤマトシジミ、アリグモ、ウズグモ・コガネグモの巣文様、マムシグサ、ヤブマオなどなど。



そうそうカンオアイの花も見つけたことを記しておこう。

私は大宇陀の行事取材があるので途中で失礼させていただいたが、雨にも遭遇せず、さまざまな観察物に出会えた山間部は素晴らしい環境にあると思う。



(H23. 6.12 EOS40D撮影)