マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

能勢町長谷卯月ヨウカのテントバナ

2012年07月21日 07時52分44秒 | もっと遠くへ(大阪編)
70数世帯からなる長谷地区は棚田が広がる大阪府能勢町。

標高は500mも越えるという。

上から見下ろせばそこは原風景が広がる。

萱葺き民家も何軒か見られる長谷の地。

のどかな美しい里山に棚田が一望できることからその景観を描く写生人もいる。

数か所で鯉幟もあがっていた。

懐かしい風景に魅入られる。

その一角にテントバナを立てられたH家。

紹介してくださったのは隣村の平野の大石らんま製作所の親父さんだ。



H家では毎年揚げているという。

この日は前前日に立てたテンテバナの下にアミガサダンゴを供える。

お神酒口にはサカキを挿している。

立てる場所は庭の玄関先。

いわゆる家のカド(門)である。

敷地内に建築中の家屋。

新旧の家屋の間にそびえたつテントバナは倒れないように土台の杭に結わえておく。

5月8日は「ヨウカビ」。

ひと月遅れのヨウカビだという。

慈眼寺では甘茶で接待。

その甘茶を貰いにいくというからお釈迦さんの日。

レンゲやスミレの花を飾る御堂があるという。

テントバナは竹竿。

目線で測った長さはおよそ7m。

天頂には十字の花が縛られている。

花はアカバナツツジ。

大石らんま製作所もかつてテントバナを立てていた。

花はこれだと案内された田んぼの傍に咲くカキ色のツツジ。



遠めだがどうやら異種のツツジに見えた色花だった。

H家の話では、前日ではなく前前日の6日に立てる。

その理由に「ヨイバナ(宵花)はいかん」というのだ。



お供えはヨモギモチ。

二枚に重ねた中に餡が入っている。

その形からアミガサダンゴと呼んでいる。

お供えをするのは「ニッテンサンに供える」という。

ニッテンサンにご馳走をするのは日の照りのおかげ。

それで耕作がうまいことできると話す。

ニッテンサンはおそらく「日天」であろう。

太陽を「オテントサン」と呼ぶ地は多い。

我が家もそうだった。

そのオテントサンのおかげで米ができる。

ありがたい太陽に感謝して高く揚げるテントバナ。

お日さんが出る方向に向けるという。

まさに「オテントサン」に捧げる「ハナ」がテントバナ(天道花)なのである。

竿竹は毎年替える。

家の畑で家人と共に種植えをされていた三人の婦人がおられた。

話によれば能勢長谷の棚田オーナー制度に参加して以来、とても気にいったそうで、その後も度々訪れるようになったという。

この日も訪れていた婦人たちは同年代。

後述する八阪神社の御田植え祭りは始めて拝見されて、数々の能勢の話題に盛りあがる。

家人のご厚意でテントバナに供えられたアミガサダンゴをいただいた。

実に美味しいヨモギ味のダンゴ。

H婦人の手作りだという。

一般だったでしょうか、お店のヨモギダンゴとは違って格別のお味。

どこかが違う。

まさかと思うが、能勢の愛情ではないかと思った長谷の景観。

それまた美味しいものであったことを記しておく。

短時間の能勢取材を終えて一路奈良へ。

能勢を旅だったのは16時40分だった。

阪神高速大阪空港料金所、西名阪松原本線料金所、天理料金所を通過して名阪国道を東へと向かう。

急いでいるのは山添村の様子を確認することだ。

この日を逃せば一年後となる。

(H24. 5. 8 EOS40D撮影)

大阪能勢の行事を訪ねて

2012年07月20日 08時29分24秒 | もっと遠くへ(大阪編)
3月初めのことだ。

たまたま見ていたBS放送は「にっぽん原風景紀行」を映し出していた。

この回の行先は大阪の能勢だった。

日本百選に選ばれている能勢の長谷の棚田を巡る役者は能勢の人形浄瑠璃の関係者を尋ねていく。

そこで得た浄瑠璃の見台。

それを製作した人を知りたくて一軒の家を訪れた。

もしかして・・・とこのときよぎった。

能勢で思い起こすのが元会社で勤めていた若者のことだ。

親父さんが家業でしていた「らんま作り」を継ぐんだ云って退職した。

送別会でそう云っていた。

まさか、と思い画面展開して役者が上がり込んだ「らんま製作所」の工房に居たのは・・・彼だった。

15年以上も会っていないが、変わらぬ顔がアップされた番組。

懐かしい、の一言である。

彼の声が聞いてみたくなり、「らんま店」をネットで調べた。

大阪の電話帳は手元にない。

仕方なくネットで調べた。

彼の名前は覚えている。

手掛かりはそれだけだ。

あれやこれやと調べてみれば、あった。

ピッポッパと番号を押す。

ベルが鳴るから存在しているのだろう。

しばらくすると受話器があがった。

その声はまぎれもない彼の声。

名を名乗っても思い出せないという。

15年も経過しているだけに、そりゃそうだろう。

しばらく元会社の話をするうちに思い出したようだ。

お互い年齢も15歳も加齢したが声は変わらなかったのだ。

その彼に「オツキヨウカ」のことを尋ねてみたが知らないという。

地区が異なれば知らないようだが神社でオンダ祭があるという。

子どもが参加したことから知っているオンダ祭。

能勢の民俗行事取材も兼ねて伺うことにした5月8日。

奈良から能勢までは遠い。

どの道を行けばいいのやら。

前日に電話して聞いた道筋を走らせる。

第二阪奈道路経由して阪神高速道路をまっしぐら。

北上すればそのまま能勢に出るという。

案内された通りに車を走らせる。

豊中、伊丹、川西から木部まで一直線。

そこから173ご号線をさらに北上する。

能勢電と並行する路線だ。

道なりに進めてトンネルを抜けるとそこが能勢だった。

おおさか府民牧場がある地区が平野。

長谷はさらに北だが彼の住まいは手前。

ペーパーマップを手がかりに着いた「大石らんま製作所」。



ゴルフに出かけた彼は不在だったが両親にお会いできた。

能勢の人形浄瑠璃はオヤジ(家元制度)で成り立っている。

オヤジになるためには弟子をとらなければならない。

オヤジの下にはオオゼキ。

その段階で弟子を設ける。

後継者育成の弟子制度。

その段階を経てオヤジになる。

オヤジさんにならなかった親父さんであったが息子の彼は人形浄瑠璃支援の黒衣隊。

この件も取材したいが奥が深いだけに後日に・・・。

らんま職人は息子に譲った親父さんだが、母親が手伝いをしている工房を拝見させていただいた。

欄間の発注はずいぶんと少なくなったという。

家屋の建築の在り方、材木重要がここ何年かで変化しているのだと話す。



そういった需要が少なくなったが有形文化財の修復依頼が増えているという。

だんじりや御輿などの飾り彫りものもその一つにある。

製作中の仕事を見せてもらった。

15歳から65歳で息子に譲るまでらんま製作をされてきた親父さん。

らんま職人時代の最盛期は大阪万博の頃。

ひっきりなしの注文があった。

手伝いさんもきてもらって製作していたそうだ。

昼まで製作していた製品は宅急便で送った。



らんまは杉の一枚板。

それが「大阪らんま」だと話す。

ケヤキは神輿、だんじり、太鼓の飾り彫刻だそうだ。

現在は五反の稲作を勤めている親父さん。

半年間の米作りで一家が生活できるほどの収穫を得るという。

早生のキヌヒカリ、ナカテはキヌムスメを耕作している大石家。

ボコボコと湧き出る能勢の水が美味しいお米と酒米を作ってくれると笑顔で語る。

湧き出る水は山腹を流れるミクサヤマ(三草山)の水脈からだ。

その水は棚田を構築して盛り土をする。

棚田は人工的に造られた石垣擁壁で、ところどころに水が流れ出る出口が見られる。

それは四角い石組だ。室町時代に構築されたようだ。

ミクサヤマは石英閃緑岩から成り立っている山。

その内部は隙間があるらしく、石組みの排水口を「ガマ」と呼んでいる。

つまり棚田を構築するにあたり、横穴式に暗渠した石組みの地下排水溝を、その上に盛土をして水田を造成した農業土木だ。

その築造年代は、文禄年代以前に遡るとされている。

およそ四百年前に築かれた「ガマと」呼ばれる農業用水の地下排水溝は300カ所も残っているそうだ。

ガマが分布する谷は、「山田の谷」、「宮の谷」、「中西」、「溝谷」、「土井谷」の五つ。

その一部が発掘調査された。

その際に出土した瓦器、土師器、白磁等の遺物によれば少なくとも室町時代の範囲であったとうとされるが、石垣積みの技術が戦国の織田・豊臣時代に石垣造りが広まったと解釈される説もある。

野面積み(のづらづみ)であったという調査結果から考えれば織田・豊臣時代の城郭造りと一致する時代。

野面積みで思い起こした有名な穴太(あのう)積みがある。

それはさておき野面積みは自然石を加工せずにそのまま積みあげる工法。

鎌倉時代から戦国時代にかけてだ。

奈良の郡山城にもその工法が見られる個所もある。

その石組み工法が畑作の生産技術に応用されたのではないだろうか。

「ガマ」は1591年の太閤検地帳に記されているとすれば、その点においても符合する。

確かなことはいえないが、農業土木の文化遺産には違いない。

「ガマ」は棚田の灌漑だけでなく、洪水調節機能も合わせもっている。

大雨の場合には「ガマ」に水を集めて素早く下に流し去る技術は、文化遺産とは言い難く、今でも村の豊作と安全を構築した先人たちの知恵と尽力があったおかげだということを忘れてはならない。

能勢の村では40年ほど前に耕運機が導入された。

それまでは「カラスキを用いて牛を追っていた。牛遣いがうまくできんときは、ウーと云って牛は横に行きよった」と話す。

この日は「オツキヨウカ」の日。

能勢の天道花(テントバナ)をされているがあると聞く。

その家を紹介すると案内されて伺った長谷の地。

H家のカド(門)に高く揚げられている。

この日は八阪神社で行われるオンダ祭がある。

それが始まるまでは時間は長い。

丁度昼どき時間。

能勢の焼き肉を食べに行こうとご両親のご厚意を受けた。



誘ってくださったお店は焼肉・ホルモンの「新橋亭」。

能勢中植牧場で育てた黒牛が味わえる直営店は地元だけでなく郊外からも多くの客がくる有名なお店だそうだ。

夜は貸し切り団体も入るようだ。

ときおりどころかしょっちゅう焼き肉を食べにくるという。



ありがたくいただいた昼食はご飯、汁物、香物、サラダ、小鉢がついた焼き肉ランチはボリュームたっぷりの能勢黒牛肉。

ジューシーで美味しい。

食後にはコーヒーかシャーベットを選べるサービスもある。

どれもこれもあまりの美味さに驚いてしまった。

この場をお借りしまして厚く御礼申しあげます。

ご両親の話によれば、能勢にもイノコがあるという。

11月の初めの頃。夕方から子どもたちが平野の集落を巡ってツチノコと呼ばれるワラ棒で庭先の地面を叩く。

その際には「いおとけ いおとけ」と外に出てもう一度叩く。

平野は30戸。

一軒、一軒回っていく。

イノコをすれば祝儀を貰えるからと元気よく叩く子どもたちは小学生から中学2年生まで。

およそ16人にもあるという。

平野のイノコは獅子が二人。

カラクサ模様の風呂敷に身を包んで舞うという。

平野からは遠く離れている能勢町の天王(てんのう)でもイノコがあるという。

そこでは「キツネオイ」と呼ぶ。

収穫した稲藁でツチノコを作るようだ。

(H24. 5. 8 EOS40D撮影)

山添の植え初め

2012年07月19日 06時43分07秒 | 山添村へ
「お月八日」や「ホソナワ」の風習を拝見した山添村の男性は稲作をしている。

正月初めに行われる寺行事のオコナイ。

かつて子供がウルシ棒を叩いて「ダンジョウ」と叫んでいた修正会である。

オコナイは「極楽寺 牛玉宝印」と「常住院」の2枚のお札。

垣内によって配られるお札はそれぞれ。

その一枚をたばってハウス前にウルシ棒に挟んで立てる。

ウメやツバキの木を添えるそうだ。

オンダの苗はご自身が造って苗代に立てる。

半紙に包んだアオマメやアライゴメも供える。

それをミトマツリと呼んでいる。

春の豊作を願う農家の行為は社日の日にしているそうだ。

正月前に搗いたモチを木に付けたナリバナもしていたという。

それから数カ月後。

田植えが始まる。

田植えをする前には植え初めもする。

今年は5月3日にしたという。

その場を案内してもらった。

最初に田植えをする場にカヤとクリの木を立てる。

例年は12本だが、今年は閏年で13本となる。

フキの葉にキナコをふり掛けたゴハンを入れて十字に縛る。

そのフキダワラも閏年は13個にする。

以前は畦にそれを立てていたという。

マメゴハンやキナコを塗したコワシも供えていたようだ

(H24. 5. 7 EOS40D撮影)

家の歴史を刻む

2012年07月18日 06時46分03秒 | 山添村へ
初庚申の歴史を刻む「ホソナワ」が山添村のとある大字に住む男性宅で残されていた。

男性は毎年の初庚申の日にホソナワを作って「コワシ」を供えるという。

コワシは甘い焼き菓子。

オカキかアラレのようにも思えるゴガシであろう。

「ホソナワ」と呼ぶのは結った細い縄のことだ。

初庚申の前夜のこと。

「カノエザルの庚申さんが居てる」と思われる場所にそれらを供えるという。

翌日の朝は前夜に供えたホソナワを丸太に巻きつける。

「そんなんをしてるんや」と屋根裏に納めてあった丸太を拝見した。

ホソナワの数はおよそ120本。

毎年されているホソナワの本数は増え続けて120年。

家の歴史を刻む本数である。

かつては囲炉裏がある部屋の棟木にしていたという。

家屋を造り替えたときに使えなくなるからと大工さんが取りだしてくれた。

それを外して丸太に一本ずつ括り替えた。

棟木よりも小さくなったので余分なホソナワは短くした。

黒っぽく見える部分はかつてあった囲炉裏の煤が付いたのであろう。

最近のホソナワには日付けを書いた札を付けている。

先代の何代前になるか判らないが家を建てたのはそれ以前だったという。

いつからしていたのか判らない。

「なんでこんなことをするのか、どういう意味があるのか先祖さんから教えてもらってないので判らない」と語る。

(H24. 5. 7 EOS40D撮影)

今もなお、お月八日

2012年07月17日 08時22分37秒 | 山添村へ
伝聞に残るだけだの「天道花(テンドウバナ)」の風習。

いつしか奈良県内からすべてが消えた。

そう思っていた。

山添村のとある大字に住む男性は今でも毎年5月7日に「お月八日」をしているという。

その記録を写真に撮って残している。

先代の親父さんが行っていた「お月八日」を見習って継いできた男性。

予め竿竹を用意しておいた。

長さは4.5メートルほどにもなる。

付近の山に入ってヤマブキやフジの木を採ってきた。

今年の花咲きは一週間も遅れている。

ヤマブキは黄色い花がついているがフジは見当たらない。

険しい処にも見て回ったが咲いたフジはたったの一本。

肝心かなめのベニツツジはまったく見つからないと話す。

この年のお月八日は仕方なくヤマブキやフジだけになった。

汚れないようにとシート(かつてはコモ)を敷いた場にフジの枝を揃えて縦に置く。

その上から横方向にもフジの枝を置く。

同じようにヤマブキの枝も縦と横方向に置く。

ヤマブキの黄色い花が三方に広がる。

その位置に竿竹を置いた。

そして上から同じ三方にヤマブキを置く。

それからフジの枝を置いた。

竿竹から抜けないように紐で縛る。

強く縛らなければ花が落ちてしまうのでしっかりと括る。

横方向の花もしっかりと括ってできあがった。

バランスがとれた三方の花は美しく飾られた。

これを家のカド(門)に立てる。

蓆を敷いてカド干しをしていた前庭である。

いつもこうしているが立てるカドの場所は一定ではない。

この年は松支えの支柱に沿って結わえた。

倒れないように三か所を紐で括った。

その場に台を置いて御供を供える。



本来は夜になってからお供えをするのだが、この日は特別だという。

バランを敷いて「ヨゴミモチ」を供える。

ヨゴミモチはヨモギモチ。

その訛りは県各地で聞かれる「ヨゴミ」だ。

親父さんがされていたときはミタラシダンゴだったかも知れないという。

本来は「ヨゴミモチをおますのだが、この日は大福のクズマンジュウにした」と話す。

翌日の8日はそのまま立てておいて9日の朝に倒すという「お月八日」の天道花。

男性はその名を引き継いでいなかったようだ。

男性の話によれば同大字には他にも2軒がその風習をしているという。

一軒は竿竹やツツジ、フジの花が準備できていなかったことからこの年はされなかった。

これをオツキヨウカと呼んでいた。

もう一軒もベニツツジやフジの枝を括り付けて立てていたが、5年ほど前に止めたという。

その当時は天道花の先端にカマをも一緒にして立てていたという。

秋の収穫に使った稲刈りのカマ。

それはカゴに入れた。

立てた当日にアカゴハンをおましたと話す。

稲刈りが終わって「良い日」を選んで使った2、3丁のカマを箕の上に置いた。

カリジマイ(刈り終い)だという。

なんとなくカマの件が混在しているように感じたかつての農家の風習だが、その件を聞いて思い出したのが天理市小田中町に住む婦人の話。

台風がまともに来たら家が壊れるからといって庭に長い竹を立てた。

その先にはナタを括りつけてぶら下げた。

それに台風の眼が当たったら大風がちらばるというまじないをしていたと語る。

その光景はおよそ50年前のこと。

出里の天理市山田町での思い出である。

(H24. 5. 7 EOS40D撮影)

伝聞のお月八日

2012年07月16日 07時35分24秒 | 民俗あれこれ
かつては旧暦4月8日に花まつりが行われていた。

昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』でそれが紹介されている田原本町の伊与戸。

「オツキヨウカ」とも呼ばれていた日だった。

その日に天道花(てんとばな)を庭に立てていた写真が残されている。

数メートルもある長い竹竿の先には山に咲くツツジの枝葉を天頂に括りつけ、1足の草履を入れた竹カゴをぶら下げていた。

そのカゴには何か良いモノが入る、或いは3本足のカエルが入ると云われていたようだ。

「オツキヨウカ」は新暦の五月八日だったが、旧暦でいえば四月の卯月(ウヅキ)だ。

「ウヅキ」は「ウツキ」。

さらに訛って「オツキ」となったのであろう。

「ヨウカ」はまさしく「八日」だ。

天理市の二階堂辺りでもその風習があったとある。

川上村の高原では4月8日に行われている釈迦誕生祭を花まつり、或いは「オツキヨウカ」と呼んでいた。

その日のこと。

各家では杉の木の先端に葉を付けた杉の木を立てた。

そこにヤマブキ、シャガ、ツツジ、ボタンなどの花を縛り付けていた。

「オツキヨウカの習わし」だと云っていた。

平成20年の花まつりの際に聞いた話である。

杉の竿を高く立てると鼻の高い子が生まれるといって高さを競いあったという。

「風が家に当たるとあかん」と云ってその日の夕刻に降ろしていた。

翌日にはコイノボリを揚げなくてはならないことから、早くしまうようにという意味もあったという。

一軒、一軒と止めていって村から消えたオツキヨウカの風習。

今から10年も前のことである。

このような風習は旧都祁村でも行われていた。

「5月8日はオツキヨウカだった。そのころは山にツツジが咲いている。太い真竹を切ってくる。10尺の長さの竹の先にツツジを取り付けて今年も豊作になるようと祈っていた。ツツジは3本。中央はすくっと立つツツジ。2本背中合わせのようにして縛った。先代の親父がしていたことは記憶にある」と語る藺生住民のTさんが云うには、戦後の昭和30年代のころまでしていたという。

トラクターが田んぼを耕すようになって消えたそうだ。

都祁南之庄に住むMさんの話では「オツキミ」と呼んでいた。

ツツジの花が咲くころだったから春。

そのツツジを長い竹の竿の上に十字に縛って庭に立てた。

子供のころだったというから60年も前のことのようだが、「なんのことかわからん」なりに立てていたと話す。

奈良市別所町でも同じような風習を聞いた。

「春の日やった。先に十字にこしらえて花を付けた長い竿を立てた。そこに籠を取り付けていた」。

三本足のアマガエルが入っておればめでたいことだったと話す高齢者のOさん。

実際には見たことがないが、入った家があったということを聞いたことがあるという。

それを「オツキオカ」と呼んでいた風習だが、長い竹竿の名はなかったそうだ。

別所町では一軒、一軒とそこらじゅうの家が揚げていたそうだ。

花を括って十字に縛るのは、今でもその仕方を覚えているそうだ。

19歳で兵隊いっていたときの頃の話というから、およそ70年も前のことの風習だった。

その村に住むO婦人も覚えており、同じく「オツキオカ」と呼んでいたようだ。

「オツキオカ」はおそらく「オツキヨウカ」であろう。「ヨウカ」が訛って「オカ」になったと考えられる。

春の日というのは4月の八日。

4月は、十二支を月で数えると、子、丑、寅、卯、辰、巳・・・。

つまり4月は卯月にあたる。

「卯月」は「ウツキ」。

それがなまって「オツキ」になった。

そうして呼ばれた別所の風習名称は「オツキオカ」となったのであろう。

これらの話はかつて奈良県内各地で見られた「天道花(テンドウバナ)」の風習だと思われる。

大和タイムズ社が昭和34年に発刊した『大和の民俗』の中に「四月八日」の項に記されている「ウヅきヨウカ」。

奈良県高市郡では八日花と呼んでお月さんに届くぐらい高く揚げた。

ワラジを吊るして脚気のまじないにしていた。

吉野郡では「オツキヨウカ」は訛って「ウキョウカ」。

下田村史によれば「オツキ八日、花よりダンゴ」と云って、7日の夕方にモチツツジとダンゴ花を竹竿に付けて立てた。

高く揚げると次に子供ができたときは鼻が高くなる、或いは虫がつかぬとあるそうだ。

二上村史にも同様の記事があり、新しい竹にモチツツジの花とホソの実を高く括りつけてお月さんに供える。

宇陀郡では上のほうを十字にして三方にさまざまな花を飾ったそうだ。

カゴをぶら下げた一本と花付けの一本の二本を立てる。

長いほうが月で、短いほうは星に供えた。

天から下りてくる三本足のカエルが、このカゴに入ったら幸福がくると信じられていた。

大柳生村史によれば竹や丸太を組んで立てていた。

レンゲツツジなどの八日花や茶の花を飾って一晩立てた。

翌日に三本足のアマガエルが入っておれば福がくるという。

こうした風習は和歌山有田や兵庫県、大阪和泉もあったというから広範囲。

奈良市の長谷町でもあったという記録があるらしい。

竹竿の先に紅ツツジ、藤、山吹などを十文字に、その下にも一束くくりつけ、さらにその下に小籠も吊して、花や三本足の蛙が入ってあれば吉だという。

(H24. 5. 7 EOS40D撮影)

重乃井の釜あげうどん

2012年07月15日 08時04分08秒 | 食事が主な周辺をお散歩
何年振りなるのだろうか、重乃井の釜あげうどん。

子どもたちが高校生になるまで行っていたかも知れない。

ちっちゃなときから食べていた重乃井の釜あげうどん。

「うどんは他の店では食べない。ここだけや」と云っていた。

最初に行ったのは何時だろうか。

思い出せないくらいの昔だ。

今の店ではなくて・・・。

平成7年に東大寺二月堂のお水取りに行ったことがある。

それが初めて見るお松明だった。

小雨が降りしきる日だった。

参拝者は傘をさしていた。

鐘楼が打たれて鐘の音とともに松明がゆく。

当時はビデオで収録していた。

今でも変わらないその映像。

松明がお堂の回廊を通るたびにストロボが閃光する。

堂内では練行衆が履くサシカケの音がする。

ぐるぐると回される松明にどよめきが聞こえる。

そんな情景を見てきた帰り道に寄ったのが重乃井だった。

ここはどうして知ったのか。

何かの奈良の本だったと思うと話すかーさん。

そういえばそうかも知れない。

それから何度も出かけた重乃井の店。

巨人軍の宮崎キャンプ地がある重乃井本店は宮崎県。

そのときに撮られたとされる重乃井店を訪れた川上監督や長島さんの写真もあったが、王さんの姿はどうだったか記憶にない。

今は大リーグに行ってしまった松井秀喜選手も掲示されていた。

読売ジャイアンツに入団した直後とすれば平成5年(1993)であろうか、若いころの写真があったことは覚えている。

当主や奥さんとともに映っていた写真を眺めていたことを思い出す。

子どもが小学校時代から行っていたので、それから随分と歳がいったものだが・・・。

手打ちうどんは腰があるようで、ないような不揃いの麺。

注文を受けてから茹でるうどん麺だけに時間がかかる。



であるが、出汁がとにかく美味いのだ。

利尻昆布、カツオ、宮崎産シイタケで旨味を引き出す。

揚げ玉は油っぽくない上品さ。

これが一つの味の決め手。

新しい店に移ってからは巨人軍の写真は消えた。

映像は消えたが、味はそのままだ。



サイドメニューのお稲荷さん、ちらし寿司は120円。

平日ならこれがサービス品でついてくる釜あげうどんは600円。

おどろくべき価格と味だが、たよりないからいつも700円の「大(1.5玉)」を注文する。

かつて試しにということできつねうどんや天ぷらうどんを注文したことがあったが、やっぱり釜あげうどん。

うどん麺は同じだが、まったく違う代物。

10年ぶりに食べたけど麺は柔らかめになったのでは、と思った。

そういえば一度だけ持ち帰り釜あげうどんを買ったことがある。

お家で食べても美味しい重乃井の釜あげうどん。

出汁が決めてだと思った。

重乃井のことを書いていたら、「初次郎」のうどんも食べたくなった。

ところが、お店はとうに店終いしたようだ。

(H24. 5. 6 SB932SH撮影)

光と影のファンタジー藤城清治影絵展

2012年07月14日 08時30分35秒 | メモしとこっ!
「光と影のファンタジー」が奈良県立美術館で開催されている。

影絵作家の藤城清治氏が創り出す影絵展だ。

影絵と言えば障子の向こう側で手を組み合わせて透過する影絵を思い出す。

子どものころにはいつもそうしていた。

学校行事でもあったような、ないような記憶は曖昧だ。

幻灯機で映し出した影絵は回り燈籠だった。

夏の夜のイベントはどこへいったのだろうか。

4月7日から6月24日までの開催は初の奈良展。

氏の米寿記念の特別展である。

開催されて一ヶ月目。

これは見ておかなければと思っていた。

そう思っていたら入場券が舞いこんだ。

ありがたく受け取ってやってきた美術館。

駐車場は近くのタイムパーキング。

たぶん長時間の利用になることだろう。



会場は第1から第6会場まである。

それぞれのテーマ別に展示されている会場だ。

初期のモノクロ作品から水彩画、絵本、最新作までの248点が並ぶ。

一つ一つの展示作品には解説文があるから嬉しい。

氏の思い思いも書き綴られているから製作プロセスにおける気持ちが伝わってくる。

作品タイトルだけでも映像が浮かんでくる『こびとのせんたく日』、『小鬼のしゃしんや』など。

物語になっている『雨を降らせた傘屋さん』や『ビルゼン』、『玉ねぎと子うさぎとねこ』は童話風。

拝観者のおばあさんが孫に一つ一つ読み聞かせる。

物語もそうだが、そんな光景に心が温まる。

会場は撮影禁止。

こんな素晴らしい情景をメモしたくなってボールペンを取り出した。

それを見ていた館の人から注意を受けた。

書くんでしたら鉛筆にしてくださいと伝えられた。

頭に記憶するのはたぶん無理。

200点すべてを見ていけば印象もどこかへ消えていくが、思い出すように記憶を記録しておこう。

印象に残った作品の一つが西遊記。

それも孫悟空と女の顔だ。

生き生きとした目と顔は大アップ。

迫力ある映像が飛び込んでくる。

1958年の作品というから昭和33年。

私が8歳のころだから小学三年生。

学校で見たことはないと思う。

見たような記憶があるのは思いすごしで、昭和33年から38年に亘って中央公論から毎号発刊された『西遊記』であった。

著者は邱永漢氏で、挿し絵を担当したのが藤城清治氏だった。

西遊記といえば、東映長篇漫画映画を思い出す。

手塚治虫の「ぼくの孫悟空」原作をベースに製作された昭和35年(1960)の作品。

小学五年生のころになる。

東映長篇漫画映画は「白蛇伝」が最初の作品で昭和33年(1958)10月公開。

翌年の昭和34年(1959)12月に公開されたのが「少年猿飛佐助」。

そして翌年の「西遊記」となる。

次は昭和36年(1961)の7月公開の「安寿と厨子王丸」。

東京オリンピックの年だ。

昭和37年(1962)7月公開の「アラビアンナイト シンドバッドの冒険」。

昭和38年(1963)3月公開の「わんぱく王子の大蛇退治」。

そのころは中学生になっていたが、懐かしい作品の映像は今でも鮮明に覚えている。

平成24年は「古事記」が編纂されてから1300年目。

平成32年(2020)になれば「日本書紀」が編纂、完成後の1300年の節目。

記・紀万葉プジョジェクトを推進している奈良県。

記念事業は神話のふるさと所縁の地になる島根、鳥取、福井に宮崎県なども。

漫画映画の「わんぱく王子の大蛇退治」は神話を題材にした冒険活劇映画。

亡くなった母、イザナミ(伊邪那美)がいる黄泉の国を探して、冒険の旅に出たわんぱく王子のスサノオ(須佐之男)が、出雲の国でヤマタノオロチ(八俣大蛇)を退治する物語だ。

神話の世界を映画化した東宝映画の「日本誕生」も覚えている。

昭和34年(1959)10月に上映された特撮映画。

いずれの作品も子ども時代に脳裏に焼きついた。

私にとっては先鋭的な作品。

記・紀の原文をしらなくても映像で神話を伝えてくれる。

それがベースになったのか大人になったときに買いあさった本が棚に並んでいる。

大林太良著「神話の系譜」、森浩一著「古代日本と古墳文化」、直木孝次郎著「日本神話と古代国家」、松本清張著「カミと青銅の迷路」、古田武彦著「よみがえる卑弥呼」、梅原猛著「海人と天皇」、茂在寅男著「古代日本の航海術」、平川南著「よみがえる古代文書」、関和彦著「出雲風土記とその世界」、中江克己著「海の日本史」、渡部昇一著「日本神話からの贈り物」などなど・・・・。

数えればキリがないくらいの本だけに全てを列挙するには丸一日かかる。

それらの本はいつしか民俗にも繋がっていく道しるべ。

脱線したが、もう一度見てみたいくらいの作品は再放送を願うばかりだ。

そんなことを思い出しながら観覧する「光と影のファンタジー」影絵展の作者が創り出したケロヨン。

国民的に知られている「ケロヨ~ン」、「バハハァーイ」の流行語は今でも通用するのでは。

また、「つるの恩返し」、「泣いた赤鬼(童話作家の浜田広介原作)」の影絵劇などもある。

私が育ってきた年代と重ね合わさるが、何時、どこで見たのだろうか。

覚えていない。

宇津救命丸のコマーシャル映像も藤城氏の作品だった。

影絵の中の揺りかご。

すやすや眠る赤ちゃん。

メルヘンな映像とともに流れてくる流れるコマーシャルソングはお母さんの唄。

氏のコマーシャル作品はカルピスもあったことを知る影絵展。

懐かしさのあまり、なかなか前へ進まない。

氏の作品は切り絵の重ね合わせ。

いろんな画材を組み合わせる。

「ぶどう酒びんのふしぎな旅」では、なんと割れたガラス瓶まで使っている。

そのことも書かれている氏の言葉。

そこへ至るまで1時間の第2会場。

第6会場までの全ての作品を見るには2時間半。

駐車料金は1500円もかかった。

(H24. 5. 6 SB932SH撮影)

蛇穴の汁掛・蛇綱曳き祭

2012年07月13日 08時07分53秒 | 御所市へ
立夏のこの日は暑い日になった。

昨日の風は冷たく強く吹く日。

気温は20度に達しなかったが、この日は一挙に26度へ上昇した。

毎日が入れ替わる天候不順の日々だが行事に待ったはない。

御所市蛇穴で行われている野口行事。

蛇穴(さらぎ)の汁掛祭・蛇綱曳きの名称がある野口行事は「ノグチサン」、或いは「ノーグッツアン」と呼ばれることもある。

「ノグチサン」、若しくは「ノーグッツアン」とは不思議な名称だが、橿原市地黄町で行われる行事は「ノグッツアン」と呼ばれる。

「野口」が訛ったと思われる「ノグッツアン」は5月5日の朝。

まだ夜が明けない時間帯に野神の塚に参って帰り路に「ノーガミさん、おーくった。ジージもバーバも早よ起きよ」と囃しながら帰路につく子どもたちの行事だ。

桜井市の箸中で行われている野神行事も「ノグチサン」と呼ばれる。

同市の小綱町で行われている行事も「ノグチサン」だ。

なぜに「ノグチサン」と呼ぶのか判らないが、藁で作ったジャ(蛇)やムカデを野神さんに奉る。

ジャは水の神さんとされる蛇穴の蛇綱。

雨が降って川へと流れる。

貯えた池の水を田に張って田植えができる。

水の恵みは農耕にとって大切なこと。

奈良県内ではこうした蛇を祀る野神行事を「大和の野神行事」として無形民俗文化財に指定されている。

その一つにあたる蛇穴の汁掛祭・蛇綱曳き行事は毎年5月5日に行われている。

朝3時半ころに集まってくる青年団。

この日に行われる行事を村に知らせる太鼓打ち。

朝4時から出発して蛇穴の集落全域を巡っていく。

5時とか、5時半ころに聞こえてきたという人もいるから相当長い時間を掛けて振れ回るのだろう。



6時過ぎには青壮年会やトヤ(頭屋)家を手伝う隣組の人たちが自治会館に集まってくる。

今年の当番は9、10組の北口垣内の人たち。

接待するご馳走作りに心を尽くして料理される。

この日を楽しみにしていた子どもたちは7時前だというのにもうやって来た。

小学3、4年生の女児たちだ。

家で作ってきたオニギリをほうばっている。

女児の一人が話したカケダイに興味をもった。

おばあちゃんの家でしているというその地は「かもきみの湯」がある大字の五百家(いうか)であろうか。

正月の膳もしているという。

そんな話を提供してくれた子どもたちは朝から元気がいい。

法被を着た青年団の人たちと気易くしゃべりまくる。

役員たちは揃いの法被に豆絞りを受け取って自治会館にあがる。

そのころやってきた三人の男性。



座敷に座る区長や青壮年会、青年団らに向かって、お神酒を差し出し、口上を述べる。

「よろしくお願いします」と、前年5月5日の蛇曳きを終えてトヤ受けされた9、10組の北口垣内のトヤの代表挨拶(3人)である。

一日かけて行われる蛇穴の行事の始まりである。

口上を受けたあとはこの日の朝まで神さんを祀っていたトヤ家に向かう。

自治会館から200m北の北口垣内までは黙々と歩く役員たち。

「野口神社」の名がある高張提灯を掲げたトヤ家の直前になれば手拍子が始まった。

伊勢音頭である。

「枝も栄えてよーいと みなさん 葉も繁る~」に手拍子しながら「そりゃーよー どっこいせー よーいやな あれわいせ これわいせ こりゃーよーいんとせえー」と高らかに囃しながら座敷にあがる。

7時半までにトヤ家へ到着するよう進められたお渡りだ。

野口神社とされる掛軸を掲げて祭壇を設えたトヤ家。

昨日に納められた蛇頭や紅白のゴクモチがある。

土足で上がってもいいようにブルーのシートを敷いていたが靴は脱ぐ。

隣組の垣内の人たちに迎えられて座敷にあがった。

一同は揃って一年間祀ってきたトヤの神さんに向かって頭をさげる2礼2拍手の1礼。



今日のお祝いに一節と歌われる謙良節(けんりょうぶし)。

北海道松前、青森津軽の民謡を伊勢音頭風にアレンジして歌詞をつけたという区長が歌う。

「あーよーいなー めでた めでたいな (ヨイヨイ」 この宿座敷 (ヨーイセコーリャセ)・・・」。



酒を一杯飲みほして、トヤ家の御礼挨拶が述べられたあとは蛇を運び出す。

青年団が担ぐ太鼓を先頭に、桶に入れられたご神体の龍(当地ではジャと呼ぶ)を頭に上に掲げる団長、提灯、蛇担ぎの一行。



ドン、ドン、ドンドンドンの拍子に合わせてお渡りをする。

北口垣内から中垣内への集落内の道を通り抜けて旧家野口本家が建つ道をゆく。



ぐるりと回って野口神社に着くころには法被姿にポンポンを持つ子どもたちも合流した。

提灯は鳥居に括りつけて、龍のご神体は本殿前に置かれた。

トヤ家を一年間も守ってきた神さんは一年ぶりに納められたのだ。



拝殿内には蛇頭も置かれた。

そうしてからの3時間余りは蛇の胴作り。

櫓を組んだ場所に蛇頭を置いて長い胴を三つ編に結っていく。

長さは14mぐらいになるという共同作業である。



その間の自治会館ではご馳走作り。

作業を手伝ってくれた人たちに振舞うトヤ家のご馳走である。

煮もののタケノコにカラアゲやタマゴ焼き。

漬物もある。

オニギリの量は相当だ。

一個、一個のオニギリは手でおむすび。

黒ゴマを振りかけてできあがる。

ご馳走作りの諸道具(鍋、ゴミバコ、バケツ、コジュウタなど)は北口垣内やトヤ家の名が記されている。

汁掛祭に掛けられるワカメ汁は大釜で作られる。

蛇穴で生まれ育った85歳のSさんは23歳のころに大和郡山市の額田部に嫁入りした。

生家の母屋は村に譲った自治会館。

そこは村人が集まる会場になった。

子供のときは毎日のように神社の清掃をしていたという。

蛇穴はかつて秋津村と呼ばれていた。

昔も今も5月5日は「ジャ」と呼ぶ藁で作った蛇綱を曳いていた。

当時は子供が曳いていたという。

当時のトヤは垣内単位でなく、村全体で決めていた。

受ける家があればトヤになった。

嫁入り前に2回、嫁入り後も2回のトヤをしたという実家のN家。

行事の手伝いは垣内がしていたと話す。

ご馳走のタケノコは季節のもの。

たくさん積んで荷車で運んだ。

ドロイモもあったように思うという。

モチゴメもどっさり収穫してモチを搗いた。

トヤ家の竃は大忙しだった。

苗代ができたらモチツツジを添えてお盆に入れてキリコを供えたともいう生家の暮らし。

蛇頭は弟が作っていた。

年老いたが、生家が継いで今でも作っているという。

ワカメ汁は味噌汁仕立て。

タケノコともども味加減はほどよい。



融けてしまうからワカメを入れたら火を止める。

できたご馳走料理はそれぞれ運ばれる単位に盛られる。

丁度そのころが汁掛祭の始まる時間となる。

四方竹で囲われた神事の場に大鍋。

そこでできたてのワカメ汁が注がれる。

それを見届ける神職は鴨都波神社の宮司。

神社本殿前に集まった氏子たちとともに神事が行われる。

蛇曳く前に村内を巡行する蛇体をお祓いする。

そしておもむろに持ちあげた蛇体。



お神酒を注いでいく。

潤った赤い目、赤い口にたっぷりと注がれる。

そして神事の場はワカメ汁の大鍋に移る。

白紙をミズヒキで括った笹の葉を持つ宮司。



シャバシャバと大鍋に浸けて一気に引き上げる。

ワカメの汁はそれにつられて一本の線のように曳き上がる。

上空まで曳き上げば途切れるワカメ汁。

僅か2秒で行われる一瞬の作法だ。

汁掛祭の神事はこうして終えた。

その様相は県内各地で見られる邪気祓いの湯立て神事である御湯(みゆ)と同じように感じたのであるが、実は平成2年より形式を整えた神事である。

そのあとは直会。

トヤの接待する振る舞い食をたくさんよばれる。

社務所内では宮司や役員たち。



神社拝殿内でもよばれる。

先ほどまでに作られていたご馳走だ。



ワカメ汁をカップに注ぐ手伝いさんは忙しい。

食べる余裕もない。

蛇綱曳きが出発してようやく食事となる。

寄ってきた村人らにも食べてもらうトヤの接待食は大賑わい。

昨今はパックを持ってきた観光客がオニギリを詰めていくと話す。

「持ち帰る人が居ることも判っている。遠慮してほしいと思うのだが、マツリの日に騒動を起こしたくないから見て見ぬふりをしているのだ」という。

そうこうしている時間になれば音花火が打ち上がった。

出発時間の合図で蛇綱曳きの巡行が始まる。

ドン、ドンと打つ太鼓とピッピの笛の音に混じって「ワッショイ、ワッショイ」。

先頭を行くのは胴巻きにいただいたご祝儀を詰め込んだ青年団。

太鼓打ちも団員だ。

現在の青年団は3人。

少なくなってきたという。

後方から聞こえてくるピッピの笛の音。

それとともに囃したてる「ワッショイ、ワッショイ」は蛇綱曳きの子どもたち。

かつては子どもだけだったが大人も一緒に曳く。

胴体そのまま担ぐわけではなく蛇に取り付けられた「足」のような紐を持つ。

巡行は野口神社を出発したあとは北から東へぐるりと周回する。



その道筋は旧家野口本家を回って自治会館となる。

そのあとの行先は南口を一周。

太鼓、笛、掛け声が遠くから聞こえてくる。

一軒、一軒巡って太鼓打ちが祝儀を貰う。



ピピピピーにドドドドドの太鼓打ちが門屋を潜って玄関から家になだれ込む。

回転しながら連打で太鼓を打つ。

祝儀を手に入れればピッピの音とともに立ち去る。



そのあとに続く蛇綱曳きは門屋の前で、ヨーイショの掛け声とともに蛇を三度も上下に振り上げる。

「昔は二階まで土足で上がっていきよった。暴れたい放題の好き放題で壁まで穴が開いた」と話すK家の婦人たち。

南口、東口、垣内、北口、西垣内、中垣内の六垣内を巡行する。



およそ100軒の旧村があるという蛇穴の集落全域を巡るには3時間半もかかるから、何度かの休憩を挟みながら蛇綱を曳く。

トヤ受けをする11、12組のトヤ家も上がっていった太鼓打ち。

ピー、ピーの笛とともに三周する。

トヤ受けのN家では既に旧トヤから掛軸が回されていた。

祭壇を設えてお供えも調えている。

昔は蛇綱も家のカドにも入ってきたという。

カドは現在で言う家の内庭。

「カドボシ(干し)」をしていた場所だ。

米を採りいれて天日干し。

ハサガケをして米を乾燥させる場所を「カド」と呼ぶ。

当地ではないが、素麺業を営む家の天日干しをする作業をカドボシと呼んでいる。

太鼓はトヤ渡しの際に受けトヤに戻ってくる。

そのときに置かれる太鼓台。

それには「昭和拾四年四月三十日新調 野口神社社用」とある。

太鼓は神社の什物なのである。

蛇綱の原材料はモチゴメ。

垣内の田んぼで栽培する。

手伝いさんがイネコキもすると受けトヤがいう。

昔はトヤが村の人にワカメ汁を掛けていたと話す婦人。

「昭和の時代やった。かれこれ40年も前のこと。そのときは子どもだけで蛇綱を曳いていた」のは男の子だけだったという。

それだけ村には子どもが大勢いた時代のことだ。

本家には『野口大明神縁起(社記)』が残されているそうだ。

それには野口行事のあらましを描いた絵図があるそうだ。

江戸時代に行われていた様相である。

複写されたその一部は神社社務所に掲げられている。

その中の一部に不可思議な光景がある。



桶に入った龍の神さんを頭の上にあげて練り歩く姿は当時の半纏姿。

紺色の生地に白抜きした「野口講中」の文字がある。

男たちは草鞋を履いている。

その前をゆく男は道具を担いでいる。

その道具は木槌のように思える。

同絵には場面が転じて家屋の前。

木槌を持つ男は、なんと壁を打ち抜いているのだ。

当時の家は土壁。

木の扉は閉まったままだ。

もろくも崩れて土壁がボロボロと落ちている。

打たれた部分は穴が開いた。

そこは竹の網目も見られる。

まるで打ち壊しのような様子が描かれている絵図。

壁に穴を開けるということは、どういうことなのだろうか・・・。

この日は快晴だったが、雨天の場合であっても決行する蛇綱曳き。

千切れた曳行の縄を持って帰る子どもたちが居る。

家を守るのだと話しながら持ち去っていった。

蛇頭を北に向けてはならないという特別な決まりがある蛇綱曳き。

北に向ければ大雨になるという言い伝えを守って綱を曳く。

それゆえ集落を行って戻っての前進後退を繰り返す。



蛇穴の家々を巡って邪気を祓った蛇は野口神社に戻ってきた。

太鼓打ちは何度も境内で打ち鳴らす。



青年団に混じって若者たちも交替して打ち鳴らす。

オーコを肩に載せたまま回転しながら打つ太鼓妙技に見入る蛇。



戻った蛇は蛇塚石に巻き付けて納められた。

蛇曳きの間はご神体の龍が本殿で待っていた。

蛇は龍の化身となって村全域を祓ってきたのである。

ありがたい村行事の蛇綱曳きだったのだ。

ご神体はすぐさま新頭屋となる受けトヤには向かわない。

村にご祝儀をいただいた会社関係にお礼としてご神体を見て貰う法人対応が含まれる村行事でもある。

そうして戻ってきたご神体を頭の上に掲げる旧トヤを先頭に受けトヤ家にやってきた。

西日が挿す時間帯の行列だ。

先に座敷へあがりこむ太鼓打ち。

何度も何度も回って連打で鳴らす。

受けトヤを祓い清める意味なのであろうか。

行列はご神体、提灯、宮司、青壮年会、青年団たちだ。

伊勢音頭を歌いながら座敷に入っていく。

青壮年団の人たちも太鼓を打つ。

左肩にオーコをかたげて右手で打つ太鼓は昔とった杵柄。

慣れたもので年老いても身体は柔らかい。



野口神社の分霊(わけみたま)神を祀った横に座った受けトヤ。



拝礼、祓えの儀、祝詞奏上など、厳かに神事が進められた。

こうしてトヤ渡しを終えた蛇穴の村行事。

区長や青壮年会代表がこの日の行事が無事に、また盛大に終えたことを述べられた。

滞りなく終えて受けることができた受けトヤも御礼を申しあげる。

目出度い唄の伊勢音頭を歌って締めくくる。

村の行事はそれで終わりではない。



最後にトヤの振る舞いゴクマキ。

群がる村人たちの楽しみだ。

こうして一日かけて行われた蛇穴の行事をようやく終えた。

(H24. 5. 5 EOS40D撮影)

蛇穴トヤの神さん

2012年07月12日 06時47分37秒 | 御所市へ
野口行事、或いはノグチサンとも呼ばれていた行事を行っている御所市の蛇穴(さらぎ)。

戦前までは野口講中と呼ばれる座で営まれていた。

戦後の昭和22年に村の行事に移されたそうだ。

大和郡山市の額田部に住むSさんは蛇穴で生まれ育った。

生家は野口神社のすぐ前にあったという。

家を新築された際に親族は、その生家を村に譲った。

その建物は村の自治会館として利用されている。

Sさんが額田部に嫁入りするまでは生家で暮らしていた当時。

その頃は、村の行事を行う前日にモチを搗いていたという。

「村の手伝いさんが大勢来てくれて手伝ってくれた。手伝いさんには食べてもらわなあかんから接待していた」と話す。

その日に訪れた蛇穴の地。

夕刻近くには、生家であった自治会館に男性たちが集まっている。

当番の垣内の人らが朝からモチを搗いていた。

蛇頭を作ってトヤ(頭屋)の家に奉ったばかりだという。

行事役員たちは同家で祝い唄の伊勢音頭を歌っていたそうだ。

蛇穴のトヤは野口神社の分霊とされる蛇を一年間祀る。

前年の5月5日にトヤを受けてから翌日の5日の朝まで祀っている。

床の間に掛軸を掲げて祭壇を設える。

お供えや一石搗いた紅白のゴクモチを供えて神事を行っていたという北口垣内のS家。

一石のゴクモチはコモチにすれば6万個にもなるという。

代表役員の紹介を経て撮影承諾を得たトヤ家。



「神さんやから、2礼2拍手の1礼をしてからや」と伝えられて、頭を下げて手を合わせる。

赤い目、赤い舌の愛くるしい顔の蛇頭は餅藁で作った。

実に印象的なお顔である。

祭壇の一番上には桶に載せられた神さんがいる。

その形はまさに龍であるが、蛇穴では「蛇」と呼んでいる。

掛軸の姿は神社。

トヤの奥さんが云うには野口神社だと思うと話す。

その言葉通りの配置で描かれている本社や末社に鳥居である。

朝にお水と洗い米や塩を供えて毎日手を合わせていたトヤ家。

盗難や火事になってはならんから旅行もしなかった。

喧嘩はもってのほか、火が出ないようにガスの元栓は閉めたか、家の鍵を掛けたかなど、一年間は毎日が緊張の連続であったと話す。

野口神社の分霊神とされるご神体の龍を納める箱がある。

その箱には「明治十九年五月新彫 野口神社資祭霊蛇壱軀 崇敬者供有」と墨書されている。

まさにご神体であるが「新彫」の表記。

新しく彫られたのであろう。

明治19年(1886)以前に龍の神さんがあったのか、なかったのか。さてさて・・・。

蛇穴のトヤは6年に一度に回ってくる。

回ってくると言っても組単位である。

蛇穴には1組から12組まである。

6年に一度であるから二つの組単位での回りだ。

現在のトヤの組は9組と10組。

二つの組で相談し合って受けたトヤ家。

前回されたトヤ家だからと遠慮される家もあれば、家庭の事情で辞退される場合もある。

一年間も神さんを受けるのはたいへんなことだと話す。

今日、明日は一大行事。

所帯道具も別室に移動してシートを敷いた。

土足でも上がれるようにしているという。

一年間、トヤの家を守ってきた神さんは明朝に神社へ祀られる。

今夜は眠れそうにもないと話す。



自治会館前には旧家野口本家だという大きな家がある。

家の中には掘りがある。

外にあるのは本家が祀る地蔵さん。

彩色が僅かに残っている。

本家には嘉永七年(1854)『野口大明神縁起(社記)』が残されているそうだ。

それには野口行事の絵図があるらしい。

江戸時代に行われていた様相である。

複写されたその一部は神社社務所に掲げられている。

元々は野口家を中心とする宮座行事であったと思われる野口行事。

トヤ家で祀るようになったのは本家が手放し(野口講の解散かもしれない)、村行事として継承されたのではないだろうか・・・。

トヤ家の役目は神さんを祀るだけでなく、野口神社を毎日のように清掃する。

1日、15日には供えるサカキも作りなおすという。

(H24. 5. 4 EOS40D撮影)