マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

我が家のジエビネ

2016年02月09日 08時56分52秒 | 我が家の花
昔に園芸店か、通信販売で買ったジエビネが今年も咲いてくれた。

だいたいがこれくらいの日に咲く。

今年は7本も芽出た。

同じ場所に地植えしていたキエビネもあったが何年か前に消えた。

これはまだ健在。

隙間に同じような地味ななんかを植えたい。

(H27. 4.20 EOS40D撮影)

明星一平ちゃん夜店の焼きそばハラペーニョ&チリ・チーズ味

2016年02月08日 09時43分39秒 | あれこれインスタント
どこで買ったか覚えていない明星一平ちゃん夜店の焼きそばがある。

焼きそばであるが「ハラペーニョ&チリ・チーズ味」。

一平ちゃん夜店の焼きそばが発売されて20周年記念に企画された商品だ。

味は数週間目に試してみたのでわかっている。

焼きそばとも思えないような味覚であったが、食べているうちに焼きそば味がするとてもおかしな感じがした焼きそば。

二つ買っていた「ハラペーニョ&チリ・チーズ味」。

残っていた一つを車に積み込んで出かけた天理市の山田町。

この日は上山田のお大師さんを取材していた。

ゴクマキに次いで演芸があった。

その後は村人らの会食。

その様子も撮っていた。

いつしか時間が経過して午後2時半。

お腹がクウクウ言い出していた。

会食を終えた村人はビンゴゲームを楽しんでいた。

お腹は待ってくれない。

我慢を抑えることはできずに車に戻る。

そこにはゴミ捨てに老人車を押してきた老婆がおられた。

10年ほど前に当地へ来たと話す老婆は笑顔で云った。

今日の行事は足が悪いもんだから見ることもできませんのやという。

当方はお腹が減り減り状態。

ゆっくり落ち着いて食べなさいという。

ありがたい言葉にお湯捨てした「ハラペーニョ&チリ・チーズ味」はチリ味が決めて。

よくよく見ればパッケージ右下に赤唐辛子に青唐辛子の絵がある。



別添えのソースを麺の上から絞り出す。

赤みを帯びたソース。

辛みの香が漂った。

もう一つの別添えは辛子マヨネーズ。

チュルチュルと箸で挟んで麺に入れる。

混ぜた麺にチーズ粉も入っているふりかけもかける。

ガッツガツと食べる。

慌てないように食べやと云われた老婆を横にしていただくカップ焼きそばが美味いんだな。

後半の取材があると伝えた老婆。

「気つけてな」と声をかけられたのが印象的だった。

(H27. 4.19 SB932SH撮影)

上山田のお大師さんの日

2016年02月07日 10時00分27秒 | 天理市へ
天理市の山田町。

6月夏至に田の虫送り行事をしている上、中、下山田では地域ごとにお大師さんの行事がある。

本来なら21日であるが、どの地区とも村人が集まりやすい近い日曜日に移った。

中山田は村の大師講の人たちが蔵輪寺で寄り合っていた。

御供は山積みだった。

伺った住職の話しによれば、本堂で午前中に法要を済ませたという。

それから数時間後の昼12時。

弁当を抱えた講中が寺務所に集まってくる。

会食した後に抽選会をすると話していた。

下山田は都合で昨日に行われたそうだ。

中山田、下山田は大師講が寄り合う講の行事であるが、上山田は村行事。

総代など村役が観音堂に安置しているお大師さんに御供餅を供えていたそうだ。

着いた時間は御供撒きが始まろうとしていた。

境内に敷いたブルーシートに座る村人たち。

八阪神社拝殿前より御供餅を撒いていた。

八阪神社は上山田の鎮守さん。

云い伝えによればかつてはこの地ではなく、小字宮の谷に在ったそうだ。

時代は慶安年間(1648~)の分村に伴って、当地に移転したそうだ。

御供撒きを終えたら演芸会に移る。

芸人は元吉本新喜劇で活躍していた谷しげるさん。

12年ぶりの再会に餅撒き役もしていた。

昭和15年生まれの谷さんはいたってお元気。

装備したマイクもいらないぐらいに声が大きい。



始めに漢字クイズ。

軽妙な口調で村人たちを笑わせる。

谷しげるさんの演芸にロープ手品もあるがメインは猿回し。

「爆笑猿回し 猿劇学猿」の看板というか階段がある。

猿回しも兼ねている道具である。

「あーいそがし・・」で有名だった谷さんが吉本新喜劇を辞めたのは32年前。

「東京へ出て若山富三郎門下生に入れてもらったが、本人は亡くなった。

弟の勝新太郎の門も叩いた。

玉緒さんの許しを得て入門したが・・亡くなった。

次の門下はさてどこに・・。

思案されて山城新伍門下になったが・・・亡くなったら、猿が来た。

そういうわけで、今では猿回し」と笑いながら打ち明ける。

猿は2代目。

ぷいと横を向く。



「なかなかいうこときいてくれん」というのも芸のうちだ。

十字にした輪潜りは「なかなかしてくれん」と云ってこぼすが、そこは演技派男優の猿。

やるときはやる。



ひょいと潜り抜ける猿の妙技に拍手喝采。



階段に登っても演技を披露する。

もう少し間を広げた階段に「ぷい」とする演技派の猿。

ぷいぷいする猿ではあるが、やるときはやる。



平行棒であっても軽々とこなす。

「あんたできるんや。まいった」と云って指をさす谷さんに笑いがどっと広がる。

猿回しのラストは高高棒。



するすると登って「やったね」というような顔つき。

誇らしげな猿の表情にパチパチ拍手。



もっと高い処でもできるやろ、と棒を2倍に伸ばす。

するすると登る猿の演技にこれまた拍手喝采。

「これ見たか、どーだい」というような顔で遠くを眺める猿芸。



満開だったヤマザクラが風に煽られて花びらを散らす。

「桜吹雪が目に入らねーかい」と云ったのは遠山の金さんだが、これは猿。

もろ肌は最初から見せていた。

御供撒きはおよそ1分間。

演芸は50分間。

笑いすぎてお腹が減った村人たちは本尊十一面観音立像を安置する観音堂で食べる。

お堂に登って食べる人もおれば境内にも、だ。



家族揃って食べる会食はパック詰め料理もあるが、大半は家で作った料理だ。

普段の上山田では見られない光景である。

この日は快晴。

青空が眩しい。

上山田付近には西念寺や薬師堂もあるが、観音堂は「惣堂」だったと村在住の郷土史家(大和高原文化の会代表)が上山田の歴史文化を話してくれる。

史家は南に向かって話したカンジョバ。

川がある方角だ。

昔のことだが、ここでカンジョウナワを掛けていた。

大正時代の早い段階で廃れたという。

カンジョバとは別にカンジリと呼ぶ小字がある。

入口と出口にカンジョウナワを掛けていたという。

もしかとすれば、であるが、二か所のカンジョナワは垣内単位で行われていたと考えられるのだ。

40戸からなる上山田の垣内は小さく分けた6垣内。

東の1組と西の2組からなる東垣内に八阪神社や観音堂がある中垣内、上出垣内、南垣内、薬師堂があったとされる西垣内である。

西垣内は田原の里へ抜ける峠の東側。

田の虫送りの出発地である。

村の記録は残っていないが観音堂の本堂で「オコナイ」をしていた。

観音堂は真言宗だったというだけに「オコナイ」行事との関連性が伺える宗派である。

ちなみにカンジョバ(充てる漢字は勧請場であろう)よりさらに南下した地に山がある。

山は堀切があるお城だった。

城主は古市氏に属した山田氏らしい。

隣村の井之市は筒井家に属する福住氏。

目と鼻の先で対立する両氏であった。

レンゾとも思える会食を済ませた次は楽しみのビンゴゲーム。



子供が抱えた当たりの賞品は重たくて動けないほどだ。

村総代の奥さんがお接待してくれた「ヨゴミダンゴ」は自家製でなく和菓子屋製。



小皿に摘んだ綺麗な葉を選んだツバキの葉。

ツバキであればダンゴはくっつかない。

隣におられた婦人はかつてバランの葉で自家製のヨゴミダンゴを乗せていたという。

「レンゾ」でもあったお大師さんの日はおよそ5時間。

滞在中に様々な上山田の様相を伝えてくださる。

60歳のOさんは八阪神社社殿について話す。

現在の社殿の屋根は銅板であるが、かつては檜皮葺きだった。

今から20数年前、Oさんが40歳のころである。

村の大工である棟梁が屋根の張替をした。

そのときに新しく拝殿を建てた。

40年以上も前は拝殿もなく場で神さんを拝んでいた。

手水鉢がある場所は座小屋だった。

そこから拝み見ていたようだ。

現在は拝殿と同様に瓦葺きである観音堂は茅葺だった。

そのころに西垣内にある薬師堂を建て替えたという。

また、元区長のTさんや現区長のNさん・副区長のSさんらとは上山田で表現される言葉談義に話題が広がる。

「オンゴロ」はモグラ。

モグラは死体でも生体でも区長へ持ち込めば奨励金が貰える。

以前はモグラの爪でよかったが今では丸々の一匹体である。

「ナガタン」を知っているかという元区長。

それは包丁の呼び名だそうだ。

面白いのが寝床を「ネトコロ」だ。

「ネドコ」でなく「ネルトコロ」が訛ったのであろうか。

「タツアイ」は想像もできない本屋と離れをいう呼び名だ。

「アワイサ」は間。

先だって大宇陀平尾でも聞いた「アワイサ」は「間(空間)」を表現する。

話題が尽きない上山田の滞在時間は5時間を越えていた。

そろそろ仕舞いといって自由解散する。



家から持ってきた座布団は持ち帰り。

家紋を染めた風呂敷包は料理を詰めていたお重を入れていた。

解散されたら本堂を掃除する。

お堂に上がらせてもらって拝見した上山田のお大師さん座像後方に木札があった。



「安政六年(1859)八月云々 奉修柴燈・・・」の文字が見える。

その横にも木札があった。

「大和國山辺郡上山田村鎮守氏子安(寧)・・・」であろう。



また、大きな武者絵と相撲番付表の絵馬もあった。

武者絵に「弘化□(1844~)八月 御霊□・・」。



相撲番付は明治二十四年(1891)八月、二十五年九月に寄進奉納された。

当時は相撲大会があった上山田。

名字から爺さん、曾祖父の名があると指をさしていた。

(H27. 4.19 EOS40D撮影)

榛原萩原小鹿野の行事

2016年02月06日 10時01分59秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
ごーさん札にイロバナを立てた榛原萩原・小鹿野の苗代田。



その場より眺めた集落外れの小高い丘に祠が見える。

登ってみれば庚申石だった。



祠は昭和59年12月9日に建てたようで7人の講中の名がある。

シャクナゲ花が咲いていた家の婦人がいうには今では4軒。



講ではないから詳しいことは判らないという庚申さんに真新しい花を飾っていた。

彷徨って訪れた小鹿野に正月初祈祷の「オコナイ」や庚申講の存在を知った。

同行人も存知していなかった山村集落の行事は、いずれ再訪して苗代マツリの在り方も調査したいものだ。



田畑と民家の土蔵の風情になんともいえず思わずシャッターを切った。

ここら辺りは風景に魅せられて写真を撮る人が度々訪れるようだ。



FBで親しくさせてもらっているYさんもその一人。

生活感がある風景写真を探り当てて撮っている。

私も同じ境地だと、この写真を通じて再認識することができた。

これも出合い。

小鹿野の景観に感謝する。

(H27. 4.18 EOS40D撮影)

榛原萩原小鹿野オコナイのごーさん札

2016年02月05日 09時09分37秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
大字平尾のナワシロジマイで拝見した藁束のマクラを思いだした同行人。

帰路に寄り道をしたいと申し出た。

30数年前の記憶を辿る榛原の西峠。

どこで見たのか覚えてないが、お寺の近くに大字平尾で拝見したマクラと同じようなものがあったという。

カーナビゲーションを頼りにうろうろする。

地域は新興住宅地。

苗代田の存在はまったくない。

諦めて県道を越えて山間に向かう。

そこは山間の農村地。

畦作りをしている。

さらに登っていけば幌を被せた苗代田があった。

目立つ赤色チューリップに黄花水仙、スノードロップのイロバナがあることから想定したごーさん札。



もしやと思って近づけば、竹の棒で挟んだお札を立てていた。

「牛」、「地蔵」、「宝」を書いた墨書文字があることからごーさん札に違いない。

それを見つけたすぐ近く。

石垣を跨いで建てた特徴ある様式である。

奥さんの話しによれば元大工の旦那さんが建てた納屋であるという。

上部は大工道具入れで、下は牛の堆肥置き場にしていたが、現在は車の駐車場にしているという。

他にもあるかもしれないと思って数百メートルを歩く。

勾配を感じる里山を歩いて登った。



そこにあった白い幌傍に先ほどと同じように苗代田があった。



その場にもあったイロバナとごーさん札横に大字平尾で拝見したような感じの藁束に挿しているのだ。

同行人がまさしくこれだと云った。

お札を広げさせてもらって文字を判読する。



「地蔵」の文字もあれば「不動」もある。

お札や藁束を拝見して里山を下る。

道中にあった民家の蔵。

格子状の柄がある蔵に感動して思わずシャッターを切った。

戻って一足早く咲いていたシャクナゲが咲いていたお家の方の声をかける。

ここはどこだか判らない。

教えてもらったこの地は榛原萩原の小鹿野(おがの)。

婦人が云うには「地蔵」の文字があったお札を挿したのは当家だという。

4、5日前に藁を一束。

曲げて二つ折りにして置いた。

その横に竹に挟んだごーさん札にイロバナを立てというが、横に寝かせた藁束の名前は存じていなかった。

正月明けの休日に初集会を兼ねた「オコナイ」行事をしていた小鹿野。

行事を終えて、たばったお札は水口辺りに立てたという話しから、会所(元地蔵院若しくは地蔵寺)で行われている村行事であろう。

なお、山の上のほうに水の神さんと呼んでいる不動明王がおられる。

水の神さんは農の水を豊かにしてくれるという。

(H27. 4.18 EOS40D撮影)

大宇陀平尾の自然観察

2016年02月04日 09時36分06秒 | 自然観察会(番外編)
平尾の「ナワシロジマイ」の在り方を拝見していた。

旦那さんも奥さんもよく存じている。

作業中に突然のごとく動きだした奥さん。

苗代作りをしていた場より数メートル離れた溝に向かう。

なにやら探す奥さん。



探し求めていたのはカワニナだ。

カワニナはヘイケボタルの食料。

幼虫時代の姿は毛虫のヘイケボタル。

虫が液を出してカワニナを溶かして食べる。

一匹のカワニナを一週間もかけて食べるヘイケボタル。

そう話す奥さんが探すホタルは見つからなかったが、溝に生息していたカワニナを探し出した。

若葉の芽が出たての「ウルイ(正式名称はオオバギボウシ)」を茹でて酢味噌で食べたい。

そう云ったのは私だ。

奈良県内で探しているが、未だ見つからない。

出たてが「ウルイ」によく似ている「ウバユリ」を「オバンノシリフキ」と呼んでいた大宇陀平尾の住民。

どういう発想でそんな名を付けたのか本人も判らないという。

そこにいっぱい自生している「ウバユリ」の芽。



それを撮らずにニョキニョキ芽が出た「ゼンマイ」を撮っていた。

見るのもいいが食べるのもいい。



ポキポキと折って収穫する。

天日干しした「ゼンマイ」は保存食。

自然の美味さを味わいたい。



その場は小さな白い花も咲いていた植物がある。

葉っぱを見れば一目瞭然の「ヤマワサビ」だ。



自生の「ヤマワサビ」は水分たっぷり。

ワサビが好む日陰の地には自然の恵みがいっぱい生えていた。

「ワサビ」はあげられんが、はびこる「ユキノシタ」を採ってくれた奥さん。

持ち帰って庭に地植えしたらしっかり根付いた。

(H27. 4.18 EOS40D撮影)

大宇陀平尾のナワシロジマイ

2016年02月03日 09時06分08秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
昨年の11月にアズキオトシを取材させてもらった宇陀市大宇陀平尾の住民。

4月半ばの休日に苗代を作ると聞いていたので再訪した。

到着した時間帯は苗代作業の進行中だった。

苗代は穴あきシートを敷き詰めている。

育苗機で育てた苗箱を一輪車に積んで運ぶ当主。



受け取った婦人らは苗箱を下して整然と並べていく。

夫婦二人だけで作業するには時間がかかる。

盆地平坦に住んでいる娘夫婦を呼んで手伝ってもらう。



苗箱は何度も何度も運んで並べた。



苗が黄色いのは育苗機での日焼け。

お天とさんにあたって、幾日か時間も経てば落ち着く。

昔の苗代田は籾を直播きしていたという住民。

「スリヌカ」をした「焼きヌカ」を撒いて育苗していたそうだ。

「スリヌカ」とは聞きなれない言葉。

「ウスヒキする」ことを「スリヌカ」と呼んでいたようである。

直播きを終えたら「アブカガミ」を被せた。

育苗した苗は田植えをする。

苗さんを水で洗って田に放り投げるのは父親の仕事。

放り込まれた苗を手にして田に植える作業は母親の仕事。

6本ずつ手にした六条植えだった。

宵のうちから準備していた苗は苗籠に入れて運ぶのも男の仕事だったという。



前日までに準備していたすべての苗箱を並べ終えたらジョウロで水を撒く。

民家は苗代田の一段上。



奥の杉林がえー景観だったので撮っておいた。

苗代作りが終われば家の儀式が始まる。

儀式といっても形だけで手を合わせて拝むことはない。

用意された稲藁の束は三つ。

先を尖がらしたススンボの竹は十数本。



「これって一体なんですのん」と尋ねれば「マクラ」と「カキ」だという。

かつて「マクラ」は麦藁で作っていた。

「カキ」を充てる漢字は「垣」のようだからおのずと形が見えてきそうだ。

「マクラ」は「ミズグチ(水口)」の入口と出口に置く。

両方の役目があることから「ミズグチ(水口)」は、そのときの水が流れる状態から「イリグチ」若しくは「デグチ」の名もある。

「マクラを立てといてや」と母親が云えば、いつも父親が立てていたという。



「ミズグチ(水口)」の入口と出口に「マクラ」を置いて、×印のような恰好で「カキ」を仕立てる。



三つめの「マクラ」は苗代田にいちばん見やすいところに置く。



ちなみに「ミズグチ(水口)」の入口に注がれる谷水は「カイショ」と呼ぶ水の溜め場から水を引く。



「カイショ」は谷から水を引き込む水路の水が一挙に流れない構造の「カエシ」のことだと思った。

奥さんは家の神棚に奉っていた「ナエ」を取り出す。



「ナエ」は1月18日に行われる平尾の御田植祭(オンダ)で初乙女(しょとめ)(植女とも)が持っていたオンダのナエだ。

カヤが2本。

「スベ」と呼ばれる「穂」を付けた数本のカヤ枝もある。

シキビは3枚、5枚、7枚の葉がある3本組。

それには「カミ」と呼ばれる紙片がある。

これを「ゴヘイ」と呼ぶが本来の名は「ハナ」だそうだ。

これらを12本1組にして半紙でくるんで、紙縒(こより)で結ぶ。



庭に咲いているお花を摘み取って苗代田に降りた。

参考までに初乙女が手にしている「ナエ」はこれだ

本当はご主人がされる「ナエ」立て。

この年は奥さんがすることになった。

この日はきついピーカン照りだった。



映像は夏日のような色褪せた写真になってしまった。

苗代田に白いホロを被せて日焼けを防ぐ。



風でめくられんようにしっかり押さえて重たい木で抑える。

「ナエ」は2本。

ひとつは孫さんがつとめた初乙女(しょとめ)ときに授かったもの。



黄花のスイセンや赤・白のチューリップにスノードロップなど庭に咲いていたイロバナで添えた。

夫妻の平日は一般的な仕事人。

休みのときしか苗代作りができない。

240枚のキヌヒカリ・苗箱は3週間に分けて苗代田に並べている。

本来ならすべての苗代作りを終えてから「ナエ」を立てる。

それゆえ、これを「ナワシロジマイ」若しくは「ナワシロマキ」と呼んでいる。

以前は籾種を落として苗箱を作っていたので「ナワシロマキ」と呼んでいた。

今回の取材で判ったことは、苗代作った最後に「マクラ」立てをされ豊作の祈りと考えられるので「ナワシロジマイ」の表現が相応しい。

が、育苗する苗代から苗箱を運んで田植えがある。

そのときになってようやく苗代は役目を終えて解放される。

そういう意味もあるから「ナワシロジマイ」の呼び名になったのだろう。

キリのえーとこで昼食を摂る。

食事の場で提供される話題はいろんな方向に飛び交う多彩な内容だった。

まとまりがつかないよもやま話は脈略もなく思い出しもあってあちこちに飛んだ。

まずは村の神社行事。

3月は積んだヨモギの若葉でヒシモチを作っていた。

5月はチマキを供える。

これらを作って平尾の水分神社に供えるのは大当(大頭とも)の役目。

小当(小頭)が刈った3本括り、2本括りのメガヤを六社に供えた。

「ヨゴミ」はヨモギの訛り言葉。

奈良県内ではよく耳にする「ヨゴミ」である。

そのヨゴミができたならヒシノモチ(ヒシモチ)を作る。

大きな枠に入れてこしらえたヒシノモチは4社に供える。

コミヤ(小宮)さんも含めた4社であるが、コミヤに供えるヒシノモチは他より小さいモチだった。

ヒシノモチはトーヤの分も作った。

カヤが出だしたころに三つずつのヒシノモチを3社それぞれに供える。

今までは七つずつだった。

3社に供えるから21個も揃えたそうだ。

8月31日の夜は八朔のお籠り。

オトヤ(大当)にコトヤ(小当)決めのフリアゲをしている。

夜中に泊まる八朔の籠り。

目が覚めた籠りの場から学校に出かけたそうだ。

今では泊まることもない籠り。

当時は家の布団を持ち込んでいた。

マツリの際してオトヤとコトヤは宇陀川に出かけた。

川にある小石を拾って宮さんに供えた。

小石は一個ずつ。朝早くに起こされて川に出かけた。

小石を拾って急ぎ足で戻った神さんごとの習わしは子供も一緒に籠っていたのである。

小石拾いで思いだされた「オシライシ」。

吉野地方では亡くなった人が先祖帰りをすると云って川に入った。

流れる川にある綺麗な石を拾って参ったら人が生き返ったと話す。

「オシライシ」と呼ぶ石は「白石」だったと話す。

人づてに聞いた奇譚だと思うが、興味ある民俗の分野でもある。

9月第3日曜日は神送り。

その行事を行ってから「ゼンショサン」に登って参る。

登った場は綺麗に清掃する。

そこに参って御供を供えるのはオトヤとコトヤだ。

「ゼンショサン」は同家の管理下にある山に鎮座する。

ホラ貝を吹けば村の人が集まってくる。

区長の引継ぎ事項にあるようだ。

もう一つの神さんごとがある。

「ハツオジサン(八王子かも)」の「ゴンゲンサン(権現であろう)」である。

7軒の垣内が祭りをしているという。

5月は牛に付けたマンガンを引っ張ってマンガ掻き。

6月は田植え。

平尾の田植えが終われば、国中平坦に雇われて田植えをしに行った。

雇われたのは村の女性だった。

国中平坦の住民から牛を貸してくれと云われたが親父は断った。

平坦地は大和郡山や天理に田原本町だった。

頼まれた牛遣いは朝に出発して昼頃に着いた。

榛原には牛を売買する処があった。

「市」にかけるときはちゃんちゃんと歩ける牛がいた。

ちっちゃい牛は親牛も一緒に連れて散歩するような感じで歩かせた。

ホンヤ(本屋)の右を入った処に牛小屋があった。

家族同然に暮らしのなかに溶け込んだ牛小屋にいたのが農耕する飼牛だった。

小学校に行くまでの時代は親の手伝いにマンガ掻きをしていた。

田んぼの田起こしにカラスキも曳かせた。

端っこまで行ってくるりと回すときの「牛は動きまへんねん」とご主人が話す。

ちっちゃいときやった。

そのときは親父に助けを求めて呼んだ。

学校から帰ってきたとき。酒を水で薄めた。

その水で牛の背中を刷毛で掃いて綺麗にした。

酒を水で薄めるのは小学3年生のときに教わった。

昭和14年生まれのご主人。

高校生のころというから今から57年前の昭和33年。

田を耕す牛がいたのはそのころだ。

漬物を桶から出した。

漬物を切って皿に盛った。

テーブルに置くまでの一連を「ハヤス」という。

煮炊きしたコーヤド-フも皿に盛るときを「ハヤス」という。

親から「はやしとくれさ」と云われた子供はお皿をお膳に移していた。

そのような話しを聞きながら夫婦もてなしの料理をいただく。

ご飯はキヌヒカリ。

アキタコマチよりもキヌヒカリが美味しいという。



豆腐とワカメを入れた味噌汁も美味しいが、小皿に盛った大和マナの辛子味噌和えが美味すぎる。

一品はウコン漬けのコウコ。



これらは奥さんの手料理だ。

一方、パックに詰めた料理は手作り弁当屋さんのお弁当。



エビやイカのフライにサツマイモ天ぷら、焼き塩鮭、ニヌキ卵、茹でエビ、シイタケ、ゴボウ、大和マナの辛子味噌和えなどだ。

再び始まった作業はモミオトシ。

平日は仕事をしているのでどうしても休日にせざるを得ない苗代作り。

苗箱の土入れは予めしておいた。

籾は消毒剤に一昼夜浸けておく。

籾の品種は「アキツホ」だ。

培養土と籾を入れる口はそれぞれ二つ。



コンベアに乗せて機械を動かす。

かつては手回しだった機械。

今では電動で動く機械。

型番のSR122KWJからクボタ社製のニューきんぱだった。

この機械、モミオトシと同時に消毒剤を注いでいる。

籾が毀れて培養土で覆う。



出てきた苗箱は育苗機の棚に納めていく。

これを繰り返すこと86枚。

最大108枚を育苗する期間は5日間。



設定温度を30度にしたそうだ。

翌週の休日は3度目の苗代作りをされる240枚の苗箱は3回区分け。

すべてを終えるには3週間もかかる。

この日の作業を終えたのは午後3時。

朝から始めてやっと一息つくおやつの時間。



話題は方言に移った。

大和言葉と思われる方言があれやこれや出る。

「チョナワ」は「ミズナワ」と呼ぶ。

一丁の長さの板を「アユミ」と呼んでいる。

「オゴロ」は「モグラ」だ。

「アワイサ」、「ハンダイ」、「ハンザイコ」・・。

どれもこれも同じ意味。

「アワイサ」は「ヒャワイサ」ともいうちょっとした「間(空間)」を意味する。

例えば家と家の間。雨がかからない程度の間は傘も要らない隙間。

そこを「ヒャワイサ通り」という。

後日テレビで紹介していた三重テレビ放送の「ええじゃないか」。

江戸川乱歩生誕地の名張市でも同じように人一人が通れるような狭い道を「ヒャワイサ」と紹介していた。

平尾住民の「ヒャワイサ」事例でもちょっとした間。

「ヒャワイサにいれといて」とか「花火がヒャワイサに見える」とかの用語に使われるらしい。

お葬式に「テンガイモチ」があった。

「テンガイ」の文字は「天蓋」であろうが、どのような形であったか聞きそびれた。

30年前にこの地でツキノワグマが出没した。

出没した「モチヤマ」へ行く道は通行止めになったが熊を探しに行った。

その件は新聞で紹介された。

「ヨンナイ」でと子供に云っていたらしい。

カキの実を採る棒は「ハサンバリ」と呼ぶ。

ワラビの葉。大きく育ったワラビを「ホトロ」と呼ぶ。

「ホトロ」がある処は翌年もワラビが芽だしをする。

吉野町では枯れた「ホトロ」を水に浸けて炊く。

それに収穫した柿を浸けてシブ(渋)を抜く。

平尾では「カラシヤ」と呼んでいた「カラウス」。

米を搗くことから「コメツク」とも呼んでいた。

これを娘さんが嫁いだ結崎では「コメフム」と呼ぶ。

「フム」は足で踏む。

「ツク」は米を石臼で搗く。

カラウスの状態を見る角度が違えば呼び名も変わるということだ。

「ナガタン」は菜切り包丁。

「ナバ」は「テバ」・・・とか、ツメを立てて傷が入ったことで消えたツルシガキなど尽きない話題提供は他にもいろいろあったが、ここでは文字数が多くなることから省いておく。

(H27. 4.18 EOS40D撮影)

焦りは事故に繋がる

2016年02月02日 07時40分42秒 | いどう
この日の朝は約束の待ち合わせ。

近鉄郡山駅で迎える客人を乗せて大宇陀に向かわなければならない。

その前に済ませておきたい渡しもの。

近所に住む山添村の住民に撮らせてもらった写真データを渡したいのだが住居が判り難い。

直線距離にすれば我が家から300mの処だがくねくねと辻を曲がる新興住宅地。

タクシーの運転手は決まって帰り道が判らなくなるという処である。

カーナビゲーションに番地をセットして向かうがひと筋間違ってはリセットされる。

前夜も出かけたが難儀した。

昼間であれば判りやすいと思っていたがそうでもなかった。

やはり間違ってしまうのだ。

ロス時間が増えていく。

ようやく辿り着いて手渡した依頼のデータ。

約束の時間は過ぎていた。

待たせるわけにはいかないので急ぐ。

民家を通り抜ければ踏切にでる。

数メートルも走れば県道にでる。

そのときだ県道から入ってきた軽自動車。

停まることも知らずにこっちへ向かってくる。

押せ、押せ、の自動車に狭い道。

なんとか左に寄せてあげようと思ってギリギリいっぱい。

水路蓋のグレーチングにタイヤを乗せて寄せた。

通れないじゃないかという顔で睨みつける運転手。

さらに左へ寄せたら左前輪が水路に落ちた。

すっぽり嵌った脱輪タイヤは空回り。

なんともはや、である。

そこを通り抜ける運転手。

「すまんなあ」の一言を吐いて通り過ぎていった。

さて、どうするか。

通りがかる車をバツの形を作って合図する。

そろそろ通り抜ける自動車運転手に救い手を頼んだがいずれも急いでいると云われて断られた。

保険会社に連絡して対応しかけたがやめた。

助け舟は我が家の近くえ営業しているオートサービスだ。

緊急連絡に飛んできたSさん。

牽引チェーンを持ってきた軽トラックで引っ張るが軽い車体にうまくいかない。

前部をジャッキで上げてみることにした。

大騒動になったグレーチングを敷いている民家からご主人が出てこられた。

申し訳ない状況に謝ることしかできない。

ジャッキで上げたら後輪でバックする。

何事もなかったようにすっと脱出した。

頭を下げてお詫びとお礼を伝えて駅に向かう。

事故対応中も連絡していた客人。

駅から歩いて支援したいというが現場までは走っても15分以上もかかる。

駅で居てくれるほうがありがたい。

そう伝えていた。

待ち合わせ時間は40分過ぎていた。

(H27. 4.18 記)
(H27. 4.19 SB932SH撮影)

クロームの読込中状態が続くのはノートンの影響

2016年02月01日 10時05分18秒 | つうしん
昨夜よりクロームが読込中を表示したまま動かなくなった。

インターネットエクスプローラーは正常に動作する。

どこに原因があるのかネット検索で調べてみた。

いくつかの原因が想定された対応が書いてあったマカフィー時代もそうであった。

アンチウイルスソフトの更新によって影響を与えたことがある。

マカフィーであれば慣れていたので関係するソフトを受け入れるにすれば解決したものだ。

ところがノートンではその対応は「設定」をクリックしてネット関係で許可するとあったのだが、肝心かなめの「設定」が次の遷移に移らない。

どうしようもないのだ。

ノートンはシマンテック社製。

探してみればサポートの電話番号が書いてあった。

そこへ電話したら自動音声。

どこともそうだ。

選択肢から該当する番号をプッシュしたらインターネットのアドレスが伝えられる。

そこで応対するには症状が伝え難い。

電話で応対していただくしかない。

そう思って選択肢のうちでとにかく先方が出ればいいと思って何度か繰り返した。

プルルと電話が鳴った。

症状を伝えたらサポートセンターの電話番号を伝えられた。

一歩前進するだろうと思って電話を架けた。

プルルと電話がなる。

電話口に出てこられた女性担当者に経緯から症状を伝える。

対応はアンインストールと再インストール。

OSコマンドを伝えられて指示通りに「app・・・」を入力する。

するとコントロールパネルが表示された。

そこにはずらりとプログラムが表示される。

ノートンを探して右クリック。

間違いないことを確認して左クリックで実行すればアンインストールが始まった。

しばらくして終了して「今すぐ再起動」が出力する。

そのままにしてクロームを起動する。

難儀していた「読込中」にはならずにクロームの設定画面が出た。

担当者が云うにはノートンが影響を与えていた、である。

やはり、であったのだ。

これよりリモートによる代行かメールで方法を伝える選択肢などがあるが、どれを選びますかという返事はもちろんお任せである。

そうして始まったリモート代行措置。

インターネットエクスプローラーを立上げて指示された「1918.jp」を入力する。

ノートンサポートにようこそ、である。

そこで指定された6桁のPINコード「913212」を入力して接続・実行する。

何故か返されて再試行。

もう一度の指示で6桁のPINコード「249656」で再セットすれば実行された。

アカウントを確認してリソースにOKを応える。

LOGX・・をOKして担当者作業中となった。

GUO・・をOKしてパスワードの入力指示。

決めていたノートンのパスワードを入力したら弾かれた。

それではなくパソコンに設定したパスワードだと伝えられて再実行したらマウスポイントが勝手に動き出した。

動いたのはリモート操作されている担当者の軌跡である。

その後の対応は30分ほどの時間がかかるので終われば電話しますと云われたので携帯電話の番号を伝えて一旦切った。

進捗状況はパソコンの画面で見られる。

担当者が逐一報告される小窓が左上に出力した。

刻々と展開される進捗状況は動きを当方に伝えているのだ。

パソコンは再起動された。

「ゲートウエイ」が表示した。

いつもならこの次はパスワード入力しなければならないがパスされたようだ。

XUEGUOによるリモート制御の変移を見ているだけだ。

始まった時間は15時40分ころだ。

小窓は「Symantec ⅬogMeRescue」。

まさにレスキューである。

ノートンインストーラが実行されてダウンロードが始まった時間は15時52分。

およそ40分と出たが遅々として進まないダウンロード。

50%になったのは16時50分だった。

それを超えたら速度が少し早くなったような気がする。

405.88MBのダウンロードが遅いのはパソコンのせいではない。

我が家の回線である。

一番の定額料金で利用していたプロバイダで契約している。

新規に買ったゲートウエイパソコン。

マイクロソフトオフィスのダウンロードインストールでは2時間も費やした。

ノートンのダウンロードインストールも長時間になる。

これだからソフトのダウンロードはしたくない。

100%完了したのは17時25分。

1時間半は超えていた。

シマンテックコーポレーションを許可したら小窓にインストール開始と出た。

終了したのは17時29分だ。

ノートンが動きだしてアクティブ化される。

クロームも起動されて設定画面が出た。

ここで小窓にメッセージが出力。

電話が繋がらない非通知。

携帯にはその設定はしていない。

コメントを入力していたら電話が鳴った。

担当者からだ。

いろいろとご迷惑をかけたノートンは最新版になったと伝える。

ありがとうございます、である。

出来なかった「設定」も難なく遷移して動くようになった。

素人の私でも判りやすく優しい声で伝えてくれた担当者に感謝申しあげる。

後日、シマンテック社からメールが届いた。

今回のトラブル対応のアンケート収集。

なにもかもが高得点を挙げる。

お礼にこのメッセージも届けておいた。

(H27. 4.17 記)