マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

ホテル・アゴーラリージェンシー堺25F日本料理なにわ

2016年02月19日 09時07分38秒 | 食事が主な周辺をお散歩
この日はおふくろの誕生祝い。

食事処はかつてリーガロイヤルホテルだったホテル・アゴーラリージェンシー堺の25階にある日本料理も「なにわ」だ。

大阪市住之江に住んでいるおふくろを乗せて大和川を渡って南下する。

大和川大橋を渡れば鉄砲町。

1年後に完成するイオンセンターが建設中だ。

ここはダイセル工場があった地。

随分前に大爆発があった。

爆発の衝撃で家の電灯が落下したことがあるおふくろの住処は5階建ての市営住宅。

今でも4階に住んでいる。

カーナビゲーションに位置をセットして走り出した目的地はホテル・アゴーラリージェンシー堺



ここで着いたと案内する信号は堺駅西口。

信号待ちをしている若者たちがいた。

田舎では見られないコスチューム姿の若者ばかりの大行列に目がきょとんとした。

ぞろぞろと歩き出す若者の人数は数百人。

信号待ちで一旦区切られる。

どこへ行くのか若者たち。

向かう先は大浜北町信号右折れの地。

そこには大型バスが何台もあった。

乗り込んでどこやら向かう。

行先は判らないがバスに「Color Me rad」の表示があった。

先に書いておくが和服姿の「なにわ」の女給さんの話しによれば堺浜シーサイドステージに向かうらしい。

なんでも有名な人が来るというのだからすごい人気者。

そう思っていたが違っていた。

乗客を乗せてはひっきりなしに動くシャトルバス。

ほとんどが二十歳前後の女の子だ。

頭の上になにやら被り物をしている女の子もおれば、ピンクのコスチューム姿も多くいる。

なんだこりゃ、である。

大会内容のHPを拝見してもさっぱりわからん。

「rad」は「いかした」とかいう意味があるらしい。

多人数の「オソロコーデ」というような文字もあったが、年寄りはついていけない集まりだ。

さて、駐車場はと探してみるもここからは戻れない。

仕方なく大浜北町信号を左折れして南海本線を潜る。

さらに左折れしたら堀川にたくさんのコイノボリが泳いでいた。

昨今のイベントであろう。

むかしは田植えが女性の仕事だった。

唐突であるがコイノボリの風習の原点はここにあると『日本人の春夏秋冬―季節の行事と祝いごと―』に書いてあるようだ。

田植え前に邪気を祓う。

ヨモギやショウブの植物で屋根に揚げて覆う。

女性はそこで籠って身を清めていた。

江戸時代、ショウブは尚武・勝負と読み替えられて男の子の成長を願う祭りになった。

コイノボリは歌川広重の風景画に描かれている。

それには一匹のコイノボリだった。

今でこそ親鯉とともに大空を泳ぐコイノボリはだいたいが三匹。

次男ができたら四匹にする家も見られる。

昭和時代の童謡に「やねよーり たーかい こいのぼり・・」の唄があるように鯉は江戸時代よりも増えているのである。

そのことはともかく、さらに北進して左折れ、左折れすれば旧国道26号線に戻った。

結局は堺駅西口左折れして駐車場入り。

予約していた25階に登る。

登るといってもエレベータだ。

最階上の26階は結婚式場。

エレベータを出て下を見れば「Color Me rad」に向かう若者たちの姿が米粒だった。



日本料理「なにわ」は26日を予約していた。

数週間前であったが、都合がつかずに一日早めた25日。

26日なら展望が開ける窓側の席であった。

25日であれば望めないと伝えられていたが案内された席は窓側だった。

開放感に溢れる大浜の港はヨットやボードが係留されて並んでいる。



この日は霞のような状況。

おそらく黄砂の影響であろう。

快晴なら淡路島や六甲連山が見えるはずだが・・。

黄砂で見えない明石海峡大橋もまったく見えないが25階から望む浜景色にうっとりする。



メニューは席についてからと考えていた。

この日はおふくろの誕生祝。

翌日には89歳になる。

見栄をはってかーさんとおふくろは3240円の姫箱会席にした。

姫たちは姫箱会席でいいのである。

3月末までならステーキがあったが、今月は同じ肉でもすき焼きになる。

牛肉を希望しない私は一段下げて2700円の瓢(ひさご)弁当にした。



はじめに運ばれたのは上段、中断、下段の箱や横箱に盛った姫箱会席だ。

焼き物の牛すき焼きは箱会席を食べ終わったころを見計らって運ばれる。

上段はよもぎ豆腐に海老塩湯。

中断は芋蛸に南瓜、信田巻わらびだ。

下段は旬菜盛りに小鯛寿司、いかなご釘煮、細巻き玉子となる。

横箱は鮪・烏賊のあしらい一式造り。



中トロなのか大トロなのか判断はつかないがトロに違いない鮪造りはトロトロで脂がのっている。

とても美味いという姫二人。

しばらくして瓢(ひさご)弁当が運ばれた。



椀盛りは三段。

蓋を開けて膳横に並べてみた。

造りは姫箱会席と同じトロ鮪と烏賊。

煮物椀もほぼ同じタケノコ、菜の花、南瓜、信田巻わらびだ。



下段に盛った椀も同じようによもぎ豆腐、海老塩湯、焼き鰆、細巻き玉子、いかなご釘煮、穴子巻に蛍烏賊もある。

姫箱会席にはなかった春野菜の天ぷら盛りもある。

これはお得である。

濃い目の味噌汁にご飯椀は筍ちらし寿司。

菜の花や筍にイクラまで盛っている。

瓢弁当は姫箱会席と違って後ほど運ばれる抹茶プリンのデザートもあった。

とにかく品数が多い瓢弁当。

一品、一品は少品であるがどれを食べても美味しくいただける。

日本料理は出汁が決めて。

手のこんだ料理に食べる都度、口が唸る。

箱会席を食べ終わるころに運ばれた替鉢の筍饅頭。

板わかめが入っているようだが・・。

次は牛すき焼きだ。



筍やわらびに大きなシメジも入っている。

ぐつぐつ煮込めばできあがり。

かーさんが少し分けてくれた牛肉の美味いこと。

脂がのった牛肉はとても柔らかい。

醤油っぽさも感じないすき焼きはおそらく出汁で仕立てた割下なのだろう。

美味すぎるすき焼きに肉の甘さが口の中で広がった。

姫箱会席にも筍ご飯があるが、瓢弁当の筍ご飯とまったく違う。

シンプルな炊き方なのだ。

ご飯は柔らかい。

おかいさんのようだとおふくろは云った。

味噌汁は同じだが姫箱会席の筍ご飯には香物がついている。

水物のデザートも同じ抹茶プリンだった。

姫箱会席と瓢弁当の差額は540円。

それぞれの料理を楽しませてくれた日本料理「なにわ」

2年前の誕生祝いの店はフレール・ド・シャンソニエレストラン堺店だった。

料理は3500円のプティコース。

洋風料理である。

味覚は和風、値段も「なにわ」に軍配を揚げたい。

なによりも展望がいちばんなのだ。

支払いはクレジットカード。

サービス料金が918円で合計税込10,098円だった。

ホテル地下の駐車場。

地下2階だと思って車を探してみるが見つからない。

あちこち探すが見当たらないのだ。

もしかとすればと思って地下1階に・・あった。

なんせ同じような感じだったのだ。

停めた時間は11時20分。

食事を満喫した2時間後。

出口で駐車料金を清算してもらうが「なにわ」で食事すれば3時間が無料になる。

警備員に駐車カードを手渡してゲートを開けてもらう。

領収書はといえば「したことがないので・・」という警備員。

ボタンを押したら領収書が発行された。

初めて見たという警備員。

「こんなことってあるんだ」ってさ。

出庫した時間は14時ジャスト。

もちろん無料なのでマイナス1800円の印字があった。

(H27. 4.25 SB932SH撮影)

一本の木

2016年02月18日 09時43分52秒 | 大和郡山市へ
ここより向こう側はかつて谷だった。

戦前の記録によればサンショウウオが生息した谷だった。

40年ほど前だったか、宅地開発されて谷は消えた。

撮影位置は九条墓地がある地。

小字名は山ノ口。

湧き出る水は東側へと流れて九条村の田んぼを潤していたと聞く。

谷の水がそうであったかもしれない。

一本の巨木が残っていた造成地。



この年の7月初めに宅地開発が始まり、伐採されて消滅した。

(H27. 4.24 SB932SH撮影)

西河内町の祝いコイノボリ

2016年02月17日 08時39分27秒 | 五條市へ
和歌山市民会館で開催された写真展の帰り道。

紀北東道路-橋本道路-五條道路を快適に走っていた。

行き帰りの走行中に目につくコイノボリは少ない。

北は山間部で南は紀ノ川沿いの新町住宅。

コイノボリはあっても支柱は金属ポールばかりだった。

五條市居傳町手前だった。

山麓側に家紋入りのコイノボリの先端が目に入った。

橋脚道路からだったので見間違い?と思ったが、念のためと思って降りてから地道をUターンする。

場所はだいたいであるがなんとなくここら辺と思った民家。

そこに立ててあったコイノボリの支柱は木材だった。



奥で畑作業をしていた老婦人に話を聞く。

「ここはどこですか」と尋ねれば御所市市の西河内町。

NPO法人「うちのの館」が管理する登録有形文化財の藤岡家住居から数百メートルの近さになる。

婦人の話しによれば横浜に住んでいる長男家の初孫男児が生まれたときに立てたという。

その年は杉葉飾りを付けた支柱だった。

2年目からは葉を伐りとって矢車に替える。



孫は6歳になったが今でもこうして立てているという。

気になったのは丸桔梗紋入りの吹き流しだ。

家紋は型をとって京都の染物屋で吹き流しを作ってもらった。

コイノボリもそうだが、奈良の風習どおりに長男のお嫁さんの実家が贈ってくれた。

お嫁さんの出里は栃木県。

そういう風習はないという。

風習がないのになぜに贈られたのか・・。

その後に畑から戻ってきた息子さんに聞けば「私がその話しをしたらお嫁さんの実家がそうしてくれた」という。

家紋入りの吹き流しの絵柄は龍が舞う唐草模様。

じっくり見たことがなかった老夫人の息子さんは「そうやったんや」という。

長男の仕事柄、横浜から里へ帰るのは正月とお盆ぐらい。

製材所に頼んでレッカーで持ち上げ立てたコイノボリの支柱。

青空に泳ぐコイノボリの姿はタブレット端末で撮って孫に送っているという。



同家のコイノボリは雛飾りを仕舞った翌日に立てる。

晴れの日に揚げるが、風の強い日は揚げない。

雨天の日ももちろん揚げないしカミナリが鳴る日も、だ。

同家がコイノボリを仕舞うのは6月5日の節句まで・・と話していた。

(H27. 4.23 EOS40D撮影)

日本風景写真協会和歌山第二支部第7回写真展in和歌山市民会館

2016年02月16日 08時41分25秒 | しゃしん
和歌山県で行われる写真展に出かけるのは実に10年ぶり。

いやそれ以上かもしれない。

野迫川村立里で出会った二人の写真家に助けられた雪道。

平成15年1月2日のことだった。

二人が所属する写真家クラブは「CLUB-67」だった。

奈良も一つの撮影地。

桜景観を撮りに案内したこともある。

交遊が深まり泊りで出かけた曽爾村は同行の撮影会までも。

写真家クラブはいつしか日本風景写真協会和歌山第二支部を立ち上げることになった。

奈良支部とも交流がある団体だ。

第7回写真展示会の案内状が届いた。

京奈和道路工事が進展して和歌山が近づいた。

空けられる日を探していた。

この日しかないと思って出かける和歌山への道。

大和郡山市下ツ道から五條市北までは大和御所道路。

今年の3月に暫定2車線で開通した御所IC-御所南ICで僅かながら延伸した。

五條市居傳町を繋ぐトンネル工事はまだまだだ。

一旦国道に降りて居傳町から再び高速道路。

紀ノ川ICまで繋ぐ五條道路-橋本道路-紀北東道路は快適だ。

和歌山市内に至る紀北西道路の完成は平成28年。

一段と利便性がよくなる。

風光明媚な景観を眺めながら走るこの区間の京奈和道路は無料だ。

走行中に目につくコイノボリは少ない。

北は山間部で南は紀ノ川沿いの新町住宅。

コイノボリはあっても支柱は金属ポールばかりだ。

長男の誕生を祝う杉の葉は見つからなかった。

国道24号線でもあるき紀北東道路・紀ノ川ICを降りて地道の国道を走る。

カーナビゲーションが案内する国道は7号線。

西へ向けて走る。

どこで南下したか覚えてないが広域4車線道路にでた。

どうやら24号線でもある和歌山バイパス線だ。

そこからは道なりに西進する。

カーナビゲーションが案内する通りに走っていたら南海本線とJR紀和線の終着点である和歌山市駅に着いた。

目的地の和歌山市民会館はすぐ近くにあるが、カーナビゲーションの案内に手こずって流離った。

なんとか着いた駐車場。

そこに和歌山市立博物館があった。

我が家の息子たちが小さい頃に入館したような記憶がある。



道路を隔てた向こう側が和歌山市民会館

そこの地下2階が展示場だった。

大和郡山市の横田町から走り続けておよそ2時間半。

途中で食事をしていたので通しであれば2時間強であったろう。

距離にしてみれば94.8km。

受付にはDさんとFBで知り合えたKさんが迎えてくれた。

和歌山らしい写真もあるが県外の風景をとらえた写真もある。

数えてみれば和歌山風景が15枚。

奈良風景は7枚。

京都が2枚、兵庫は3枚、滋賀は3枚の近畿圏。

さらに西の鳥取は4枚で西日本が34枚に対して東日本は14枚。

内訳は岩手が2枚、長野が6枚、新潟が1枚、群馬が2枚、東京および埼玉、静岡が各1枚だった。

遙か遠くまで撮影地を選ぶ風景写真は3割にも達する。

和歌山をとらえた風景写真も3割だ。

地元以外に足を運ぶ写真家たちの作品に見惚れる。

この日は音楽生演奏のコラボもあった。

写真と音楽が共演する展示会は面白い試みだと思った。



「あいみちte」のお二人が演奏する二胡とオカリナ。

原曲?のエルコンドラパッソを聞かせてもらった。

心が弾むように思わず身体が跳ねる。

滞在時間は1時間半。

生演奏を聴いて時の流れを堪能する。

帰路はほぼ同じコース。

途中でコイノボリ取材もしていたので遅くなったが2時間半。

往復合わせた距離は201kmだった。

(H27. 4.23 SB932SH撮影)

釜揚げ讃岐うどん香の川製麺川辺店のぶっかけうどん

2016年02月15日 09時13分49秒 | 食事が主な周辺をお散歩
和歌山市民会館を目指していた。

大和郡山市横田町にあるガソリンスタンドでガソリンを補給してから走り続けて2時間。

長距離ゆえ、まだ到着しない。

国道24号線和歌山バイパス線道中で昼の時間になった。

国道沿いには何らかの食事処があるはずだ。

ラーメン店の看板もあったが価格帯も味も判らない。

ほどなく走ったところにあった看板は香の川うどん

おそらく讃岐うどんのお店。

奈良県内でも讃岐うどん店はあるが存じたことがない香の川。

駐車場は広い。

ものは試しにと思って入店した。

窓ガラスに貼ってあった牛丼が340円。

お得な牛丼も食べてみたいが、そこには豚しゃぶハリハリうどんもある。

これは590円。

肉倍盛り肉うどんは並で500円。

ワンコインであるが他にもあるだろうと思ってドアを開ける。

天丼もあれば天ぷらもあるお店の看板。

さまざまなうどんを写真付きで紹介している。

目に入ったのはかけうどんではなく、280円のぶっかけうどんだ。

うどん麺そのものの味、コシが確かめられるぶっかけはお店の基本味だと注文する。

待ち行列ができていた店内。

四角い盆を持って「冷たい」のんを注文した。

それだけでは不足するだろうといなり寿司を一個。

これ以上食べたら満腹以上になる。

昼食は軽めでいい。

そう思って支払った合計金額は税込みで380円。

お得な昼食である。

天かすやネギに生生姜をトッピング。



見るからに美味そうである。

一口食べた讃岐うどん。

コシがあまりにも強烈で歯ごたえあり。

ガツンと返される。

讃岐うどんは喉越しで食べると云われているがこんなに太い麺は喉を通らない。

歯で噛みきって食べるが、これもまた返される弾力麺。

コシが強いのである。

出汁は昆布出汁のように思えた。

暑い日には冷たいぶっかけうどんがたまらない。

生生姜がきりりと味を引き締めてくれる。

いなり寿司は大きいほうだ。

ジューシーないなり寿司は美味いほうだと思う。

店内に貼ってあった店舗一覧。

なんと、法隆寺や五位堂にあるようだ。

次回は奈良県店舗で味わいたいと思った。

(H27. 4.23 SB932SH撮影)

小林町尼講のお大師さん

2016年02月13日 09時37分08秒 | 大和郡山市へ
この日はお大師さん行事の巡拝。

締めくくりに選んだ地は大和郡山市小林町。

番条町に新福寺住職が来訪されていたので帰路の繋ぎに思い出した行事である。

公民館としても利用している土地改良区事務所の2階でお大師さんの営みをしているのは尼講の人たちだ。

昔はおばあさん講とも呼ばれていた尼講は若い人でも70歳半ば。

年長は80歳半ば。

県内各地と同じような年齢構造である。

2月は大きな涅槃図を掲げてネハンサン。



今月は弘法大師の掛図を掲げてお大師さん。

いずれも始めに導師が数珠を手にした尼講の中央に座って一巻の般若心経を唱える。

続けて「なむあいだー なんあみだー」を唱えながら数珠を繰る。

房珠がくれば頭を下げる。

そのとき、くるりと房を一回転する婦人もいる。



数珠を繰る際、チャカチャカと音がする。

数珠繰りは百万遍ではなく百遍。

およそ25分間のぶっ通しのお念仏である。

終わって話すかつてあった杵築神社の行事。

「テンゴクやというて」2月頃の藪入りにモチを1個ずつ貰いに行った。

暗いうちだったという時間帯。

夜明けはまだまだだった。

「テンゴクだっせー」の呼び出しがあったのは70年前のこと。

「テンゴク」を漢字で現せば「天御供」。

オテントサンが出るまでの時間帯(日の出前)に御供を貰うことからその名が付いた「テンゴク」。

隣村の今国府(いまご)にはそれがなかったという。

3月21日は法隆寺会式だ。

小林町から西へ一直線。

片道3kmの距離にある法隆寺だ。

この日はバラ寿司、巻き寿司、ヨモギダンゴ、自家製味噌仕立てのワケギの酢和えなどを作って親戚中に配っていた。

巻き寿司は巻いている途中とか、皿に盛る前に家人が食べていたと話す。

我が家も同じように巻き寿司を食べていた子供の頃を思いだした。

61歳の祝いに鏡餅を搗いた。

二段重ねの鏡餅は各戸に配ったというから還暦の祝いであろう。

長男の喰い初めのとき。

口紅で大の文字を書いた。

女の子は小の文字だった。

その文字は鏡餅に書いた。

還暦の祝いと同じように各戸に配った。

お喰い初めの儀式も村全戸で祝う仕組みであったろう。

(H27. 4.21 EOS40D撮影)

番条町北のお大師さま参り

2016年02月12日 09時27分39秒 | 大和郡山市へ
荒蒔の取材を終え一旦帰宅。

再び番条町にでかけた。

午前中は南垣内。

午後は北垣内である。

北には大師堂がある。

朝から1時間交替で北の大師講が巡礼に来られる方々の接待をしていた。

近くに茅葺大和棟の建物があるお家に寄った。

訪ねてみれば分家で村を出た弟さんがおられた。

小・中学校の同級生である小林町新福寺の住職を案内されていた。

「オコナイ」行事をされている新福寺は真言宗豊山派。

番条町のお大師さんのことは存じていなかった住職。

それならば、と案内人からお声がかかってこの日初めての来村。

各戸それぞれが門屋にお大師さんを出開帳をされていることを知った。

住職は云う。

僧侶も法要もない村の在り方に驚いたという。

よろしければ大師堂で般若心経をさせてもらいたいと申し出た。

初めてのことだという大師講の承諾を受けて心経を唱えられた。

午後3時で北の大師堂は幕締め。

造り酒屋の会長と2年ぶりのご対面。

しばらくは身体状況や解散された宮座の件を話してくれた。

佐保川は昭和9年に改修工事があった。

このときに導水路を付け替えた。

川堤にある南の藪大師は祠もなく藪に佇んでいた。

当時は藪の木が茂っていた。

大正末期に菩提山川が決壊して水ツキになった。

昭和6年、7年にも決壊した佐保川。

番条村は再度、水ツキになった。

このときに持ちあがったのが導水路の付け替えだった。

明治時代の末のころだ。

南は堀本家で北の鈴村家や分家の中谷家は庄屋だった。

その庄屋家が建てたのが藪大師。

村の大師講で守っていた。

その頃か、その後であるのかどうか不明であるが、北に大師講、南も大師講の二つの講組に分かれた。

分かれた北の大師講が営む場は北の大師堂であるが、南の大師講は藪大師に集まることなく廻り当番の講中の家の営みだ。

かつて熊野神社境内に光明院があった。



廃仏毀釈の波をもろに被った光明院は廃寺になったが、その後において立ち上がった有志が大正年間に今の北の大師堂を建てたと話す。

(H27. 4.21 EOS40D撮影)

荒蒔のおだいっさん

2016年02月11日 09時21分41秒 | 天理市へ
天理市荒蒔町のマツリ取材の際に聞いていた「おだいっさん」の在り方を拝見したく訪れた。

行事名の「おだいっさん」は弘法大師を祭る行事。

お大師さんは「おだいっさん」。

親しみを込めた行事名である。

場は勝手神社境内にある観音堂だ。

番条町の取材が長引いてすでに神事を終えていた。

仏事であるが、参集する人たちは村神主を中心とする神社衆である。

集落中心部の公民館北に薬師堂があった。

そこには本尊薬師座像とともに弘法大師像も安置していた。



お堂を守っていたのは村の長老だった。

現在、観音堂が建つ場は社務所だった。

竃があった社務所。

火をくべていたから屋内は煤でま黒っけだった。

当時は子供だったと話す神社衆。

相撲をして遊んでいたことを思いだされた。

拝殿もなく本殿下は空いていた境内。

バットに見立てた竹の棒で庭球の球を打つ野球をしていた。

本殿鳥居下がベースだったとう場である。

子供の頃の遊びであった野球はニノ鳥居を越せばホームランだったと話す。

その場に現在の拝殿を建てた。

昭和63年ころである。

旧社務所を壊して観音堂を建てた。

その際にボロボロに朽ちていた薬師堂を廃して本尊、大師像を観音堂に安置するようにした。

そうした移設事情から神社衆が受け継ぐことになった「おだいっさん」。

受け継いだ村神主、当家が参ることにした。

それだけでは寂しいだろうと御供も供えて神社衆も寄り合うようになったという。

観音堂は三尊。

「おだいっさん」の日は石造地蔵立像など三尊ともローソクを灯す。

ついさっきに終えたという村神主。

神事ごとと同じように2礼、2拍手、1礼をして参ったという。

参ったあとは拝殿で飲食。

神社衆の寄合の場である。

年代もほとんど同じ人たち。

話題は尽きない。

その間の観音堂はローソクの火が揺れているだけだ。

観音堂に残されていた棟札がある。

表面が「安政四年(1857) 奉建立薬師堂諸願成就村中安全如意満足祈攸 ・・・」で、裏面は「安政歳巳八月十七日 棟上 荒蒔村庄屋・・・時代建之」とある。

薬師堂は安政四年に庄屋ら村の人たち数人が村中安全を願って建之された証しである。

ところが観音堂内奥に数枚の板書が掲げてあった。



それには「荒蒔庄 長徳寺」の墨書がある。

それには八部衆(二十八部衆の可能性もある)と思われるような仏画像が描かれている。

もう一つの板書はそれより新しいが「古義真言・・ 高野山」の墨書があった。

神社衆も存知しない寺名である。

旧山辺郡二階堂村荒蒔・勝手神社の正月行事に「ケイチン」、「将軍さん」がある。天正年間(1573~)より記される『宮座中間年代記』がある。

この時代は神仏混合で神官・僧侶による祭事が各地で行われていた。

もしかとすれば、であるが荒蒔もそうであったかもしれない。

荒蒔の4月3日は神武さん。

昔は採ってきたヨモギで餅を搗いていた。

神さんに参って供えることもなく家で搗いて食べていた。

家の風習だったという。

ちなみに境内には何らかを祀っている建物がある。

その建物を「ジュラクサン」と呼んでいる。

「ジュラクサン」は「じゅうらせつにょ」であるかもしれないが、神社衆はどなたも存知しないようだ。

(H27. 4.21 EOS40D撮影)

番条町南のお大師さま参り

2016年02月10日 09時41分09秒 | 大和郡山市へ
旧村環濠集落の一つに挙げられる大和郡山市番条町。

4月21日、各戸で安置されているお大師さんが出開帳。

場は各戸の門屋とか玄関口などだ。

僧侶による法要もなく、ただたんにお家の方が門屋に設えた祭壇に移されたお大師さんに御膳や花を立てる。

文政十三年(1830)に流行病いのコレラが村内で発症したことが発端で、弘法大師を各戸が屋内で祭っている民間信仰。

いわゆる写し霊場であるが、集落全戸が祭る在り方は極めて珍しい。

朝早い家では7時に移すところもあるが、だいたいが8時前後。

普段はひっそりしている集落。

この日は巡礼をしている人がうろうろしている。

新聞やテレビなどのメディア報道で知った市外の人が訪れるようになったのだ。

昨今は県外から訪れる人も見られるようになった。

集落全戸をお参りすれば、四国八十八カ所巡りしたことになる。



お賽銭を入れて手を合わせる。

そうすれば家の人が供えたヨゴミダンゴや白モチ1個をたばっていく。

いわゆるお接待であるが、紙袋にどっさり詰め込む人もいる。

モチを目当てにやってくるのだ。

困った状況になっていると村の人は云う。

番条町のお大師さんは著書の『奈良大和路の年中行事』や大和郡山市の広報誌に執筆、紹介したが、モチ泥棒には来てもらいたくないのでお接待のモチの件は記述しなかった。

知り合いの住民のお願いでそうした。



送迎させてもらっていた患者さんの家がある。

挨拶すればお厨子を運んでほしいと願われる婦人は足が若干、不自由。

旦那さんはイチゴ栽培が忙しいからまだ戻っていない。



手助けして台やお厨子に花立てなどを運んで設営する。

調えば、普段は「家の阿弥陀さんにいてはる」というお大師さんを移す。

手を合わせていたら二人連れの婦人がやってきた。

度々お会いする二人の婦人は隣村の中城や発志院在住の馴染みのある顔ぶれ。



懐かしさもあって話題は出里のようすまで話す。

奈良市南永井におばあさん講があった。

行事は何なのか判らないが茹でタマゴを食べていたそうだ。

大和郡山市中城にも大師講があった。

アマチャの行事もあったという。

香芝上中にもおばあさん講とも呼ばれる尼講があった。

掛軸を掲げて参る。

祀っているヤカタを当番家に廻していた。

月に一度はお寺さんで念仏を唱えていたとか。

盛り上がる話題はお雑煮にキナコを浸けて食べる風習は番条町や発志院でもしていた。

どこでも、皆は同じようにしていると話していた。

この日の目的は南の藪大師を調べることだった。

昨年、南の大師講の方に聞いていた朝一番の旗立て。

8時には立てると話していた。

患者さんの家で話題が盛り上がり時間は過ぎていた。

ここから十数メートル。



佐保川の堤にある藪大師。

十数本も立てていた。

「遅れた」といいながら家で保管していた旗を立てる講中。

旗はそれぞれの講中が立てるようだ。



知人の酒造会長の話によれば、昭和9年ころに川の改修工事があったという。

導水路を移し替えた。

それまでの藪大師は祠もなく藪の中に佇んでいた。

大正末期、北を流れる菩提山川が決壊して村は水ツキになった。

昭和6、7年にも決壊して水ツキ。

導水路は廃して橋を架けたという。

藪大師は村の大師講が守っていた。

明治末期に何軒かの大庄屋が祠を建てた。

そのころに大師講は南の藪大師、北は大師堂に分かれたそうだ。



藪大師にお参りしていた若き女性は番条町住民。

お爺さんは熊野神社の北座の人だった。

病気がちだったお爺さんは平成21年・座行事の十月朔座当屋をつとめた翌年に亡くなられた。

それから5年後、北座は7軒から5軒に。

南座は17軒から11軒になっていた。

「萬(よろず)覚帳」によれば正徳元年(1711)八月から始まったとされる朔座。

享保二年、三年と続いて310年。

年老いた人たちで営んでいたが、継承することも難しく、昨年秋に両座とも解散された。

お大師さんの日はさまざまな地からお参りに来られる。



藪大師辺りは南の垣内。

八十八番のお大師さんを祭る家がようやく見つかった。

ここら辺りでうろうろしていた二人連れの婦人。

どこかで見たような・・。

なんと私が住まいする地元住民であった。



自転車でここまで来たというから片道距離にして約5km。

自転車でやってきたそうだ。

朝一番に見かけた二人連れの婦人は大和郡山市の小泉町。

同じように自転車で来たという距離も5km。

巡礼はどちらも始めてだという。

出合う度に立ち止って井戸端会話をする。



庭にぼたんの花やコデマリが見つかれば花談義になる。

他所のお大師さん行事に出向きたいが、なかなか前へ進めない。



杖をついた隣家のご婦人もやってくる。

他家の祭り方も見てみたいが足が不自由で遠くまでは行けないと云って立ち話。

その場にやってきた県外からの団体の巡礼者。

藪大師なども参ってここへ来た。

どこから来られたのか、また何度目になるのか何組かの聞取りをした結果、毎年来られる組もあれば、今回が初めてだという組もある。

毎年の組は信仰色が強いと思われるが、物見雄山の組が最も多いように感じる。

一度は見ておきたいと思う人たちは物珍しさ観光が動機であるが、ときには八十八ケ所札を示した地図を手にして巡拝する組もある。

「これはどこへ行けばもらえるのですか」と尋ねる人もいる。

このよう人はどういう動機で来ているのだろうか。

地図を頼りに巡りたいという思いは観光目当てとしか考えられない。



有名な観光地はどことも観光マップがある。

場合によってはスタンプラリーで誘導するケースもある。

巡る寺社マップは食べ処があればたしかに便利であるが、信仰の村は組織化されているわけでもない各戸の在り方だ。

村の人でも全容が掴めていない。

というよりもその必要性がないのだ。



ある人は意見を述べた。

幟を揚げて観光地化したい・・だ。

訪れる人に親切心は必要なのだろうか。

アンケートも収集したいという考えをもつ人もいる。

データを集めて何に使うのか。

信仰はそっとしてほしいと思うのだ。

この場を通り過ぎる若い二人の女性は奈良女子大学の学生さん。

数年前から繰り返し、イエの構造とともにお大師信仰を調査している。

南端にある番条の環濠は綺麗に整備されて昔の面影は消えた。



悪臭を放っていたのだろうか。

それで整備されたのか、それとも観光地化を進めたのか・・その後の状況も見続ける必要性が生じた。

(H27. 4.21 EOS40D撮影)