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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

銭司の正月行事の民俗採訪

2017年08月21日 10時22分26秒 | もっと遠くへ(京都編)
砂撒き風習があるのかどうか確かめるには正月三が日に訪れて調査した方がいい。

それ以前であれば撒いていたとしても絶対的に砂跡は雨に流れて消えているはずだ。

大和郡山市内の調査はそうしてきた。

正月三が日は無理だとしても、訪れるには一月以内。

少なくともそういたいと思ってはいるものの、遠隔地であれば度々出かけるわけにはいかないから、時期を逃してしまう。

ただ、どのような場所地にあるのかだけでも見ておく方が良い。

そう思って出かけた京都府の南部地域。

まずは木津川市の加茂町銭司(ぜず)。

していると仮定しての場所は春日神社である。

この日も同行調査する写真家のKさんとともに行動する。

カーナビゲーションにセットした銭司。

県道163号線に架かる信号を北にあがる。

地図を見れば参道筋の右に小字神田。

さらにあがった四つ辻の左に小字城ノ垣内がある。

前方の具合がわからないから辻にある民家の婦人に道を尋ねた。

結果は上流である。

その筋に沿って上流の谷沿いは小字金谷。

もっと奥の最上流手前に車を停めてその奥にある建物を目指していたときだ。

左前方にある樹木がわっさわっさと揺れる。

得体のしれない獣の声も聞こえる。

どうやら野猿のようだ。

さて、その奥の建物は・・。

石の鳥居が見られるから神社であろう。

そう思って足を運ぶ。



鳥居を潜って石段を登れば朱塗りの三社が並ぶところに出た。

中央はお稲荷さんが祀られているから稲荷社に違いないが、左右に建つ社は何であろうか。

社札のようなものがあり「妙法二神」と書かれた金色、赤色二色の幣がある。

右の社の幣札は判読し難いが「八大龍王」。

帰宅して調べた結果は「山の神」さん。

中央の社は「森飛騨大明神」を祀っているそうだ。



その台場にあった赤い実。

トウガラシのようである。

もしかとして、初成りのお供え。

そう思って撮っておいた。

そこより下った処にも社がある。

これも帰宅してわかった銭司(ぜず)妙見宮。

詳しくは日蓮宗妙見山本照寺のHPを参照していただきたい。



その銭司妙見宮社の脇においてあった竹製の札がある。

たぶんに、お百度参りのときの数取りの札であろう。



そこから一段下がった処に木製の「白馬」があった。

愛くるしい表情で語りかけてくれるような白馬妙見さんにお仕えする馬の姿の神である。

ここでは「馬神様」と呼ばれている神馬である。

下っていけば人影が動いた。

庫裏と思われる建物がある。

お声をかけさせてもらったら若い女性が出てこられた。

ふとしたことから妙見宮に参らせてもらったことを伝えて興味をもったそれぞれを教えてもらった。

女性は僧侶の妹さん。

大正11年に大阪の能勢町にある妙見さんより勧請、祀る銭司の妙見山本照寺。

石の鳥居はかつての妙見宮の名残であるらしい。

歴史的な縁起については日蓮宗妙見山本照寺のHPを参照していただきたい。

女性に尋ねた竹の箆棒。

それはお百度参りに使途する数取り道具。

願掛けの人が竹の箆棒を作ってもってくる。

その箆を手にしてお堂の周りを願掛けしながらお参りをするということだった。

神馬は妙見さんの眷属。

他所では亀の姿もあるらしいが、本照寺では白馬であると話された。

また、水行の場にある仏像は妙見さん。

剣をもっているから妙見さんと話してくれた。

ところで、春日神社の所在地は、と尋ねたら、ここよりすぐ近く。

木の根っこが見られる山林道を下れば神社が見えてきますと云われて道を下る。

その場に建っていた春日神社にようやくご対面できる。



社殿は近年にゾーク(造営)されたかのように美しい姿で建之されていた。

参拝するとともに境内の様相を見て回る。

愕然としたのはこれだ。



石の灯籠が無残な状態になっている。

元々の姿を見ていないので、なんともいえないが、なんとなく人為的に倒されたような感がする。

向こうに並ぶ3基の灯籠が同じ方向に倒れている。

地震があったとは思えないような倒れ方である。

人影はまったく見られないが、社務所か参籠所と思える建物に貼ってあった情報に目がとまる。

その情報は「平成29年勧請縄奉仕者名」であった。

東頭(東座であろう)に4人の名、西頭(西座であろう)は7人である。

勧請縄を結って掛ける行事の役目をもつ東、西の頭が11人。

その年度の当番の人たちだと思うが、いつ掛けているのだろうか。

来た道とは別の道を下ることにした。神社から下りてすぐ近く。

割り合い広い処にでる。

そこが参道であろうか、地蔵尊を納めた祠があった。

供えて間もないと思われるお花を立てていた。

参拝者が供えた花であろう。



鬱蒼とした森林に囲まれる社叢地に昇ってきた朝の光が射し込む。

神々しい光に照らし出された地蔵さんにも手を合わせて四つ辻まで下った。

ここでまたもやお聞きする春日神社の勧請縄掛け。

お話してくださったのは男性。

登り口に尋ねた婦人の旦那さんのようだ。

男性がいうには行事日は1月3日


当番の人たち(座中)は朝に集まってきて、午前中いっぱいは縄結い。

午後の時間帯に再び集まって縄を掛けているそうだ。

話しているそのときだ。

大きな図体でのっし、のっしと四つ足歩行でもない、前足はまるで手のよう・・。

お尻の赤い色がはっきりとわかる野生の猿だった。

ここらで栽培している野菜は猿のエサのようになってしまったという。

林のなかで動いていた獣は間違いもなく猿である。

こんな大きな野生の猿が銭司(ぜず)に住み着いてしまって・・とぼやいていた。

その辻から東に行けば左手にお寺が見える。

福田寺だと教えてくれたのは散歩する男性。

小字宮ノ前か、右手の蔵ノ垣内にお住まいであろう。



男性が云うには、その福田寺の際を登っていけば春日神社に着くらしい。

ここは小字馬場道の名がある。

馬に乗った人たちが神社と往来した道であろう。

その付近にあった彫りの深い石仏があった。



地蔵菩薩であろう。

それはともかく福田寺(ふくでんじ)の普段は無住時であるが、年に何度かは相楽郡笠置町の笠置寺の僧侶がくるという。

福田寺は真言宗智山派。

笠置寺も同宗派である。

笠置寺の僧侶とは一度お会いしている。

訪れたのは平成19年11月24日。

山寺の錦織りなす景観を求めて来訪した。

そのときに出会った住職の詞は今も私のHPに書き残している。

これを機会にこのブログに転載しておく。

このとき書いたタイトルは「古代色」。

コメントは「某山寺の和尚さんが形よりも色を表現したいと話された古代の色」。

某山寺というのが真言宗智山派笠置寺である。

「幽玄を感じさせる霧の世界に昔より伝えられる日本古来の色の呼び名に憧れる和尚。古来色の呼び名で景観を表現するのは難しいが、私もその視点を大切したい。心の中でつぶやいてシャッター押すように心がけたいものだ。」であるが、あらためて読んで見れば恥ずかしいものだ。

未だに住職が思う境地には達していない。

もっと精進しなければと、思った。

ちなみに散歩していた男性の話しによれば、12月の大晦日の日に砂撒きをしていたそうだ。

今は宮守さんの都合、或は考え方によって砂撒きは「道」にすることもあるらしい。

参考までにネットにあった3例を挙げておく。

一つはこちら

もう一つは秋祭りの所作が大柳生のハナガイを装着して田の草取り所作とそっくりな様相を伝えていたので大いに参照したい。

もう一つは京田辺市の宮津の砂撒きに続いてアップされた銭司の砂撒きである。

(H28.12.18 EOS40D撮影)

米谷町のチンジサン

2017年08月20日 09時11分30秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
チンジサンの名で呼ばれている鎮守社の行事があると聞いたのはこの年の10月8日だった。

場所は奈良市米谷(まいたに)町に鎮座する白山比咩神社右に建つ社殿である。

鎮守社はかつて薬師堂傍にあった社であったそうだ。

薬師堂は「ムネの薬師」と呼ばれる薬師堂で、上の坊寿福寺境内より上にある墓地よりさらに階段を登ったところに建つ。

名阪国道の福住より下っていけば高峰SAがある。

そこよりさらに下れば左側に見える建物がある。

それが現在地の薬師堂。

名阪国道を計画されて工事が始まれば、古い堂をあらためて鉄骨製の堂を現在地に新築移設された。

元々あった地はもっと山の上。

「峯」にあったことから「ミネの薬師」。

いつしか訛って「ムネの薬師」と呼ばれたようだ。

平成2年9月9日に白山比咩神社、庵山石仏、寿福寺などを調査したと平成6年7月、五ケ谷村史編集委員会が発刊した『五ケ谷村史』に書いてある。

そのなかに書いてあった事跡を原文のまま書き写す。

『多聞山日記』 天正十七年(1589)九月十七日条に「今朝夢ニ米谷ノ宮弁才天東向立像ノ天女ニ舎利殿二ツアリ、前立ニ毘沙門ノ姿ニテ手ニ弓ヲ持、名ヲ富有留(ふうる)ト云ト見テ夜明了、不思議事也」とあり、同白山神社に弁才天を祀っていた。寿福寺の鎮守ともいわれる白山神社の所以である。

さらに頁をくれば、白山比咩神社の項に境内社は大山祇神を祀る山王神社とある。

チンジサンの名で呼ばれている鎮守社は山王神社であった。

チンジサンの祭りは12月15日と聞いていた。

先にあげた『五ケ谷村史』も12月15日が祭事日であると書いていた。

聞いていた時間に訪れた白山比咩神社には誰一人といなかった。

村神主にお聞きすれば都合で急遽、翌日の16日になったということからの再訪である。

この日に神職は登場しない。

神社行事を司る十一人衆の行事である。

特に祝詞もなく一人一人が参拝される。

まずは本社殿に参る。

その次に参るのが鎮守社。

その右に建つ神武天皇遥拝所の立石にも手を合わせる。

参拝した十一人衆は参籠所に移る。

行事手伝いの佐多人(助侈人とも)が差し出すお茶で一服。

この日は冷たい風が吹き抜ける日。

山間部は特に寒さを感じる日である。

今朝は霰(アラレ)が降ったというだけに特に寒さを感じる。

神社鎮座地の標高は海抜350m。

さほど高くはないが、風の冷たさが頬を撫でる。

お参りしていた男性は五老のYさん。

お爺さんは村の大工さんだった。

そのお爺さんが20年前に建替えたのが鎮守社。

ずいぶん前であるが、今でも鮮やかさをとどめる朱塗りである。

チンジサンに参拝したら参籠所に籠る。

行事を下支えする佐多人はこの日の料理を机に運ぶ。

料理は大鍋で炊いた煮物。



ダイコン、サトイモ、ニンジンにゴボテン(牛蒡の天ぷら)を煮込んだ料理を皿に盛って配膳する。

この日はゴボテンであるが、ヒラ天の場合もあるらしい。

ダイコンはダイコと呼ぶ。

イモとダイコンの煮込みであれば、その料理を「イモダイコ」の煮つけと呼ぶ。

田舎の料理やというが、だし味が利いていて美味しい。

自宅で栽培した野菜は、土が良いから特に柔らかくなる。

そう云ってくれたのは村神主の奥さんだ。

料理は家庭の味。

それが美味いのである

ところ、である。

十一人衆からお呼びがかかった。

特に一老を務めるKさんからである。

「写真撮りのあんたが、何度かここ米谷町に来ているが、なぜに来ているのか、この場で話してくれ」、と云われたのである。

希望されて断る理由はない。

米谷町の伝統行事を記録、取材するようになった経緯を話させてもらう。

始まりのきっかけは隣村の北椿尾町・稲荷講の寒施行行事である。

平成19年1月21日に行われた寒施行行事取材に上がらせてもらった講中の一人が自宅に保管していた『五ケ谷村史』を見せてくださった。

村史は伝統的行事がほぼ網羅されていた。

許可を得て貸し出し。

誌面をスキャンコピーさせてもらった。

その村史に書いてあったのが「ムネの薬師」で行われているオコナイ行事である。

所在地並びに行事取材の許可を得るために訪れたのが米谷町の第一歩だった。

訪れたのは平成27年の5月6日である。

上ノ坊寿福寺の住職の了解をいただいたが、オコナイのお札は寺と神社の2枚(米谷町は苗代と田植えに分けている)があると教えてくださった。

住職は白山比咩神社行事のいくつかに参列していることも聞いた。

いずれは神社行事も拝見してみたいと思っていた。

白山比咩神社をはじめて訪れた日は平成27年の10月10日だった。

予めに伺うべきところ間に合わずに訪れた。

神社の所在地がわかればそれでいいと思っていた。

行事は始まっていた時間帯。

代表者のコンタクトはとれるような雰囲気はなかったが、だいたいの行事状況は理解できた。

それから一年後のマツリの宵宮。

唐屋の承諾は得てはいたものの十一人衆や宮総代とはその日の行事中になってしまった。

いや、その前にお会いしていた人がおられる。

八老さんに九老さんである。

九老さんは村神主でもある。

また、行事を手伝っていた助侈人のSさんである。

ところが肝心かなめの一老さんとはご挨拶ができていなかった。

マツリの日にあらためてご挨拶させてもらって了解をとったが気まずかったことを思い出す。

それらあれやこれやであるが、『五ケ谷村史』を読めば読むほど米谷町の年中行事の現況を記録したいと思ってやってきたと話させてもらった。

村史によれば旧五ケ谷の各村の伝統行事はあるが、米谷町の行事だけは今もなお昔から続けてきた在り方が継承されてきたと思っている。

村人の何人かとお話しする機会があった。

その話しによれば唐屋が一通りあたれば村行事を大改正するような動きがあるそうだ。

変革があればかつて務めてきた行事の在り方が消えてしまう。

この場を借りて現況を撮らせていただきたいと申し出たわけである。

自己紹介も兼ねて経緯並びにこれまで拝見した行事の類似例なども話させてもらったら、米谷町のオコナイは珍しいと思うからテレビ局の取材に来てもらって取り上げて欲しいとも云われる。

また、稲荷講は米谷町にもあるが、伊勢講との関係は、講の行事は仏事、それとも神事なのかなども質問される。

ここで米谷町に稲荷講があることを知った。

そのことについては村史にはない。

村史に記載されていない行事はどこともそうであるが埋もれているのである。

米谷町の稲荷講もこの場におられたのも二人。

その講中でなければわからないのである。

こういう機会は逃したくない。

二人の講中に聞いた行事日は3月あたまの初午の日。

場は八丁坂と呼ばれる急な坂道にある白山神社とは別の神さんだという。

別の神さんは10軒の稲荷講が信仰する稲荷社であろう。

会所から下る道がある。

下った三ツ辻近くにあるらしい。

行事の概要は講中が集まっての般若心経。

供えたお菓子などの御供は下げて子どもたちに配るという。

(H28.12.16 EOS40D撮影)

佐紀町の筵敷きダイコン干し

2017年08月19日 09時29分28秒 | 民俗あれこれ(干す編)
山上八幡神社の板注連縄を拝見して平城京大極殿北集落を抜ける。

八幡神社がある山陵町からはそれほど遠くない地に神社が三社も並んでいる。

並んでいると云ってもやや離れている。

祭祀する地区それぞれの氏神さんである。

そこも通り抜けて帰ろうとしたら刈り取りを済ませた稲作地の向こう側にキラキラ光る白いものがあった。

何かをそこで干している。

モチなのかそれとも・・・。

それを拝見したく車を停めた。

その場は民家の真ん前。

つまりは敷地内である。

門屋の方から男性が現われた。

天日干しをされている状況が美しく写真を撮らせてもらいたいと伝えたらどうぞ、である。

昨日までは雨が降っていた。

曇り空が続く12月。

収穫したダイコンを何時干していいやら困っていたそうだ。

この日の朝は氷点下。

五ケ谷辺りは畑に溜まっていた水が凍っていた。

たぶんここらもそうであったろう。

朝は寒かったが晴れ間が射し込んだ。

天気が良ければと待っていた日がやってきた。

そう判断されてダイコン切り作業。

輪切りしたダイコンを1/4に切る。



それを敷いた筵の上に広げる。

筵は風に飛ばされないように両端に紐を結んで固定している。

ご主人がいうには天日干しには風が吹かないと・・という。

ダイコンは水分がある。

筵であれば乾いたダイコンは難なく剥がれる。

カンピョウ干しの場合も同じだ。

水分があるカンピョウは竹竿であっても金属ポールであって、そのまま巻いたらへばりついて剥がれなくなる。

そのために工夫したのは竿に稲藁を巻くことである。

特に麦わらであれば難なく剥がれる。

筵を敷かれたのは賢明な措置なのだが、乾くには相応しくない。

つまりそこに必要なのが「風」である。



昔は柿の木の枝にぶら下げて天日干しをしていたという。

ダイコンは切ることもなく葉っぱを付けたそのままの形のダイコンの首に藁紐で括る。

輪っかにした藁紐を枝に引っかけて天日干し。

その形態のほうが風に当たりやすいから乾きが早いのである。

昔からダイコン干しは横にある柿の木を使ってきたというご主人の話しだった。

そういえば私の頭の中の記憶が蘇ってきた。

そんな方法論を話してくれたご主人はどの神社が氏神さんになるのか聞いてみた。

ここは奈良市佐紀町。

旧村の景観をみせる村で育った。

ここより東は歌姫街道。

その街道沿いの東はかつて畑だった。

今では新しい家が建っているが、昔はなかったという。

で、氏神さんと云えば釣殿神社

そうだったのか、である。

で、あれば名前を知りたくなって質問した。

質問したのは前掛けと呼ぶ注連縄である。

ご主人が云うにはその注連縄は歌姫街道沿いに建つ集会所で結うそうだ。

30日の大晦日の朝、大祓いをしてから拝殿前に運んできた注連縄を架けているはずだという。

拝殿に架けるということは奥が社殿である。

つまりは前に架けるから前掛けというのであるが、かつては「ゾウガイ」と呼んでいた。

その表現は間違いないと思う。

県内各地事例によれば簾型の注連縄は「ドウガイ」若しくは訛った「ゾウガイ」である。

地域によってはもっと訛った呼び名もあるが、民俗語彙からしても間違いない。

そんな言い方を覚えておられた昭和9年生まれのOさんと出会ったことに感謝する。

(H28.12.15 EOS40D撮影)

山陵町山上八幡神社の板注連縄

2017年08月18日 09時17分15秒 | 奈良市へ
山上八幡神社の年中行事表によれば12月18日の日曜日に板注連縄を結っていそうだった。

それは第三日曜日。

2年前に伺ったその注連縄の材となる稲刈りを拝見したことがある。

10月1日の月次祭のときと思っていたがそうでもなく六人衆が揃って作業できる日であった。

都合を確認されて集まる日を決めた。

そんなことがあったからもしかとすれば予定していた日を繰り上げるかも、と思って出かけたら案の定だった。

奇麗な縄結いに惚れ惚れする。



そこへ歩いてきた朱雀の観光ボランテイアガイドの人たち。

板注連縄が新しくなっていることには気がつかずに参拝されていた。

(H28.12.15 EOS40D撮影)

私がとらえた大和の民俗―住―打上の宴in旬味和膳季乃庄

2017年08月17日 08時52分31秒 | メモしとこっ!
平成28年10月29日から12月11日まで開催していた奈良県立民俗博物館企画展の「私がとらえた大和の民俗」写真展

今回で6回目になったテーマは「住」。

手ごわいテーマにカメラマンの実力を発揮する。

今夜は打上の宴。

会場は博物館がある大和郡山市内。

近鉄郡山駅東側を下りて徒歩1分間の地にある旬味和膳の季乃庄だ。

かつて季乃庄は駅前バスローターリーにある西友ビル5階であった。

西友の撤退に伴い移転した旬味和膳季乃庄。

昨年も打上の宴があったが、私は心臓病2度目の入院の身であった。

それから1年後の現在は、といえば完全復帰することなく無難な生活を送っている。

尤も運転許可がでているので専らは相も変わらずの民俗取材に奔走している。

ただ、身体が動いていなければ脈拍は40拍まで届かない低脈拍だ。

そういう状態であっても生きている。

いただいた命は大事にしたい。

生活改善はしようがないが、リハビリ運動をすれば60脈拍前後になる。

つまりは動いておればまったく問題はないということで自宅にいるときは歩行訓練をしている。

季乃庄は我が家から直線距離にして数キロメートル。

ゆっくり駅まで歩いておよそ40分。

帰りは夜遅くなり運行するバスは走っていない。

日曜ダイヤの最終便は午後7時38分。

宴がいくら早く終わってもとてもじゃ間に合わない。

帰りはタクシーと決め込んで自宅を午後5時半に出た。

季乃庄に着いたのは午後6時7分。

まあそんなもんだと思った歩行数は3180歩だった。

会場の季乃庄はいつも予約客の案内をされている。

おっと、ここにも間違いがある「民俗」。

こういうミステークはブログ等でも散見する。

自動ドアに手を触れて入れば先客が座っていた。

いつも皆さん、早いことである。

宴の場は2階。

店員さんに案内されて階段を登る。

すでに人数分の膳の一部が並べていた。



先付けはメヒカリの酢漬けでろうか。

乾杯を合図にいただくスモークはハムなのか。

なんとかそうではないような味覚音痴である。

テーブルに配られた写真展会場でご記入いただいたお手紙。

これまではしたこともないノートに14人もの方々が感想を伝えてくれる。

JNPに所属するMさんが代表を務めるクラブの写真展は度々出向く。

拝見させていただいた写真にいろいろと意見してきた。

Mさんはネットを見ることもない。

写真家なら展示しているでしょ。

そういう場合は展示案内をしてくれたら是非行ってみたいと云っていた。

その声をいただいて葉書を送った。

私がとらえた大和の民俗―住―のポスターを縮小して葉書に印刷。

葉書は申しわけないが年賀はがきの未使用分。

何年か前の未使用だから2円切手を足して投函した。

毎年、送らせてもらっている知人・友人のすべてではないが、近況報告も兼ねて送付した。

解説を担当する日も記して送った。

届いた人は目を白黒されたかも知れない。

そのMさんは12月9日に来てくださっていた。

ありがたいことであるが、写真の批評は次回にお会いするときに聞きたいものだ。

写真展に参加されている鹿谷勲さんをよくご存じのMさんもコメントをしてくださっている。

私が解説日を担当する日に来館されていたことは学芸員から聞いていたので存じていた。

案内状を送ったので気にかけて来館してくださったと思う。

もう一人は大和郡山市の文化財審議官をされている長田光男先生だ。

長田先生も鹿谷勲さんのことは存じている。

嬉しい便りに写真家も。

「ムチ」を打たれた思いになったというSさん。

皆さん方、それぞれの温かい詞は今後の励みになる。

なかでも一番のお気に入りは解説当番をしていたときに訪れていた子供さん。

その日はとにかく多い来館者で溢れていた。

足をとめて見てくださる人や顔見知りの人たちに大きな声で話していた。

うんうんと頷く二人の女児はいつのまにか席についてノートに書いていた。

一生懸命な姿に何を感動してくれたのか、とても気になっていた。

「人のきょかをとって・・・人が写っているとそれだけで心があかるくなります・・・」と書き込んでくれたY・Sちゃんは花マークまで書いてくれた。

妹だと思われる女児も「風景をとっただけでもきれいでこころがあたたまるけど人が入るともっといい写真になるなと思った・・・カメラ目線もいいけど自然体が・・・」に猫ちゃんマーク。

涙が出るくらいに素直な女児の詞がとても嬉しい。

閲覧者は大人が大多数だが、大人にも子供にもわかるように解説させてもらった結果を書いてくれた。

この場を借りてほんまにありがとうを伝えたい。

さて、宴の料理である。

飲み放題のコース会席は4千円。

お造りは小さいが5品盛り。



舌平目のパリパり天ぷらに陶板焼き。



豚バラ肉がちょっとに厚揚げ、エリンギ、カボチャ、ピーマン、タマネギ、モヤシは味噌タレで食べる。

美味しい料理に生ビールはぐいぐい。



一時間後に配膳された白身魚の蒸し料理。

野菜はとうぜんながらの温野菜。

これはポン酢でいただく。

ビールはまたもやぐいぐいで4杯目。

縁もたけなわに時間を忘れる。

このまま解散したら次回はどうなるのか。

ここから始まった議論に活発な意見が寄せられる。

するか、しないのか。

継続するのか、6回目で終わりにするのか・・・。

写真家たちの声は続けたい、である。

1回目を始めたときだ。

当時、担当していた鹿谷勲さんはこういった。

「写真家一人が3点の写真をとらえる。10人が出展すれば30枚。何回か開催することで、60点、90点、120点・・・。集大成すればすばらしい民俗写真集になる。それに向けて・・」と云っていた。

そうありたいと、ここまできた。

テーマがあればあるほどさらにそれぞれのカメラマン目線でとらえた大和の民俗が描写される。

特にこの3年間は「食」、「衣」に「住」だった。

奥は深い民俗は手ごたえがあると感じるようになった写真家たち。

気持ちは続けたい、である。

で、あれば次回テーマは・・・。

私は思っていたテーマを発した。

未だ病に悩まされている心臓病。完全復帰ではないが、死も感じたこともある。再び「生」を授かったと思っている。

ならば、と思った「生」は却下された。

Nさんが云ったのは「水」。

Sさんが云ったのは「生業・仕事」。

私は職人としたいが、範囲が狭められる。

議論は時間切れで延長戦はなし。

さてさてどうなることやら。

ここで解散となってタクシーに乗る。

丁度、午後9時40分。

長い時間であったが有意義だった。

数日後、見ていたテレビは日本のチカラ。

漆掻き研修生の思いや活動の放映を主人公に国産漆は2%になっている状況を伝えていた。

98%は中国産。

劣化は国産よりも早く文化庁は文化財保護に国産漆に全面切り替えたという。

そうだ、「塗」があったんだ。宴の場で出た「色」は却下されたことを思い出した。

ピンときた極めつけの「染」も含めて、塗る・染める民俗だ。

やりがいがある民俗写真の取り組みに拳がぐっと挙がったが・・・。

(H28.12.11 SB932SH撮影)

南山城村北大河原本郷の山の神

2017年08月16日 09時00分27秒 | もっと遠くへ(京都編)
京都府の南山城村・北大河原に山の神行事があると聞いたのは前月の11月7日だった。

そのことを聞いたのは国津神社の年中行事を務めている3人の宮総代だった。

当日の午後6時に集まる子どもたちは村を巡ってお米代わりの米代集めをすると聞いている。

タイショウと呼ぶ高校1年生の子どもが年長者に下の子どもたち。

およそ2時間もかけて120戸~130戸からなる村全戸を巡るお金集め。

かつてはカヤクメシの御飯に調達するお米集めだった。

各戸すべてを廻り終えたら国津神社にやってくる。

やってくる時間までに宮総代らは神社でカヤクメシを炊いておく。

戻ってきた子どもたちは役目を終えてカヤクメシをよばれて終える村行事である。

集合時間は聞いていたが場所は聞いていなかった。

唯一、電話番号を教えてくださった宮総代の一人に電話をすれば案内すると誘導してくれた。

そこで待っておれば子供会の子たちがやってくる、と云われて待つ。

しばらくすれば暗くなった通りを歩く子どもたちがいた。

駆け寄って取材を伝える。

後方についていた男性にも声をかけたら、子供会の代表者だった。

これから巡るお金集めの子どもの父親だった。

今夜の取材に至った経緯を伝えるとともに撮影取材を承諾いただき同行する。

2組の子どもがくると聞いていたが、実際は4人。

高校一年生の大将をカシラ(頭)に2組分かれの米代集めに各戸を巡る。

代表が云うには村の全戸は120戸。

すべてを廻りきる時間帯は午後9時を過ぎるらしい。

各戸を廻るが、不幸ごとがあったお家のお金集めはしない。

主役は子どもたち。

親や大人は後からついていくだけだ。

今は親になった代表者が子どものころはお金集めでなく、本来姿のお米集め。

お家を巡ってお米を貰う。

お米は糯米でなく、粳米の白米。

お米は白いサラシの袋に入れてもらった。

当時は不幸ごとの家もお米貰いがあったが、白米でなく、「クロ」だったという。

「クロ」とは麦のこと。

二毛作があった時代であろう。

サラシの米袋に三合、五合枡いっぱいに盛ったお米を入れてもらっていたというから米袋はどれぐらいの枚数が要ったのだろうか。

今年の金集め役目を担う子どもたちは4人。

高校一年生が一人で中学生は二人。

小学生が一人の4人組。

タイショウ(大将)は高校一年生。

行き先々を先導し、「あそこへ行ってこい」と下の子どもに指図する。

元々は男の子だけで行う行事であったが、少子化によって男の子だけでは無理な人数となり、2年前から女の子も参加を認めて継承している。

なお、子供会は30年前にできたというからこの日の代表者がお米集めをしていたのは仮に10歳とすれば34年前。

そのころはまだ子供会もなかった。

その当時の子どもは15、6人もいた。

人数が多いから5人くらいに分かれた3組があちこち方面を決めて巡っていたそうだ。

そのときの対象者は小学四年生から高校一年生まで。

人数制限で小学三年生は含んでいなかったようだ。

今夜のように子供会の役員がついていくようになったのは今から20年前になるらしい。

ちなみにお米集めならぬお金集めの子供らの対象年は小学一年生から高校一年生までである。

高校生がいない場合は年長の中学生がタイショウになるようだ。

玄関の扉を叩いて叫ぶ「おばちゃーん シロや クロやのコメおくれ」と囃す。

しばらくすれば玄関に明かりが点いて家人が出てくる。

袋を差し出せばお米ならぬ現金を入れてくれる。

表口から声をかけても出てこない。

呼び鈴を押しても出てこられない場合は飛ばす。



年齢がいった婦人は子どもの姿を見て「大きくなったね」と云ってくれる家もある。

その付近の家に懐かしい情景を思い出す。



割り木をくべて焚くお風呂である。

釜口に割り木が燃える炎が見える。

今でも現役で使っている家は何軒もあるという。

私が生まれ育った大阪市営住宅。

40年前までは木造住宅だった。

お風呂はガス式に移っていたが、その前の時代は割り木をくべて焚いていた。

割り木は近くの風呂屋で余った木を貰っていた。

それを斧やナタで割って薪を作っていた


子どもの役目やと思ってしていたが、弟は記憶にないという。

で、あればガス化は早い時期だったかもしれない。

薪の火を見て思い出にふけている場合ではない。

取り残されてしまえば、どの家に向かっていったのかわからなくなる。

村内には明かりはあるが、街灯はあったのかどうか覚えていない。

「おばちゃーん シロや クロやのコメおくれ」と声をかけるのは年長のタイショウら。

玄関を開けられたら「入っていいですか」と声をかけて了承を得たということ。



「敷居を跨がないと乞食さんになるから中へ入らしてもらってお米をもらっていた」というのは子供会の代表者。

親から伝えられてきた迷信であろう。

タイショウら年長者は女の子ばかり。

お米代もらいに袋の口を広げるのは下級の小学生に任す。



サラシの袋の口を大きく広げて家人がお金を入れやすいようにしている。

現金は千円。

村で決めた金額であるのか、どうかは知らないが、入れてもらったら「ありがとー」とか、「ありがとうございます」の丁寧語でお礼の言葉を伝えて引き下がる。

北垣内だけでも43、4軒もある。

県道163号線より南の西。

久保垣内の各戸も巡る。

道を渡って木津川辺りに下るまでにも何軒かがある。

家から出てきた家人は「なんぼさしてもらえたらえんのん」と子どもたちに金額を尋ねる。

この婦人は千円であるが、子どもたちが「気持ちだけ・・」だと答えたら、五百円玉を差し出す人もいた。

金額は決まっていないようで、「気持ち」のお米代を受け取って「ありがとー」。

一旦は県道に戻って数軒を巡る。



道路沿いにあるガソリン屋さんも村の人。

子どもたちが来たらお米代を袋に入れていた。

真っ暗な中を歩いておれば方角がわからなくなる。

向こう側の岸にあるのは大河原発電所だと指をさしてくれるがどこになるのかさっぱりわからない木津川支流。

垣内渋久に沿って流れる支流からなのか、川の名前は渋久川(しぶくかわ)。

昔は川に架かる鉄橋(現在は大河原大橋がある)もなく、向こう岸に渡るには渡船の木舟があったという。

おじいさんやおばあさんはその舟で渡っていた対岸先は南大河原である。

丁度その辺りが渡船の乗り場。



現在も使っていそうなプラスチック製の渡し船が、その存在を証言しているが、舟に乗って遊んでいたら「乗ったらあかん」と云われて怒られたそうだ。

再び県道に戻って渋久垣内。



旧街道筋に立ち並ぶ家々を巡って「おばちゃーん シロや クロやのコメおくれ」。

元気な子どもの声が至る所で聞こえてくれる。

大きな声で「おくれ」と云えば玄関を開けて現金袋詰め。

大らかな村の行事に町の人であればびっくりすることだろう。



ところがだ。

当地に越してきた若い家族もいる。

新天地で商売をする家も何軒かある。

そこでも「おばちゃーん シロや クロやのコメおくれ」。

よくよく考えてみれば、いつも台詞は「おばちゃーん」である。

出てくる人が若い女性や男性であっても、呼び出し台詞は「おばちゃーん」である。



高齢の婦人が云うには「ここらは農家がとても少なかった。茶畑もなかったけど、ある程度の農作物は作っていた」と・・・おばちゃん話し。

「わしらのときは、学校が終わってからやっていたから、午後7時に出発していた」。

「宮さんの掃除に加わって山へ出かけていた。山へ行くのは枝木を集めて焚き口の薪にしていたからや」と話してくれたのは宮総代らである。

お米代貰いに巡って2時間経過。

まだまだ先に家がある。

渋久川(しぶくかわ)に沿って向かう先は垣内山口。

山ノ口にあたる地区であろう。

いつまでも元気な子どもたちについていくことは諦めて先に戻った国津神社。

境内では宮総代らが火を起こして大釜でイロゴハンを炊いていた。

釜炊きは子どもたちがやってくる時間を見計らって火を点けてイロゴハンを炊く。

かつてはもらってきたお米をもって炊いていた。洗ったお米を釜に入れる。

イロゴハンの具材は神社もちの費用で賄った。

今でもそれは変わらないが、現在は神社費用で賄ったお米である。

子どもたちはお米ではなく現金集めになってからそうしている。

具材は油揚げにシメジ、ニンジン、チクワ、ササガキゴボウ、マグロ味付けフレーク缶、だしの素に薄口しょうゆにお酒である。

味加減は宮総代のさじ加減であろうか。



計量は聞いていないが、昔はマグロ味付けフレーク缶でなく、サンマの開きだった。

そう話す宮総代は「開きは箸で崩して細かくした。それをイロゴハンに入れていた」というから、ご飯の味はサンマの味が勝っていたのかもしれない。

大釜は二つある、それぞれ一升ずつ炊くというから相当な量である。

炊きあがったイロゴハンは楠の葉に盛って神さんに供える。

楠の葉は皿代わり。



予め準備しておいてお盆に並べる。

葉っぱが九枚。

それぞれに飯シャモジで掬って葉皿に盛る。



暗がりの早い動作にピントも合わない。

宮総代長はお盆ごともって社殿に向かう。

社殿は三社ある。



右端の社が山神社。

いわゆる山の神である。



わかりにくいが三社それぞれの神さんごとにイロゴハン御供は三つずつ。



供えたら神さんに向かって2礼、2拍手、1礼。

もう一人の宮総代とともに拝礼された。

「山の神」は宮さんの行事だからこうしているという。

丁度、そのころにやってきた子どもたち。



トンドの火に温まる。

神社周辺になる本郷区は北垣内をはじめとする欠ケ原、久保、渋久、山口、泉ケ谷、荷掛垣内など。

120軒の家を巡って到着した時間帯は午後9時ころ。

出発してから4時間も経っていた。

冷え切った身体は火にあたって暖をとる。

北大河原は本郷区以外にもたくさんの垣内に分かれている。

浅子、泉ケ谷、ウワノ、大稲葉、奥田、押原、釜ノ子、上押原、上中谷、川浦、コブケ、小松原、小休場、下中谷、白見、辻押原、鶴辺、殿田、殿田平尾、中谷、中山、長谷、七尾鳥、西谷、広手、前畑、丸山、柳ケ谷。

これらの地域とは関係なく行われている山の神は本郷地区独自の村行事である。

トンドで身体を温めた子どもたちは宮総代が迎える社務所に上がらせてもらって炊きたてのイロゴハンをよばれる。

イロゴハンを詰めてもらうのは家から持ってきたプラスチック製の弁当箱。

父親の時代はお茶碗に盛ってもらって食べていたそうだ。

時代によっては異なる生活文化を感じる。



同行取材していた私どもにもよそってくれたイロゴハン。

美味しいだけにおかわりは何杯も。

自家製ではないがこれまた美味しいタクワンでさらに食が進む。

2升も炊いたイロゴハンはどうされるのか。



お聞きすればお家で待つ家族へのお土産に持ち帰るそうだ。

家族も美味しくいただいて一杯が二杯、三杯のおかわりをするそうだ。

イロゴハンをよばれている間は子供会役員が忙しい。

村の各戸を訪れて集めたお米代の清算である。

昔はタイショウがしていたそうだが、今は父親らが務める役員が清算する。

集計した結果はこの日にお米代集めをした子どもたちに分配される。



高校生は2万円。

中学生は1.5万円。

小学生は・・・。

それぞれ封筒に入れてもらった現金を受け取る。



嬉しそうに紙幣を数えるタイショウ。

その様子を覗き込む中学生。

来年にタイショウを務める子どもは目を輝かせた。

冒頭に書いたように30年前の人数は15、6人。

人数が多ければ多いほど分配金が低額になる。

人数が少なくてたいへんやったけどその報いがご褒美になる。

昔、お米集めをしていた大人たちが話すには、もらってきたお米はお米屋さんに持っていって換金していたそうだ。

ところで、この場は社務所でもある。



壁にずらりと並べた木札がある。

還暦・61歳の厄除け祈願もあれば、42歳、37歳、33歳、25歳、19歳もある。

枚数は数えきれない厄除け祈願の札に年度は違えども2月吉日が多いように思えた。

(H28.12.10 EOS40D撮影)

南山城村南大河原のヤマモリ御供

2017年08月15日 08時59分41秒 | もっと遠くへ(京都編)
南山城村南大河原で行われているヤマモリの場は前月の11月7日に確認していた。

ヤマモリ行事についてはずいぶんと簡略化されているような話しを聞いた。

その行事はどのような形でしているのだろうか。

今夜は隣村の北大河原で行われる山の神の取材がある。

その行事が始まるまでの時間までに見ておきたい。

行事をされておれば痕跡があるはずだ。

なければ訪れた11月7日と同じような景観になるであろう。

とにかく行ってみなければわからない南大河原のヤマモリ

行事の場はゾーク(造営)をされて美しくなった恋志谷(こいしや)神社社殿の横にある。

纏めて一柱にされた山の神。

その前にあった。

細く削った青竹で組んだ御供台。

風雨に晒されて潰れていた。

時間帯は午後5時前。

やや暗がりのその場に視線を落とす。

白い粒は洗米であろう。



まき散らかしたような感じである。

緑色の常緑樹と思われる葉っぱも飛び散っている。

葉っぱはなぜかすべてが照りのある表面。

御供を乗せていた椿葉の皿であった。

ざっと枚数を数えてみれば12枚。

果たしてあっているのかどうか怪しいが・・。

じっと目を凝らせば白い粒は洗米でなく、炊いたご飯であった。

かつては村の子どもたちの行事だった。

少子化の波を受けた南大河原。

今では子どもではなく、総代が行う行事になっているらしい。

時間帯も大幅に変わっているのだろう。

(H28.12.10 EOS40D撮影)

京田辺市宮津宮ノ口白山神社の民俗行事を乞う

2017年08月14日 09時27分22秒 | もっと遠くへ(京都編)
大晦日に砂モチをしていると思われた宮津の白山神社に行く。

京都府の宮津といえば日本三景の天橋立を思い起こすが、出かけた先は京都府北部、日本海に面する宮津市ではない。

京田辺市にある大字宮津である。

カーナビゲーションにセットして到着した宮津宮ノ口白山神社。

宮ノ口区に鎮座する。



ある人がブログにアップしていた「撒き砂」はここであろう。

ブログの写真では大小それぞれの大きさで砂絵を描いていた。

そのすべては円形である。

どういう具合で作っているのか、それも知りたい砂撒き習俗。

地区神社の年中行事と思えるが、境内には誰一人とおられない。



同行する写真家Kさんとともに境内にある民俗の何がしかを探してみる。

はじめに目についたのは神社の社伝由緒の立札。

「現在の西宮神社(西宮のえべっさん)から勧請された」とあるが、現在の西宮神社は果たしてどこであろうか。

「西宮のえべっさん」と言えば、全国えびす宮総本社の兵庫県西宮市社家町に鎮座する西宮神社であろう。

社伝由緒では「継体天皇が筒城宮(つつきのみや)にいたこと」とあるから、古き時代の勧請である。

それゆえ、かつては夷社、蛭子社といった、とあるが、いつの時代になるのか記されていないのでわからないが、現在の社名は白山神社である。



で、あるが鳥居に掲げる扁額は「蛭子大神宮」である。

鳥居横に立つ石灯籠。

お参りにくる人が多いのか、灯したローソクの蝋が溶けて流れた痕跡がある。



あまりの多さに溶けた蝋でお山ができるくらいだ。

その灯籠に年代記銘を示す刻印があるらしいが、判読できなかった。

立札に書いてあった建之時代は「永享五年(1433)」。

かつて神宮寺であった法雲寺(廃)にあったものと推定されている。

真言宗であった法雲寺は廃仏毀釈から逃れるために本尊の十一面観音菩薩立像(平安後期作)を浄土宗の西念寺に預けたが、いつしか本堂が崩れる状態になり、本尊を修復することになった。

そのために京都国立博物館に預けられたそうだ。

そのようなことを書いてあった立札に「朔日講の神楽」がある。

毎月の1日に行われる講の行事であるから「朔日」講。

今では月初めの第一日曜日に移っているようだ。

ただ、「・・・など」とあるのが気になるが・・。

境内をぐるりと廻ってもう少し探してみる白山神社の民俗。

神社を右へ右へと行けば山というか、崖のような場に石造りの家型ヤカタが見つかる。



うち、右の一社は内部に家型埴輪のようなものが収まっている。

二つとも竹に挟んだ幣を立てている。

この社はなんであろうか。

反対に左側も巡ってみる。

そこにあった木造りの社にも幣がある。

磐というか石の上に建てたと思われる小社もわからないが、気になるのは下、周辺に竹幣があるということだ。



その本数を数えてみれば12本。

なんとなく一年の月数を表しているように思える。

境内の民俗はもう一つある。

本社殿より右の位置に七・五・三の注連縄が張っている場である。



社殿より外れた処にあるから祓戸の地。

そう思ったのであるが・・遥拝所と知ったのはそれから半年後である。

ある程度はわかるが本質的なことは地元民に聞くのが一番である。

そう思って神社付近の民家を訪ねる。

アテはまったくない。

町を歩く人もいないので呼び鈴を押さざるを得ない。

奈良県内であれば畑を巡って村の人を探せば、だいたいが見つかる。

ここ宮津ではまったく人に遭遇しなきから呼び鈴を押させてもらう。

玄関から出てこられた婦人に尋ねた結果は・・。

旦那さんはかつて長老八人衆を務めたことがあるという。

それなら話は早い。

具体的な行事も教えてくださるだろう。

ここ宮津・白山神社の年中行事はいくつほどあるのかわからないが、この日に知った朔日講もあれば、砂撒きも、だ。

まずは立札に書いてあった朔日講である。

朔日講は8人で構成する神社の宮守さん。

昔は長老が担っていたが、年齢が順番に下って現在は若手の人たちで構成しているという。

毎月の第一日曜日は朔日講の所作がある。

太鼓を打って擦り鉦を鳴らす。

朝の7時にしているという。

砂撒きは奈良県内事例と同じように境内に砂が一年間のお参りに減ってしまう。

それを補充するのが目的の砂撒きの砂は神社の山にある山土を掘りだして撒いているそうだ。

川砂でなく山土であった宮津の砂撒きは12月30日か大晦日の31日にしているようだ。

神社境内に砂は撒くが、民家はどうであろう。

それも聞いてみた。

結果はお家に撒く家もあったという。

それがいつしか撒いた砂に滑って危ないという話しになってどの家もしやんようになったという。

安全性をとったのかよくは覚えていないともいう。

当時は舗装した集落の道にも撒いていたそうだ。

家でしていたころもそうだが、砂撒きはどこでも円形に撒く。

箕に砂を盛って人がくるくる廻りながら砂を撒くから半月形。

ぐるりと一周したら円形になるという。

もっと詳しいことはこの本を見ればわかるだろうと見せてくれる。

一冊は昭和59年10月に京都府立山城郷土資料館が展示図録として発刊された『祈りと暮らし』である。

もう一冊は京都府教育委員会が昭和50年3月に発刊した『京都の民俗芸能』である。

宮津に関係する記事は『祈りと暮らし』に「オンゴロドン」がある。

『京都の民俗芸能』は白山神社の「朔日講の神楽」だ。

「オンゴロドン」とは不思議な名称であるが、すぐにわかる。

「オンゴロドン」は奈良県内でもその名でいう人は多い。

特に80歳前後の高齢者からよく聞いた「モグラ」のことである。

「オンゴロドン」は地区の子どもらが藁棒で地面を打って「オンゴロ(モグラ)」を追い払うという行事である。

奈良県内行事でいえば亥の子の槌打ちと同じような行事である。

『祈りと暮らし』に記載してある「オンゴロドン」の詞章は「オンゴロドン ウチニカ ヨコヅチドンノ オンマイジャ オマケ オマケ オマケ」とあった。

「朔日講の神楽」はK夫妻が話す形態以上に書いてあった。

付記するならば「太鼓・鼓に大小のミョウハチ(鐃鈸)」である。

毎月の1日(現在は第一日曜)であるが、4月は3日の行事に、10月は17日のマツリに行われるようだ。

また、16日のヨミヤには各戸を一軒、一軒巡って神楽を舞い、鈴をいただかせる風習があると書いてある。

宮津の神楽については何の伝承もなく、僅かに太鼓の胴に「文化四甲戌年(1807)と見えるだけだと書いてある。

ところが、だ。文化四年は「丁卯」。

「甲戌」年はあり得ない。

「甲戌」年であれば文化十一年(1814)が正しい。

拝見できる機会があればどちらが正しいのか確かめてみたいものだ。

Kさんはかつてしていた行事の在り方を思い出した順にいろいろと教えてくださる。

断片的情報であるが列挙しておく。

正月やマツリの日に供える魚に生きた鯉がある。

鯉は三尾。

宮守さんは烏帽子を被って袴を着用する。

マツリの日は朱智神社の宮司を迎えて行われる。

朱智神社は京田辺市の天王の地にある。

朔日に神楽をあげる。

祝詞をあげるときに神楽をあげるそうだ。

正月もマツリの日も朔日神楽をする。

長老にあたる人が鈴舞いをする。

お日待っちゃんがある。

オンゴロドンもある。

ナワで庭を打つ。

集落各戸を巡る。

成人の日の前日の1月14日の晩に巡る。

オンゴロドンをして宮さんにくる。

そこで左義長のように燃やす。

来年の平成29年は1月8日若しくは日曜になる。

巡るのは小学生の男の子。

子どもが少なくなったら幼稚園児も加わってしている。

門松立ては8人の宮守がする。

一番若い人で50歳代。

昔と違って若返ったなどさまざま行事情報である。

話しは盛り上がって氏子総代の母屋のMさんを呼び出してもくれた。

K家を訪ねる前に神社で拝見した12本の幣はいったい何なのか、聞いてみた。

小社の真ん前はなにもないが、左右横と裏側にそれぞれ4本の幣がさしてあったこの小社は何なのか。

神さんの名は「サセコサン」と呼んでいる。

「サセコサン」は一体何の神さんなのか、わからないが、1月10日に行われる宮守8人衆のうち、一番長老になる村神主が引退するときに幣を立てているという。

長老の村神主は一年ごとに年齢が繰り上がって、その日を境に引退する。

そして二番目の年齢にある人が継いで村神主を務める。

年齢は年々に下って今では一番若い人で50歳代。

いずれは30歳代に下ることになるという。

さらに下ればどうされるのか。そのときは引退した経験者。

つまりは高齢の年長者に戻す可能性もあるという。

もう一つきいておきたい石製作りの社である。

それは山の神。

4月の第一日曜日は本社、末社以外に山の神も参って神楽を舞うという。

もう一つ聞いておきたい民俗にローソクがある。

そう、あの山盛りのようになった蝋である。

そのローソク灯しは毎日。

それだけに山盛りのようになったということだ。

毎日のローソク灯しに燈明箱がある。

かつてはその燈明箱を神社にもっていって灯していたが、今は簡便にということでローソクだけをもっていっているようだ。

宮津の年中行事の話題は尽きない。

正月の飾りに稲穂・根付きのもち米を供える。

ダイコン、ニンジン、マツタケ転じてシイタケなってはいるがカチグリもある。

たくさんのお供えは神さんに捧げる。

その際、息がかからないようにサカキの葉を口に銜えて奉納する。

宮総代も兼ねる現在の氏子総代は65、6歳あたり。

任期は2年間。寺は寺で檀家総代もある。

Mさんは撒き砂と呼ぶのが正しいのかどうかわからないが、昔は年長の村神主一人でしていたそうだ。

今は8人が揃ってする共同作業の砂撒き。

その日は門松立てやしめ飾り作業もある。

細いが注連縄を結ってウラジロを飾る。

注連縄は七・五・三の順に垂らす簾型。

縄は結いやすいモチワラになる。

その翌日の大晦日の31日は御供配りがある。

半紙に籾だねのお米を入れて各戸に配る。

宮津の年中行事情報は溢れるほどに多い。

実際は見てみないとわからない。

少しずつ寄らせてもらいたいと伝えたら、先に拝見した2冊の本を貸してくださった。

(H28.12.10 EOS40D撮影)

木津川市加茂町木津宮ノ裏御霊神社の砂モチ

2017年08月13日 08時46分02秒 | もっと遠くへ(京都編)
この日は前月の下見の際に伺ってわかった南山城村北大河原の山の神行事の取材。

その行事が始まる時間帯は午後5時。

撮影並びに取材にあたっては主催者の了解も得なければならない行事である。

その時間がくるまでに拝見しておきたい神社の在り方。

場所は京都府木津川市の木津宮ノ裏に鎮座する御霊神社である。

同行している写真家Kさんが今年の夏にここを通りすがりに見た情景をもう一度見てみたいと申し出られてやってきた。

それは境内中央に見られた砂モチである。

高さも広さもある砂モチ。

頂点には一本の青竹を立てている。

おそらく幣があったのではないだろうか。

京都の神社ではこういう三角錐形の砂モチがまま見られるようだ。

ぐぐってみたネット情報に京都の上賀茂神社の一対の「立砂」があった。

そのネットに解説文がある。

「神様が降臨された神山をかたどった立砂。ここがパワースポットだと言われています・・・云々」とある。

依り代の形であるが、民俗的要素の説明はなく、これはパワースポットであるという印象面を伝えている。

他のネットには上賀茂神社の「立砂」は清めの砂とある。

神社は京の都から見れば鬼門の方角。

その意味をもって建てられた神社に売っている砂を裏鬼門に撒けば厄祓いになるとか・・・。

ちなみに上賀茂神社の「立砂」には数本の松葉を立てているようだ。

左は3本。

右が2本とある。

立砂は上賀茂神社以外にも京都の神社にあるのか、ないのか。

調べてみれば京都市内の西加茂大将軍神社が一つ。

二つ目に京都市左京区にある白雲稲荷神社。

三つ目に宇治上神社が見つかった。

では、奈良県ではどうか。

私の知る範囲内であるが、同じような形の上賀茂神社がいう立砂。

あるところでは盛砂と名で呼ぶこともあるようだが、県内事例に形は同じであってもその名で呼ぶこともなく、依り代、神籬とも示さず、単に砂モチである。

参拝にきた人たちが靴底につけて持ち帰る。

あるいは雨に流されて境内の砂が少なくなる。

それを補充する意味合いに正月前に砂を運んで補充しているのだ。

一例にすぎないが、大和郡山市の小泉神社の奉納砂モチが理解しやすい。

そんなことを思いながら木津御霊神社を拝見していたときに気づく座小屋。

立派な建物は中央拝殿から見れば右、左にある座小屋が気にかかる。

扉もなく開放感がある座小屋に上がれる人数はどれくらいになるのであろうか。

座る位置は指定されている。

それを示す座の木札を列挙する。

「永楽座」、「天明座」、「神楽座」、「末広座」、「高砂座」、「住広座」、「末吉座」、「翁座」、「寿老座」、「末永座」、「天勢座」、「老栄座」、「天栄座」、「扇座」、「相生座」、「安永座」、「泉座」、「八千代座」の18座はそれぞれに長寿の意味があるように思えた座名である。

もう少し神社を巡ってみよう。

高灯籠のように思えた石灯籠に年代記銘がある。

「安永二年(1773)巳正月」とある。

拝殿右に昭和59年2月に建てた「昭和造営記録」記念碑がある。

もともとはここではなくニュータウン造成工事に伴う移転遷座によって当地に遷った。

石灯籠はかつて元社にあったものと推定される。

(H28.12.10 EOS40D撮影)

貰い物の手造りコンニャク

2017年08月12日 09時42分21秒 | もらいもの・おくりもの
地蔵盆に奉納するシンコを作っていたご婦人がいる。

この年に訪れた向丹治の住民である。

先代が作った木枠に型押しをして色付けをする。

その場で話していた毎度の祝いのときに柿の葉寿司も作って神社の夏祭りに供えるということであった。

この日は山の神が行われる。

その日に伺おうと思って一枚の写真を持っていった。

始まる前に訪れた家は呼び鈴を押しても出てこられない。

諦めて山の神行事を取材した。

それから2時間も経過する。

お出かけであれば戻っているかもしれないと思って再訪問。

付近に車を停めようとしたときにご婦人が戻ってこられた。

ラッキーな時間だった。

ありがとうのお礼に先日に作ったコンニャクを持って帰らんか、である。

自家製のコンニャクは歯ごたえがまったく違う。

十年以上も前に味わったことのある自家製コンニャク。

よばれたのは黒滝村の道の駅だった。

口のなかで歯ごたえコンニャクの記憶が残っている。

ご婦人が作ったコンニャクは蒟蒻玉を買うことからだった。

いろんな作物を畑で栽培しているが、コンニャク玉はない。

育てるには3年もかかる。

玉の大きさからいって3年物が好まれる。

そうなのよと目の前に取り出してくれた蒟蒻玉はまさに3年もの。

大きさでわかる。

玉から自作するには3年以上も待たなければならない。

3年間も悠長に構える時間はないと判断されて売り物を買った。

それで作った試しのコンニャク作り。

茹でて潰すことから始まるコンニャクはアクが強い。

茹でただけならエグくて食べられるもんではない。

それを解消して凝固するには道具が要る。

一つは消石灰や灰汁(藁灰・木灰の汁)である。

いまどきは消石灰や灰汁ではなく、炭酸ナトリウムとか炭酸ソーダを使う人もいるらしい・・。

ご婦人が作ったコンニャク作りにもう一つの道具があった。

消石灰でもなく、炭酸ナトリウムと、炭酸ソーダでもない。

キハダである。

知り合いの製材所から入手したキハダ(ヒノキ材であろうか)をアク抜き・凝固剤として利用したという。

味比べは二種類ないとわからないだろうと云われて二品を受け取った。

ありがたい貰い物は今夜のおかずになった。

料理をしたのはかーさんである。

皿に盛った二種類のコンニャク。

右は成形して作られた石灰アク抜きのコンニャク。

左はキハダを利用したコンニャク。

成形はせずに手で握って丸く固めた。

造りで食べるのが一番と考えて辛子酢味噌でいただく。

石灰で作ったコンニャクは舌触りが良い。

ザラザラ感もあるし、つるっと感もある。

食べなれているスーパーで買ったコンニャクとはまったく食感が違う。

スーパー製品はツルツル感だけである。

エグい感はないが、独特の味がする。

その点、自家製のコンニャクはエグ味もなくさっぱりしていた。

これは美味いと云ってパクパク食べるかーさん。

もう一品のキハダで作ったコンニャクもいただく。

よく似ている食感であるが、堅さが違い。

歯ごたえたっぷり感のあるコンニャクである。

味はそれほど変わらないように思ったコンニャクは自然食品。

味気はないが辛子酢味噌に交わって旨いのである。



かーさんはそれだけでは物足りないと考えてラ・ムー京終店で買ったワカメ入り天ぷらと炊いた。

こちらのコンニャクは石灰コンニャク。

造りでは柔らかかったが、煮物にすれば堅くなる。

シコシコ感があって、炊いた出汁が混ざって一層美味しくなった。

(H28.12. 7 SB932SH撮影)