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小説 人生の最終章(18)

2007-06-06 13:55:11 | 小説

22

 一ヵ月後、香田の小説は出来上がった。けいにメールを送った。
「けい、元気にしているかい。小説が出来上がったので、メールに添付して送るよ。けい、会いたくて仕方がないよ。だめだろうか?         順一」
けいからの返信
「順一、受け取りました。ゆっくり読ませていただきます。
順一、あなたと過ごした時間は、私にとって、再び青春を取り戻し心から一人の男を愛し、そして愛された女として生涯忘れません。幸せだった日々をありがとう。
では、お元気で                         けい」
 マウスを握る香田の手は震えていて息苦しかった。涙が止まらなかった。いつまでも。香田はメールを再返信しようとしたが、すでにアドレスはなくなっていた。

 それから時間は駆け足で過ぎていって、けいと別れてから五年が経っていた。けいを完全に忘れることは出来ないが、時間はそれを薄めてくれるようだ。香田のいつもの日課、午前中のウォーキングを終え昼食のあと、パソコンを起動した。
いくつかのメールの中に、村上めぐみから来たのを見つめた。メールには
「香田順一様 突然のメールでさぞ驚かれたでしょう。実はお伝えしたいことがありますので、ご迷惑でなければ、私の家にお越しいただけないでしょうか。
 ああ、気を回さないでくださいね。お友達としてお伝えしますので。自宅は京葉線の検見川浜駅の近くのマンションです。駅にお着きになったらお電話ください。お迎えに参ります。電話○四三―二七○―六二××
ご返事お待ちしています。              村上めぐみ」
 香田は苦笑した。キャンプを一緒に楽しんだころは、確か歳が五十四と言っていたように思うが、だとすると六十に近いことになる。それなのに気を回さないでなんて、まだお色気が一杯なんだろうか。

 もともと京葉線は、貨物専用線だったのを、京葉地帯の開発が進み、幕張副都心が出来て、通勤の列車を走らせるようになった。検見川浜駅周辺も団地やマンションの建設が今でも続いている。その中の一角にあるマンションに村上めぐみは住んでいる。
 晴れて気持ちのいい陽春の午前十時、香田は駅に着いた。教えられた電話番号を押して待った。数回のベルでめぐみが出た。
「はい、村上です」
「香田です。今着きました」
「じゃあ、十分ほど待ってください。自転車で参りますから」
その辺をぶらぶらと見ながら時間をつぶしていると、後から「香田さん」と声がした。振り返ってみると、なんとTシャツにブルージーンズ姿のめぐみが、自転車を押しながらこちらに歩いて来るところだった。
 あのキャンプに行った頃とまったく変わっていない。上げ底かもしれないが、胸は豊かでかなり飛び出しているように見える。ウエストもくびれてジーンズのヒップもまるで若い女性のようだ。
「わざわざすみません。わたしのところは歩いて五・六分です」と言って先に歩き出した。香田はめぐみのヒップが左右に揺れるのを眺めながらついて行った。
 エレベーターを十階で降りて、一○○五号室の海の見える3LDKに招き入れられた。マンションの間取りと言うのは、どこもよく似たもので、危うくけいのマンションと錯覚しそうになった。香田をリビングに案内して、キッチンに消えた。そしてキッチンから声がした。
「香田さん。お茶とかコーヒーを差し上げてもいいけど、今日は少し暑いようなので、ビールはいかが?」
「いいですね。丁度喉か乾いていたところですよ。ありがたく頂戴します」
香田は窓によってきらきらと輝く海を見ていた。いやでも、けいが思い出される。物思いにふけっていると、めぐみが
「お待たせしました」と言って瓶ビールとグラス二個、それにチーズを添えてテーブルに置いた。ビール瓶を持って香田に「どうぞ」と勧める。香田が受けて、今度は香田がめぐみのコップに注ぐ。
「それじゃ、いただきます」よく冷えたビールが喉を流れ落ち泡が上唇についた。
「チョット失礼して、着替えてきます。自転車で走ったものですから、汗がべたついて」
香田はビールを継ぎ足してゆっくりと飲んでいた。浴室の方でシャワーの音がしていた。昼間に飲むビールの酔いは早い。ほろ酔い気分になって、ビールが殆ど空になりかけた頃、めぐみが現れた。
 香田は目をぱちくりとしていた。白のTシャツでノーブラの乳首やふくらみがいやでも目に入る。それに短パンで筋肉質の太ももがあらわになっている。参ったなあ。これじゃあ落ち着けない。めぐみはそんな人の思いも知らん振りで
「あら、ビールがないですね。取ってきます」といってキッチンから持ってきた。
「どうぞ。ご遠慮なく」といって勧めてくる。香田もさあどうぞといって、差しつ差されつで、冗談も飛び出すようになった。頃合を見計らって
「で、村上さん。お伝えしたいとおっしゃっていましたが?」と水を向けた。
めぐみは大きく息を吸って
「あのう、落ち着いて聞いてくださいね。ハッキリ言います。けいは亡くなりました」
香田は自分の耳を疑った。聞き間違いであって欲しい。
「亡くなった? 死んだと言うことですか?」当然の事を聞いていた。
「ええ、その通りです」
香田は呆然として前方を凝視していた。めぐみが香田の隣に腰を下ろして肩を抱いた。
香田にはめぐみに抱かれているのも感じていなかった。みるみる涙が頬を伝わり、香田のズボンを濡らしていった。めぐみは香田の肩を抱いてじっとしていた。
しばらくして、落ち着きを取り戻した香田が「すみません。取り乱しちゃって」といってめぐみを見つめる。
「いいんです。私もけいとお友達だったので、辛くてしばらく落ち込んでいました。それで香田さんに連絡が遅れて申し訳ありません」
「いえいえ、そんなこと気にしません」
「どうでしょう、詳しくお話してもいいですか。大丈夫?」
「大丈夫だと思います。どうぞ話してください」めぐみが話し出した。
「亡くなったのは、一ヶ月ほど前です。肺がんでした。分かったのは二年ほど前になります。いろんな治療をしたようですがだめだったのです。
彼女は香田さんから貰った小説をいつも読んでいました。亡くなる前はもうぼろぼろになっていました。それでも彼女は捨てませんでした」
 ここで香田は感極まって泣き出した。大きな声で肩を震わせていた。めぐみはそっと席を立った。キッチンでめぐみも声を押し殺して泣いていた。ようやく治まった香田は、周囲を見回した。めぐみはいなかった。喉が乾いていて水が飲みたくて、キッチンに行った。そこにめぐみが肩で泣いていた。
香田はめぐみを振り向かせて抱き、背中をさすった。めぐみは顔を香田の胸に押し付けた。ふくよかな胸が感じられた。
香田はめぐみをリビングのソファに誘導して座らせた。並んで座り「まだ、何かお話しがありますか?」と訊ねた。ええ、と言って話し出した。
「けいが身を引いたことは彼女から聞きました。彼女が決めたことだし意見を求められることもなかった。私たちは仲のいい友達で居ようねと約束しました。
時折、心ここにあらずと言う風情で、ぼんやりと遠くを見ることもありました。おそらく香田さんのことを思い出していたんだと思います。そして、咳がよく出るといっていました。
 息子さんに強くすすめられて病院に行ったのです。闘病生活の始まりでした」めぐみは言葉を切った。
「あら、飲み物がないわ。取ってきます」ビールを持って戻ってきた。香田の横に座った。まるで指定席だというように。そしてビールを注いだ。香田も大声で泣いたせいか、喉が渇いていて美味しかった。
 再びめぐみが話し始めた。「これからのお話しは、チョット話し辛(づら)いのです。けいとの秘密の話ですから」と言い淀む。
「いや、どうしても聞きたいとは言いません。しかし、けいと言う人をもっと知りたいのです。恐らくけいのことだから、話したからといって〝めぐみとは絶交よ〟とは言わないでしょうね」と冗談っぽく言うと、めぐみは頷いてにっこりと笑みを見せた。めぐみも歯並びがきれいだった。
「けいの話でもあり、私の話でもあるんです。病状が進行していたある日お見舞いに行きました。その時けいが唐突に言うのです。〝めぐみ、わたしね。香田さんから頂いた小説、小説と思ってないの。私にとって、長い長い恋文だと思って、毎日読んでるの。素敵な恋文だわ。
夫は女の悦びを教えてくれた。香田さんはそれを一段と高め、気が狂うほどの
悦びをくれた。私は二人の男性から心から愛された。幸せだわ。
で、あなた香田さんに強い関心があったんでしょう? キャンプやサイクリングのときの仕草で分かるわ。女の直感なのね。
 ここに香田さんの名刺があるわ。ブログも書いてらっしゃるから見てみれば? だからこれあなたにあげる。秘密にしてね〟だったんです。
私なりに解釈しました。自分が生涯を閉じたら、めぐみが香田さんに知らせてくれるだろう。それにめぐみが個人的に接触するのもかまわないと」あらためて香田は、けいの人間性に感動を覚えずにいられなかった。香田の目が潤んで涙が一筋流れた。めぐみが親指で、香田の両目の涙を拭いた。二人は見つめあった。香田がそっと唇を重ねた。


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