猫とマンガとゴルフの日々

好きな物を題名に↑ 最近はゴルフとグルメお出かけ主体に。以前は1960年~70代マンガを紹介していました。ネタバレ有り。

少年のための 「マンガ家入門」 石森 章太郎(当時)

2006年12月18日 11時41分33秒 | マンガ家名 あ行
          出た当時、喜んで買いました。

     秋田書店 刊 1965年8月15日初版 これは1967年10月30日 刊の18版   

 しかし、マンガ家に到底なれないと分かり始めた (つまりオトナになった) 頃、処分してしまいました。何でここにあるかというと、先月 かの まんだらけ へ行った折、見つけてしまったのですね~。箱の程度が悪いので、当時の定価より100円高いくらいだったので、たまらなくなり購入。ほんとに、自分で処分しておいて買いなおすなんて、マンガファンの風上にも置けませんね。(泣)
 人にはいるものなんてほんの少しですよ、とか言っといて・・・。

 内容は、道具や道具の使い方、話の考え方など当時はこんなもの有りませんでしたから、大変参考になったのですが、今回読んでみると 第一部入門編の第2章、「マンガ家への道」 という自己紹介の部分が興味深いです。
 投稿時代や、まんが家になった後、つまり 「トキワ荘」 の前後の事が書いてあるのです。

 
 投稿者の間では既に有名だった16歳の夏、手塚先生から 「テツダイタノム」 と電報が来て上京した話とか、福井 英一氏(イガグリくんの作者) が亡くなった時、親友の手塚氏からヨレヨレのハガキをもらって、仕事に殺されたようなものだと書いてあったとか、デビュー作の 「二級天使」 のこととか、当時の様子が分かります。
 高校を卒業し、世間知らずにも大学とまんが家を両立しようと (後でやはりだめだと思い知らされます) 不安を抱いて東京へ出てきて、西新宿の二畳半の部屋へ下宿したとあります。ところが唯一の頼りの 「漫画少年」 が廃刊となり、早くも後悔し始めた頃に届いた母と姉の手紙とお金の有り難さ。
 再びお金が底を付き始めた頃、「少女クラブ」 の編集者丸山 昭氏から救いの手が伸びて、「少女クラブ」 に新しい実験的な作品を発表し始めた事。丸山氏は少女まんがに何か新鮮な、当時は少女まんがにはタブーだったミステリーものとかを描いて欲しいということだった、と回想しています。

 正式に原稿依頼を受けた足で、石森氏は赤塚氏の下宿に直行しています。自慢したいのもあったが、一緒に喜んでもらいたかったと書いています。「トキワ荘物語⑧ 赤塚不二夫」 の巻 「トキワ荘物語 ⑧ 赤塚 不二夫」

 のように、二人はデビュー当時から固い友情で結ばれていたのですね。

 それから 石森 章太郎 選集 第2巻 「青い月の夜」 で紹介したような少女マンガらしからぬマンガが描かれていくわけですが、後に石森氏は、当時の作品は自分の能力が足りずに失敗したと言ってます。そしてそれを挽回すべく、 「龍神沼」 のような作品を描いたと・・・。

 「少女クラブ」 に 「幽霊少女」 の連載が始まるとまもなく、西落合の二畳半を出て、トキワ荘へと移ります。それからの話は 「トキワ荘物語 ①~⑪」 に詳しいですね。

 トキワ荘後の話として、寺田ヒロオに「君は10年間たいした苦労もなくマンガを描き続けられるだろう。しかしその後は才能だけでは描けなくなる。苦しい勉強をしなければならなくなる。」と言われ、まさにそのとおりでした。と書いています。
 新しいマンガを描きたいという思いのままに実験的な作品を描きはじめては途中で次の作品を描きたくなって放り出したり、絵柄を毎号変えてみたり、それでも伸び盛りのマンガ業界からは依頼が来て次々に発表していた頃。考えれば、商業雑誌で実験をするなんてもってのほかでした。ボクはあまりにも早くマンガ家になり過ぎたのです。そうこうしているうちに10年目が目の前に迫り、逃げ出す為に世界一周旅行に出た石森氏。しかし帰って来たとたんにスランプに陥り、脱出するのに1年半もかかったと、そして、ときおり立ち止まって周囲を見回す事だ、と書かれています。それからこの本の出された当時(1965年)の忙しい情況などを紹介して、

 ひとりのマンガ家の才能には、限度がある。気をつけよう。

 と終わっています。本当はこれからいよいよ忙しくなっていく石森氏ですが、当時の石森氏の考えていたこともわかって面白いですね。
 
 
コメント (6)
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