猫とマンガとゴルフの日々

好きな物を題名に↑ 最近はゴルフとグルメお出かけ主体に。以前は1960年~70代マンガを紹介していました。ネタバレ有り。

伊東 愛子 「先生に異議あり!」 画像のみ

2007年11月13日 09時08分55秒 | マンガ家名 あ行
 11月7日の記事の中で書いた伊東 愛子さんの代表作、「先生に異議あり!」
画像だけですが、有ったのでアップしておきます。


 連載中にしっかり読んだことはないんです。ブックさん、mikiさん、読んでたらお話教えてください。

 今日は取り急ぎこれだけで失礼します~~

 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

箱根の紅葉

2007年11月12日 10時06分41秒 | お出かけ・旅・美術・博物館
 もう2週前になってしまいましたが、箱根に行った時に見た紅葉です。これはポーラ美術館の入り口に下りるエスカレーターの降り口から見た景色。ポーラ美術館は近隣の自然及び景観に配慮して、崖地に沿って建てられていて、建物が見えないように建てられているのです。

 ポーラ美術館HP → ポーラ美術館トップページ

 今の 2007年9月22日~2008年3月23日 期間は 「モネと画家たちの旅 - フランス風景紀行」 という企画展をやっています。他にもポーラらしく化粧道具の特集の部屋とか前に行ったときは髪飾りの特集とか、東洋陶器の部屋もあって箱根に行くたびに行きたくなる美術館です。
 企画は半年に一度づつ変えているようです。箱根の美術館はそうしょっちゅうは行けないけど、半年に一度なら東京から近いので、私のように会社の山荘とかあると行きますからね。レストランも素敵よ。

 箱根でやったバーベキューの写真をアップしようと思ったら、たいした写真がなくて・・・。


                   

 
 真ん中のは牛タン、この後に焼いたステーキが圧巻だったんだけどねぇ~写真撮ってなくて・・・。食べるのに夢中で撮るの忘れるんだよねぇ~~ あれ 誰かさんも同じこと言ってたな。
 奥に見える銀紙の中身は新鮮イカのワタ和えを味付けなどしないでホイル焼きしているところ。イカッ喰いの私とだんなでほとんど食べたという美味でした。

 最後に料理上手のケロロ軍曹が (笑) 作ってくれた塩焼きそばがそりゃ~もう美味しくて、お腹一杯なのに2回もお替わりなどしてしまった。
 週の初めに体調悪くして2キロほど体重が減ったのに、アット言う間に戻ったどころか1キロ増で帰ってきました。

 「短い夢だったぜ」 by「風の谷のナウシカ」 クトロア ? だっけ、ウロ。


                   


 次の朝 (昼兼用) の食卓。左の生ハム入りサラダが絶品だったな~。中央右上のハムというかソーセージ類は変わっててそのままでも、焼いても美味しかったです。黒頭が黒胡椒つき、黄色頭はチーズつき。その右のスクランブルエッグは胡椒が効いてて大人の味。


                   


 もう一つ写真暗いけど、ケロロ軍曹お手製ロールキャベツ。タッパーに入れて持ってきてくれました。スープが絶妙な旨さでした。いつもお料理当番ありがとう ! 私はいつも場所を提供して、(それも山荘は会社所有だし) 洗い物当番してます。定年まで後5年間あまり、会社の保養所を使い切る覚悟です 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ALWAYS 続・三丁目の夕日

2007年11月09日 16時11分58秒 | 映画
ALWAYS 続・三丁目の夕日 - goo 映画ALWAYS 続・三丁目の夕日 - goo 映画


 今週の火曜日に話題の映画 「ALWAYS 続・三丁目の夕日」 一人で見ました。前作の 「ALWAYS 三丁目の夕日」 はだんなと見たのですが、今回のは早く見たくてつい一人で会社の近くの六本木ヴァージンシネマズで・・へへ。

 「ALWAYS 三丁目の夕日」 の感想はこちら → 楽しみにしていた「ALWAYS 三丁目の夕日」を観に行きました

 まず、冒頭の監督の遊び心に仰天 お若いのに素敵だわ、山崎 貴監督さん 


 前作から4ヶ月後という設定で、本当の続編でした。前作を見ていないと人間関係とかが良く分からないと思いますが、公開直前に前作をTVでやったり、朝の情報番組で繰り返し映画宣伝やってたりしたので、もう国民的なお話になってるから誰でも分かるでしょ。
 しかし、協賛会社のCMも散々流れてるし、宣伝の多さにははっきり言って食傷気味。いい映画なんだからそこまでやんなくてもヒットするって 

 前作の感想でも言いましたが、日本のVFXが凄いことになってます。完成したばかりの東京タワー、日本橋などの街並みに加え、東京駅、羽田空港、こだま号などなど、50歳代以上の日本人には感受性の強い子供の頃に見聞きした風景が次々と現れては消え・・・。

 私が個人的にうわ~と思った場所は羽田空港の場面です。小学校に上がるか上がらないかの頃、母の習い事の師匠 (お能の人間国宝さんです) が外遊するとかで、弟子一同子供までお洒落させてお見送りに繰り出したことがあったのです。当時は外遊なんて見送る方も一大イベントだったんで、自分も良く憶えているんですよ。
 
 アレに見えるはYS11 ?、羽田空港 と名前を頭に並べた 旧空港ビル も当時そのままに、はしりのパック旅行の添乗員さんでしょうか、誇らしげに旗を振って旅行客を集めてるし、スチュワーデスさんの制服もあんなだったかなぁ~。それらが動いて、目の前の大画面に~~

             私は上を高速道路が走っていない日本橋 ↓  

   


 とか覚えてないし、東京タワーも見える場所に住んでいなかったので、羽田の場面が記憶と連動して一番衝撃的でした。

 前作同様、私のお奨め映画です。まっ映画館で見なくても邦画なので、半年か1年後にはTVでやると思いますが、風景は大画面の方がやはり良いので、チャンスがあったら是非見てくださいね~~。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富士見茶屋より 富士山を望む

2007年11月08日 13時45分32秒 | お出かけ・旅・美術・博物館
 写真だけ出します~。先日又会社の保養所のある箱根に友人達と行ってきました。

 近くに乙女峠という山道がありまして、中腹にぽっかり見晴らしのいいところがあるのです。そこからの富士山の眺めが超一流ということで、外人さんを乗せた観光バスも止まる名所となっております。道路の反対側には江戸の昔からある 富士見茶屋 という休憩処があるんですよ。
 11月4日の朝そこへ富士山を見に行きました。最初は富士山だけの写真を載せようと思ったのですが、大きさとか分からないし、写真としてもつまらないので恥ずかしながら自分が写っているのを載せますね~。

 しかし、寝起きで髪の毛もぼさぼさのまま連れて来られたので、顔はご容赦くださいませ~。でも猫柄のバッグは見てね~~
コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊東 愛子 「ネコの街角物語」

2007年11月07日 13時11分14秒 | マンガ家名 あ行
 
 白泉社 昭和61年8月31日 初版 初出は 愛猫家の愛読書 「猫の手帳」 1982年7月号~1984年6月号まで2年間の読み切り連載でした。


 この本は我が家の犬・猫かかりつけの動物病院のラックにある本なのです。この病院が以前の場所から今の場所に引越しする前からラックの中にあり、順番待ちの飼い主さんたちがたまに読んでいます。私もこちらにお世話になり始めてすぐに読みました。

 読み切り短編集ですがシリーズものも有り、もちろん内容は猫ちゃんたちの物語ばかり。哀しい飼い主さんとの別れの話、詩物語のような青年と猫の愛情物語、おばあちゃん・おじいちゃんと外猫の話、作者 (伊東 愛子氏) と思しき女性と近所の猫たちとの交流の話などなど、20篇以上の違った話を違った絵柄で描き分けています。
 この、毎回絵柄が違うと言うのは結構大変だと思うのですが、知らない人が月々を別に読んだら別作家と思うくらいに、シリアスタッチからほのぼのタッチ、少女漫画風にと描き分けているのは流石にプロだなぁと感心します。

 50歳代の私にとっては名前と絵柄だけ知ってるまんが家さんですが、今40歳代の方たちには 昭和52年頃 別冊少女コミック連載の 「先生に異議あり!」 の天然パーマでアーモンドの目をした少女を思い出す方も多いのでは ?

 ところが、記事を書くので調べようと、セブンアンド○イ・インターネットショッピングの伊藤 愛子欄を見てみると、 絶版または重版未定  の文字ばかり。今は絶版ばかりで買えないということなのね ! 

 昭和48年4月の 週間セブンティーン 「風にのったミオ」 でデビュー以来、別冊少女コミック、リリカ、フラワーデラックス、週間少女コミック、ララ、プリンセス、グレープフルーツと1970年代80年代には結構活躍していた作家さんだと思ったのですが。
 この方に限らず、中堅漫画家さんの本はあっという間に絶版になってしまって文庫にもならないので、好きな人のはついせっせと新刊を買ってしまうのですよね~。

 
 ところで、伊東 愛子さんは萩尾 望都・竹宮 惠子氏の大泉サロン (別名 キャベツ畑の2階屋・大泉一族の砦) にメシスタントとして売り込み、メンバーになった方で、萩尾望都、花郁悠紀子、伊東愛子、城章子、佐藤史生5名の有名な1979年8月のヨーロッパ旅行なども一緒に行っています。
 私の持っている1978年9月30日発行のペーパームーンファンタジーシリーズ 「少女漫画 妖精国の住人たち」 のアンケートの中に可愛らしい高校生のようなお顔の写真が載っています。作品もほのぼのしたものが多いようですね。このアンケートの中で手塚 治虫先生のSF 「キャプテン・ケン」 の異星人のコーラスが好きと言っているのが印象的。音楽では人の声がお好きだそうです。

 佐藤 史生さんの膨大なデータベースを発表されている方 → 佐藤 史生データベース によると、

 伊東愛子さんがはじめて人にベタを塗ってもらったのが、増山のりえさんによるもので、消しゴムをかけたのが佐藤史生さんだそうです。しかもそれが伊東愛子さんのデビュー作だったそうで萩尾望都さんのカンズメのアシストをしたときの話だそうです。

           くらくらするような豪華なデビューだ。

 今は作品は描かれていないのでしょうか ? どなたか知っていたら教えてください。
コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

企業興亡記 Ⅱ

2007年11月05日 09時50分16秒 | 仕事
 さて、企業興亡記 Ⅱ でございます。写真は多くのIT企業が集まる六本木ヒルズ、いえこの記事とは何の関係もございません。うちの会社の近くなもんで…。

 A社の場合 2.

 先代の大社長より業界トップのハイヤー・タクシー会社を引き継いだa氏、お人柄はよくは存じませんが、時はバブルに向かう頃、世間はイケイケドンドンと専業の拡大どころか、多角化経営大流行り。いやでも銀行は金を貸したがり、あれ買えこれ買えとせまる、という時代。
 
 このa氏、KO大学卒のお坊ちゃまでゴルフがお好きだったんですね…。ハンデが2というプロ並みの腕前でございました。
 自分の会社のゴルフ場が欲しいと思われたのでしょうね、常磐高速から程近く、インターからもさほど遠くない茨城の田んぼを買占め、足りないところは借地契約し、造りましたは高級ゴルフ場。

 ゴルフコンサルタントとして有名な戸○ 某氏の設計・施工、キャディーは若い女の子にチェックのニッカボッカーという可愛い制服を着せ、某氏の学校で研修を受けさせ、いらっしゃいませ~とにっこり。(私も1回行っただけですが)

 他にもオーストラリアにホテルを、ハワイではショッピングセンターを買い、社員は永年勤続記念にオーストラリアに奥様と二人で記念旅行という豪華な時も有りました。

 が…、途中は省かせていただきますが…、金利だけで年に何億という負担はバブル崩壊後には負担しきれず…、倒産や吸収合併は避けられましたが、さる投資顧問関連会社に買われ、その後外資系投資会社に転売され、創業一族は現在一人もこの会社にかかわっておりません。
 
 それなりに会社としての努力はしたのですよ、2度のリストラで社員を大幅に削減し、売れるものはホテルでもショッピングセンターでも売り、でも最後まで例のゴルフ場は別会社にして売らず、(今は外資系のゴルフ経営会社に買収。) 社長も大手銀行から迎え入れ手を尽くしましたが、名前と業種は同じながら今は前とはまったく別の会社となっています。負債は3,000億円以上だったとか。


 B社の場合 2.

 A社と同じくバブルの時代、銀行からしつこく多角化経営を薦められてもまだ現役だった先代社長のB氏は首を縦には振りません。B氏はこと新しい事業に関しては、石橋を叩いて叩いて叩き壊すような慎重な性格だったのですね。
 唯一食指が動きかけたのが、甘いもの好きなB氏がアメリカに行ったとき彼の地のスウィーツのあまりの不味さに彼の地でケーキ屋をやろうかと思ったというもの。(笑)
 それも結局立ち消えとなり、B社はひたすら建築業界で生きていきます。
 
 それはB´氏の経営になっても変わらず、B´氏は自分の趣味でポケットマネーからレストラン経営に出資はしているようですが、B社としての新規事業としては高級インテリア施工を細々と行っているだけです。これが又笑えるくらい儲かっていないようなのですが。
 あっもう一つ、建設現場に文具を届けるためにさる文具配送会社の代理店になっています。こちらはそこそこ儲かっている模様。

  いずれにしてもB社はバブル後は大成長とは言いがたいまでも、いまだ無借金で社員も増え、支店・営業所も20近くを数え、工場も10近く持つ業界2位の会社として存続しています。
 

 私は、個別の会社や社長の悪口とか、褒め言葉とか言うつもりは無く、又多角化経営がどうとかも言える立場では有りません。事実多角化で現在立派に創業時の業種を上回って大きくなっている会社も有りますし。
 んっ ? なにやら似た会社を知っていると言うあなた、こんなこと、あんなこともあったろうと言う私の作り話でございますよ~。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

企業興亡記 Ⅰ

2007年11月01日 16時07分49秒 | 仕事
 ご無沙汰しておりました。前から書きたかった事を書きます。まんがのことではありませんが、暇つぶしにでもお読みになってみてください。
 なお、以下に書きますことは自分の聞きかじり、又聞き、などによるもので事実とは反することもあると思います。創作としてお読みください。


 ここに二つの企業が有ります。業種も会社の成り立ちも違うこの企業ズ、仮にA社、B社としておきましょう。会社は違っても、多くの会社の創業者がそうであるように、二つの会社の創業者にも共通点が多く有ります。ひとつはアイデアマンであるということ。

 

 A社の場合 1.

 A社の創業社長はA氏。彼は戦前本州の真ん中の山の中の故郷から東京へ出てきて、タクシーの運転手から身を起こし、終戦時は小さなタクシー会社を経営していました。
 折から戦後の恐慌期、東京には米軍が乗り込んできて土地など強制接収されるという噂が流れ、東京の土地は二束三文で売りさばかれるという時期がありました。

 そこに目をつけたA氏、赤坂や青山、日本橋など都心の一等地を買って平地 (ひらち) のタクシー・ハイヤー駐車場にして、会社を広げていったのです。
 同じ事をしたのはA氏ばかりでなく、日本橋の地主の 三○、丸の内の地主の ○菱、新橋・虎ノ門の も○ビル など戦後の混乱期に東京の土地を大量に買った大企業もいくつか有ります。皆が都心を見捨てて逃げるとき、人の反対をすれば儲かる、というのはなにやら 株のことわざ のようですね。(笑)

 さてまた、GHQが自分達の使いやすいようにタクシー会社を4社に大同合併させた折も、(中小の会社を4つにグループ分けした) あるグループの盟主となり、順調に業績を伸ばして行きました。
 途中やり手のO専務が、出る杭は打たれる習いで会社を飛び出して同業を始めたりとかの造反も有りましたが、見事業界トップの座に君臨するまでになったのです。

 ちなみにA社を飛び出したO氏は、後に○ッキード事件で注目を浴びた政商の○佐野賢○氏です。
 彼の会社のバスは私の地元の方で幅を利かせており、子供の頃はバスは全部 都バスか国○興業 なんだと思っていました。今でも緑のカラーで走ってますよ~。

 社長のA氏は現場叩き上げらしく、事前に告げずにちょいと各営業所に顔を出し、気が付いたところをすぐに直してくれたり、現場の意見も聞いてくれる気安い人だったそうです。
 平地の駐車場にしていた都心一等地も高度成長期にはビルを建てて、運送業というより大手不動産業のよう、中小のタクシー・ハイヤー会社も吸収合併して、いよいよ会社は成長を続けて行く中、A氏に不幸が訪れます。それは次期社長にと期待をかけていた長男A´氏が30代の若さで亡くなってしまったことでした。

 悲嘆にくれながらもA氏は次期社長に妾腹の次男のa氏を立て、自身は昭和56(1981)~57年頃に亡くなりました。


 B社の場合 1.

 B社の創業社長はB氏。実はB氏の父親が故郷四国の漁港で漁師相手に漁具を売ったり貸したりしていた会社が元々あったので、本当の創業者ではないのですが、現在の業種にし、四国の田舎から大阪に出、又東京に進出して来たのはB氏なのです。

 B氏も戦後都心といえる土地に本社の土地を取得し、小さいながらも建設資材をリースする会社を経営していました。東京に進出してきた初めは、故郷の名士を同郷というだけで突然訪ねて紹介をお願いしたり、社長の奥方は会社で炊き出しをして社員にご飯を食べさせたりといろいろな苦労があったようです。

 高度成長期には建物のリースという新しいアイデアを採用し、これが又時代の趨勢にあったものかいよいよ成長し、A社同様、建物のリースのアイデアを出した元常務が飛び出して同業を始めるなどという事件も有りましたが、こちらも業界2位の地位を確保する大躍進となりました。また、B社の自慢は創業以来無借金の優良会社ということです。

 B氏は小柄で人懐こい笑顔が印象的な憎めない性格で、同郷というだけで頼って行った故郷の名士たちにも可愛がられ、カバンを肩に日本中の支店・営業所を疲れも知らず行き来して社員にも大変人気が有りました。それは頼りになる親分気質のカリスマ性というよりも、無邪気で私欲の無いこの人の為ならばという 長嶋さん 的な人気だったかも知れません。

 実質創業者として人気があったB氏の長男B´氏は大学卒業後、地元名士の中でも有名な、太平洋戦争最後の参謀と言われ、当時大手商社の役員をしていたS氏の元で帝王学を叩き込まれ10年後B社に入社、何年かの後B氏が亡くなったので、2代目社長として会社を背負っていくことになりました。

 このS氏、山崎○子氏他、あまたの小説のモデルとなり、晩年TVで自らの人生や日本のこれからについて語り、先頃9月に95歳で亡くなられて話題になったのでご存知の方も多いかも。

 B´氏はB氏の次男とB氏の性格を分け合ったようで、可愛げは次男へ、細かいところは長男であるB´氏の方へ行ったなあとか、又、帝王学と言ったって、机上の空論ばかり言って現場を知らないじゃないか、などと陰口を言われながらも父親が大きくした会社を潰すわけに行かないと慎重に会社を運営し、バブル崩壊後も業界2位を不動のものにしています。
 
 さて、長い文章になってしまいました。パート2.は次回に致しましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする