都市と楽しみ

都市計画と経済学を京都で考えています。楽しみは食べ歩き、テニス、庭園、絵画作成・鑑賞、オーディオと自転車

「京都」の誕生(桃崎有一郎):京都を院政の武士の動きから分析、内容が散漫だが楽しめる

2020-10-17 02:57:23 | 京都

 「平安京はいらなかった」の著者、現在は高千穂大学商学部教授で歴史ではない。語り口はフランクで摂政から院政に変化し武士が勃興した時期の京都を対象に分析するが、面白いがムラがある。知見は:

・平安京は騎射のできる群盗が多かったが、朝廷は取り締まれない。更に皇族や貴族は免罪特権があり、法を破った。自警もあった。

・検非違使は少なく、群盗は山崎、淀、大井(堰)の津に拠点を構え京都を襲う

・武士は京都の血を受け継ぎ、地方で育つ、9世紀宇多天皇が滝口節を設置

・平将門( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E9%96%80 東京に首塚もある)は京都に晒し首の第一号。洛中で受け取った首を囚人に持たせた鋒(きっさき:鉾)の先に刺し名札とともに洛中に行列でパレードした(後醍醐につながるなら楠公 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E6%88%90 も重要だ)

・院政は好き嫌いで行う利権まみれの政治→その前の摂関もそうだったとおもうが、暴力の歴史ならピンカ―を読んだ方が良いのでは

・藤原道長の法成寺を作り、白川天皇(院)も法勝寺(八角九重塔:現在は動物園の観覧車がある)で鴨川東側を開発、鳥羽殿で南も開発:京都(秩序:平安京)+君臨の場(鳥羽)+極楽往生の場(白川)に京都は進化

・天下は京都、天である天皇の在所、または近畿→このあたりは言い切っていない

・流鏑馬の語源が不明、院政の国家的練武になぜなったか→着眼が面白いが、次は鉄砲か、モンゴルの中国制覇も騎馬と弓だった

・京中仏閣禁止令のため、作るなら「堂」と名付けた、六角堂もこの時期、聖徳太子が平安京前に作った事実はない

・阿弥陀如来が死の克服として、自分の阿弥陀堂建設が流行、平等院鳳凰堂

・「本地(仏)垂迹(化身)」で神社と寺の嗷訴(強訴:天皇へのデモ):神輿振り(現代の神輿の祭りと同様)、神輿の放置(手を出せない)、呪詛

・白川院政では、山門(延暦寺など)の嗷訴、嗷訴を神の意志にしたて、精神的・物理的な暴力化、天皇の指示で武士が嗷訴に戦う段階に進化

・平家の八条殿、東に美福門院・八条院、源氏は六波羅、南に法住寺殿(新日吉社と新熊野社も設置)

 確かに、武士により京都の外周は変化した、しかし京都の成長は治水や病疫とあわせ人口拡大、つまり、産業振興でGDP成長があったからだ、政治だけではない

 産業と暴力の歴史をさらに探るとよい

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