前回、
トリエステのカフェ「サン・マルコ」に言及しながら説明が無かったことに後で気付きました
あわててピンボケ写真を探し出しました
カフェ「サン・マルコ」については
イタリア語のほか
英語と
ドイツ語のウィキ記事があります。
サン・マルコに入った途端、ウィーンの伝統的カフェハウスに入ったような錯覚をおぼえました
内装、雰囲気、そしてコーヒーに必ずお水が付いて小さいお盆で出されるところもウィーンそっくり。
いや、そもそもトリエステという街がウィーンに似ているのです。
トリエステが最も繁栄したのはハプスブルク王朝時代末期。
当時は
オーストリア=ハンガリー帝国最大の海港で、軍港であり、貿易港としても栄え、ウィーンと張り合っていたのです。
トリエステの数奇な運命については以前に
復帰と言う名の転落で簡単に紹介しました。
王朝時代、隆盛を誇ったトリエステにとってイタリアに「復帰」したのは幸せな選択だったのでしょうか?
しかしゲルマン、スラブ、ラテンという3つの文化圏が出会う微妙な位置にあるトリエステが、第一次世界大戦で
ハプスブルク王朝が崩壊したあと、アルプスの小国へと転落したオーストリアに一部として留まることは不可能だったと思います。
例えば、現状での
パレスチナと
ガザ地区のような状況も考えられます。
事実、第二次世界大戦後の一時期は、イタリアと
ユーゴスラビア(当時)の間で取り合いとなったのです。
ローマやミラノなどからは「イタリアの辺境地」と見られるトリエステですが、やっぱりイタリアに帰属したことは最終的には正しい選択だったと思います