パリのノートルダム火災から1ヵ月経ちました。必ず見事に再建されると信じて疑いません
第二次大戦末期、ウィーンのシュテファン寺院も焼けました。
燃えるシュテファン寺院
鎮火後の内部
これまで私は、シュテファン寺院が焼けたのは爆撃か砲撃によるものと思っていましたが、改めてウィキを読んで、全く違う事実を知りました。
今頃になって漸く・・・
戦争中から戦争末期にかけて、多くの空爆や砲撃にもかかわらずシュテファン寺院は殆ど被害を受けることなく終戦を迎えようとしていました。
1945年の4月といえば、大勢は決しており、ナチス・ドイツの敗戦は時間の問題でした。
また、ウィーンでの市街戦を避けるため、反ナチスのレジスタンス・グループも活発に地下運動を進めていました。そうした文脈からは、ある意味当然ですが、1945年4月10日、シュテファン寺院の塔に、降伏を意味する白旗が掲げられたのです。
ウィーン市管轄の司令官は、シュテファン寺院と周辺を管轄していた将校に、手榴弾100発でシュテファン寺院を完全に焼失させるよう命じたのです。100発で足りなければ、更に砲撃を行えという命令でした。これは狂気の沙汰です。シュテファン寺院のような貴重な文化遺産は保存すべく最大限努力すべきもので、しかも歴史的な教会建築をひとつ焼失させてもナチス・ドイツの敗戦は覆りません。白旗が掲げられたというだけで、シュテファン寺院を連合軍と思い込んだのでしょうか。
しかし、シュテファン寺院と周辺を受け持っていた将校ゲルハルト・クリンキヒトは、この命令を実行しませんでした。命令不服従は発覚すれば銃殺刑に違いありませんから、この人は決死の覚悟でシュテファン寺院を守ったといえるでしょう。彼の勇気ある不服従を記念する銘板があるそうですが、まだ見たことがありません。今度探してみましょう。
ところが翌日4月11日から12日にかけての夜間、シュテファン寺院は火災で大きく損傷しました。火災の原因は今日に至るまで確定されていません。最も広く信じられているのは、戦乱に乗じて寺院周辺の店舗の品々を奪った人々が店舗に放火し、その火が寺院に延焼したというものです。他にはナチス親衛隊の砲撃、進攻してきたソ連軍の砲撃という説もあります。
再建は終戦直後から始まり、再鋳造されたプンメリンの完成とともに1952年から再び一般公開されました。
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英語ウィキ:Pummerin
日本語ウィキのシュテファン寺院記事では大戦末期の出来事は全く触れられていません。
ドイツ語ウィキに近く詳しいのは英語ウィキです。
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