みみずのしゃっくり

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聖堂の05

2019-05-18 | その他

シュテファン寺院の西側外壁に「05」の文字が見られます。
これは法的に定められた歴史的記念物で、4隅を鋲で留めた透明のプレートによって保護されています。





これは第二次大戦中ナチス・ドイツに併合されたオーストリアにおける反ナチ・レジスタンス・グループの「シンボルマーク」です。
Oは文字通りアルファベットの「オー」、5はアルファベットの5番目のEで、合わせてOE。これはウムラウト記号を使わない場合の「オーストリア」の最初の文字で、つまりオーストリアを意味します。つまり、このグループは「独立した自由なオーストリア」の再建を目標としていました。

反ナチスの立場から投獄されていた人が出獄してからレジスタンス・グループを組織し、「05」のマークはメンバーのひとりが考案しました。このマークは1944年から主にウィーンとインスブルックを中心とするオーストリア各地で、レジスタンス運動の存在を証明するため建物に書かれるようになりました。そのひとつがシュテファン寺院外壁のものです。

前回書いたシュテファン寺院の火災の頃は、西からの連合軍も東からのソ連軍もベルリンやウィーンの目前に迫り、レジスタンス・グループは存在証明のマークを、あちこちに書いて回るし、ナチスの幹部は狂気の状態だったことでしょう。

当時オーストリアでは多くのレジスタンス・グループが結成されましたが、「05」グループは元貴族から共産主義者までを含む幅広い超党派のグループで、しかも中心人物のひとりは前線から脱走してイタリアのパルチザンに合流し、更にスイスで連合軍幹部の信頼を獲得しました。こうして「05」は連合軍と連携するレジスタンス・グループとなり、戦争末期に重要な役割を果たしました。

しかし戦後まもなく「05」は消滅し、独自の政治組織とはなりませんでした。極めて幅広く様々な思想潮流を含んでいたため、終戦まで一致団結していた夫々の潮流が別々に活動するようになったからです。

「05」を含むオーストリアでのレジスタンス運動の経緯は、かなり複雑で、以上はごく簡略化してまとめたものです。
出典:ドイツ語ウィキ05

シュテファン寺院外壁の05は塗料で書かれたものでした。歳月と共に色が薄れてきたので、石に05と刻み込まれ、透明プレートでカバーされています。
これはオーストリア第二共和国成立の歴史を伝える極めて重要な「証言」だからです。


第一次大戦後、王朝の終焉と共に成立した第一共和国は、ナチス・ドイツによる併合で消滅しました。








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2 コメント

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Unknown (めんまねえちゃん)
2019-05-18 22:56:53
実話、小説どちらも、レジスタンスものでは
心が痛むものも多いですが、
(人死が当たり前にありますしね、
いろいろと洗脳だの拷問だの密告だの、
どちらのサイドでも...)
こういうふうに形になって残っているものを
見るとどきっとします。

幅広いメンバーだと、確かに消滅したり
してしまうのでしょうね。
宗教などでも、同じ宗教の中の
細分化された宗派や考え方によって、
ある意味別の宗教を信奉する人とよりも
激しくぶつかることもあるわけで...
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めんまねえちゃんさん (ななみみず)
2019-05-20 21:51:05
そうですね。特に映画になったりするのはドラマチックな話が多いから・・・
全然ドラマチックでないレジスタンスの話もあるんだけど、何事も起こりませんでした、では本当に何も無くて退屈だと思います。
親や祖父母が反ナチスの運動をしていたとかユダヤ人をかくまったという話は友人・知人から聞いていますが、彼らは命がけで行動したけど何も起こらなかった人たちです。

現実の世界には完全無欠の正義の味方なんて存在しません。そういう連中が登場するのはプロパガンダ映画の中だけです。
一病息災のように一難(難点)息災でいいのでしょう。

ピエール・ロティがエルサレムで見たのは、キリスト教内部の宗派のいがみ合いを押し止めようと苦労するイスラム教徒の警官(オスマントルコの官吏)たちでした
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