みみずのしゃっくり

みみずのしゃっくりのように役に立たないことを不定期に書き込むブログ。
専属スターはいませんが、猫っぽい内容です。

宗教について

2021-04-15 | その他

画像は可愛いミーアキャットの赤ちゃん
でも本文とは全く関係ない「にぎやかし」でございます







私は子供の頃「新約聖書」を読み、その後は円覚寺で座禅したりしましたが、どちらかと言うと無宗教でした。
ウィーンに住むようになって間もないころ、旅行中の列車の中で、年配の御婦人から「あなたの宗教は?」と尋ねられました。
私は無宗教であるという意味で「無神論者Atheistです」と言ったところ、まるで悪魔に出会ったかのような顔をされました。
つまり、その御婦人は明らかに恐怖にとらわれた表情だったのです。

それから反省しまして、無神論という表現は強すぎるし、特に信仰をもたないという状態を表すには不適切と考え「無宗教konfessionslos/nonreligion」と言うことにしました。

しかし、その後、次々と様々な宗教(と、それを信奉する人たち)と接触するようになりました。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、バハーイー教、それにゾロアスター教の人にまで出会いました。
ひとくちにキリスト教と言っても、カトリックとプロテスタントというだけでなく、カトリックの中にもベネディクト会シトー会など、多種多彩な修道会があります。
プロテスタントも多種多様です。
現在のローマ教皇は、イエズス会出身としては初めての教皇です。
その他の宗教と内部の諸派まで見ていくときりがないので後は省略します

いずれにせよ、様々な宗教と宗教者に接して私が到達した結論は:

伝統ある様々な宗教は、いずれも貴重なものであり、それら全ての宗教に敬意を表する私としては、ひとつの宗教に限定できない

ということでした。これは、色々な宗教の人に接することの多い国際都市では、誰からも納得してもらえる回答です。でも、これは本心で、決して言い逃れではありません。
強いて言えば、内省的な曹洞禅に惹かれます。




「実践的」無神論者として良く知られるのはリチャード・ドーキンスですね。
私はThe Blind WatchmakerThe Selfish Geneを夢中で読みましたが、ドーキンスは「無神論という宗教」の使徒であるという印象をもちました。


 

「人間のみが宗教を持つ」と言われますが、高度に発達した哺乳類は、原初的な萌芽形態の宗教を持っているのではないかと思います。







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2 コメント

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🌱 (イクラ)
2021-04-17 06:31:45
こんにちは〜
こちら東京は新緑の美しい季節を迎えましたが、
季節を楽しむ雰囲気では無く、相変わらずの自粛生活で重圧感の中に収まっている状態です。

宗教に関しては、私も無宗派で、親代々から多分、お墓は、何とか宗派のお寺さんだったかもしれませんが、特別なこだわりも宗派も存在していない暮らしが長く続いています。
そもそも、宗教は、お互いを尊重し、日々一生懸命生きる・全てにおいて努力を怠らない、と言う事で、その一生懸命生きる・全てにおいて努力を怠らない事自体が人生の修行であり、いわゆる「宗教精神」に繋がる様な気がします。
それぞれ信じる神様を信じ、全てが解決するのであれば、誰も努力せず、「神に祈る」行為で幸せな暮らし・平和な世の中が実現する、これはいくらなんでも、無理の様に私は思います。
神様に祈って東大に合格するのであれば、また祈って大金持ちになるのであれば、世の中から「努力・苦労」と言う言葉が消滅でしょうか・・・
これは、あくまでも私自身の考え方・感じ方で、
宗教も自由ですが、お互いを尊重する事が前提の様な気がします。
私もイギリスに住んでいる時に宗派を聞かれた事あり、同じ様な体験は何回かしました。
日本は、新しい宗派の宗教が出来て、宗教とはなんなのだろうと、時折考えさせられますが、事件を起こさない限り、それぞれ「自由」なのでしょう、と言うか、自由だと思います。心の支えはそれぞれ異なりますし・・・
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イクラさん (ななみみず)
2021-04-18 00:10:21
こちらも今年は春の訪れを楽しむという気分ではありません。一般店舗・博物館などもロックダウン中で、出歩かないようにしています。
私の場合、コンピューターに向かって色々検索していれば楽しいという単純な人間なのでストレスはありませんが、パンデミックは一刻も早く終わってほしいですね。

昔オーストリア人の友達からもらった本の中で、登場人物が「人には神が必要なのだ。神があれば決してひとりぼっちになることはないからだ」と語っていました。
全人類に共通しているのは「心の平安への希求」だと思います。
サンテグジュペリは「時間(突き詰めれば死)との闘い」と呼んでいますね。
平たく言えば「心の拠り所」でしょうか。
一神教が掲げる「全知全能の神」のもとでは、全ては神様に任せて我々は何もする必要がないはずですが・・・考えるときりがありません
「正しく」敬虔な人々は自分が信仰している以外の他の宗教にも非常に寛容です。

新興宗教という現象はキリスト教にもあると思います。
それに加えて「ビジネスとしての宗教」もありますね。「現生の御利益」を強調するのはビジネス宗教のように思います。

宗教が社会を形成するのではなく、社会の必要が宗教の「顔」を造形するのだと思います。
半端ですが、きりがないので、今回はここで・・・
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