1942年2月22日シュテファン・ツヴァイクがブラジルで自殺してから、今年は75年目にあたります。これを記念して、ラジオでも作品の一部が朗読されたりしています。
歴史的に文学者の自殺は時々ありますが、シュテファン・ツヴァイクの場合は共感する人も多いかと思います。
ツヴァイクが自殺した家:ペトロポリス
今はカーサ・シュテファン・ツヴァイクとして記念館となっています
シュテファン・ツヴァイクはユダヤ系の富裕な実業家の子としてウィーンに生まれ、ウィーン大学に入りましたが、授業に出席するよりは、当時ヨーロッパ一流の新聞であったディ・プレッセ(編集者のひとりがテオドール・ヘルツル)に投稿する詩を書くことに熱心だったようです。それでも博士号を取得しています。
第一次大戦の体験やロマン・ロランとの交流などによってツヴァイクは徹底的な平和主義者になりました。
第一次大戦後からナチスによる政権奪取までツヴァイクはザルツブルクに居住し、多くの著作のほか、各国の文筆家や学者と交流しています。
ナチスの政権奪取後は1934年からロンドンに滞在、イギリス国籍も取得しています。しかし第二次大戦勃発によって、オーストリア人がドイツ人とともにイギリスの「敵国人」となってからは、収容所に入れられるのを恐れて、ニューヨーク、アルゼンチン、パラグアイを経て1940年ブラジルのペトロポリスに住み着きました。
当時のツヴァイクは既に世界的な名声を得ており、他のユダヤ系文化人の亡命者とは違って、経済的にも恵まれた状態にありました。しかし、ヨーロッパを自分の精神の拠り所としたツヴァイクにとって、ヨーロッパが戦争によって互いに殺し合い崩壊していく様子が耐えられなかったのでしょう。オーストリアを離れてから8年間の「亡命生活」は、経済的問題はなくても、精神的には耐え難い歳月だったと思います。
ツヴァイクは身辺を整理し、バルビツール製剤の大量服用によって自殺しました。
1945年まで、あと3年待てば戦争は終わっていたのです。しかし「この戦争の後、二度と再び往時のヨーロッパは戻ってこない」という恐れを持っていたとも思われます。確かに、第二次大戦末期は既に冷戦の始まりでした。それでも、ツヴァイクの理想に似た精神で、フランスとドイツの和解を軸にヨーロッパの統合が進み欧州連合EUへと発展してきたのですが、先を競ってEUに加盟した国々が、今では自国最優先のエゴイズムでEUを敵視するようになっています。ツヴァイクが今のヨーロッパに帰ってきたら、やっぱり悲観するかもしれません。
私はツヴァイクの「昨日の世界」しか読んでいませんが、大変印象的でした。この作品には少年時代からの思い出が綴られ、ウィーンの歴史的ガイドになっているとともに、交流のあった多彩な文化人が登場します。フーゴー・フォン・ホーフマンスタール、エミール・ヴェルハーレン、マクシム・ゴーリキー、そして上記のロマン・ロランなどなど。
高い単行本ですが日本語訳もあるようです。
昨日の世界I
昨日の世界II
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