兵庫県朝来市生野町小野にある生野銀山です。
生野銀山は兵庫県中央部、朝来(あさご)市にあった銀山です。生野町は明治22年(1889)以来、百年以上合併をしないで独立独歩で歩んできましたが、平成17年(2005)4月に合併して朝来市となりました。
生野銀山の開坑は、大同2年(807)といわれていますが、はっきりした年代はわからないようです。文献や様々な資料から、中世戦国時代にはすでに本格的に操業されていたようです。応永34年(1427)山名時熈(ときひろ)が赤松満祐討伐のために、生野に来て古城山に山城を築き、これが後に銀山への拠点となりました。
室町の天文11年(1542)には山名祐豊(すけとよ)が銀鉱脈を発見、本格的な採掘が始まったそうです。その後、竹田城主太田垣氏を経て織田信長、豊臣秀吉の直轄地になります。
江戸時代には徳川家康が「銀山奉行」を設置しました。佐渡金山、石見(いわみ)銀山と並び徳川幕府の貴重な財源になりました。この頃、小野の金香瀬周辺だけでなく、白口方面にも鉱脈が発見されていきました。
三代将軍家光の時、最盛期を迎えました。月産150貫(約562kg)の銀を産出したそうです。生野の銀は朝鮮の綿布や中国の絹と交換貿易された日本の主要な輸出品になっていました。
明治元年(1868)生野銀山は政府直轄の鉱山になりました。フランス人技師ジャン・フランソワ・コワニエが招き、軌道や巻揚機の新設など数々の先進的施策を行ない、目覚ましい近代化を成し遂げました。坑口は、フランス式の石組で築造されています。
明治22年(1889)に宮内省御料局の所管に移され皇室の財産になりました。明治29年(1896)には三菱合資会社に払い下げられ、国内有数の大鉱山となりました。昭和48年(1973)「山はね」や落盤など鉱山の老朽化、地下資源の枯渇による品位の低下などからに閉山したのでした。
その間掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達っしました。採掘した鉱石の種類は70種にも及んでいます。現在は旧坑道や鉱石標本などを活用した観光施設「史跡生野銀山」として生まれ変わり、多くの観光客が訪れています。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
生野銀山は兵庫県中央部、朝来(あさご)市にあった銀山です。生野町は明治22年(1889)以来、百年以上合併をしないで独立独歩で歩んできましたが、平成17年(2005)4月に合併して朝来市となりました。
生野銀山の開坑は、大同2年(807)といわれていますが、はっきりした年代はわからないようです。文献や様々な資料から、中世戦国時代にはすでに本格的に操業されていたようです。応永34年(1427)山名時熈(ときひろ)が赤松満祐討伐のために、生野に来て古城山に山城を築き、これが後に銀山への拠点となりました。
室町の天文11年(1542)には山名祐豊(すけとよ)が銀鉱脈を発見、本格的な採掘が始まったそうです。その後、竹田城主太田垣氏を経て織田信長、豊臣秀吉の直轄地になります。
江戸時代には徳川家康が「銀山奉行」を設置しました。佐渡金山、石見(いわみ)銀山と並び徳川幕府の貴重な財源になりました。この頃、小野の金香瀬周辺だけでなく、白口方面にも鉱脈が発見されていきました。
三代将軍家光の時、最盛期を迎えました。月産150貫(約562kg)の銀を産出したそうです。生野の銀は朝鮮の綿布や中国の絹と交換貿易された日本の主要な輸出品になっていました。
明治元年(1868)生野銀山は政府直轄の鉱山になりました。フランス人技師ジャン・フランソワ・コワニエが招き、軌道や巻揚機の新設など数々の先進的施策を行ない、目覚ましい近代化を成し遂げました。坑口は、フランス式の石組で築造されています。
明治22年(1889)に宮内省御料局の所管に移され皇室の財産になりました。明治29年(1896)には三菱合資会社に払い下げられ、国内有数の大鉱山となりました。昭和48年(1973)「山はね」や落盤など鉱山の老朽化、地下資源の枯渇による品位の低下などからに閉山したのでした。
その間掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達っしました。採掘した鉱石の種類は70種にも及んでいます。現在は旧坑道や鉱石標本などを活用した観光施設「史跡生野銀山」として生まれ変わり、多くの観光客が訪れています。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/