旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

生野銀山

2009年08月20日 | 旅 歴史
 兵庫県朝来市生野町小野にある生野銀山です。
 生野銀山は兵庫県中央部、朝来(あさご)市にあった銀山です。生野町は明治22年(1889)以来、百年以上合併をしないで独立独歩で歩んできましたが、平成17年(2005)4月に合併して朝来市となりました。
 生野銀山の開坑は、大同2年(807)といわれていますが、はっきりした年代はわからないようです。文献や様々な資料から、中世戦国時代にはすでに本格的に操業されていたようです。応永34年(1427)山名時熈(ときひろ)が赤松満祐討伐のために、生野に来て古城山に山城を築き、これが後に銀山への拠点となりました。 
  室町の天文11年(1542)には山名祐豊(すけとよ)が銀鉱脈を発見、本格的な採掘が始まったそうです。その後、竹田城主太田垣氏を経て織田信長、豊臣秀吉の直轄地になります。
 江戸時代には徳川家康が「銀山奉行」を設置しました。佐渡金山、石見(いわみ)銀山と並び徳川幕府の貴重な財源になりました。この頃、小野の金香瀬周辺だけでなく、白口方面にも鉱脈が発見されていきました。
 三代将軍家光の時、最盛期を迎えました。月産150貫(約562kg)の銀を産出したそうです。生野の銀は朝鮮の綿布や中国の絹と交換貿易された日本の主要な輸出品になっていました。
 明治元年(1868)生野銀山は政府直轄の鉱山になりました。フランス人技師ジャン・フランソワ・コワニエが招き、軌道や巻揚機の新設など数々の先進的施策を行ない、目覚ましい近代化を成し遂げました。坑口は、フランス式の石組で築造されています。
 明治22年(1889)に宮内省御料局の所管に移され皇室の財産になりました。明治29年(1896)には三菱合資会社に払い下げられ、国内有数の大鉱山となりました。昭和48年(1973)「山はね」や落盤など鉱山の老朽化、地下資源の枯渇による品位の低下などからに閉山したのでした。
 その間掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達っしました。採掘した鉱石の種類は70種にも及んでいます。現在は旧坑道や鉱石標本などを活用した観光施設「史跡生野銀山」として生まれ変わり、多くの観光客が訪れています。

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生野鉱物館・鉱山資料館

2009年08月20日 | 旅 歴史
 兵庫県朝来市生野町小野にある生野鉱物館・鉱山資料館です。
 主な事業内容 鉱山の様子を観光坑道、鉱山資料館で見ることが出来ます。国内産出鉱石標本では国内最大級の生野鉱物館で見ることが出来ます 。
 鉱物館では世界的に有名な「三菱ミネラルコレコション」、そして和田維四郎(つなしろう)、木内石亭(せきてい)などのコレクション、約2千点の貴重な鉱物を収蔵、展示しています。

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家原遺跡公園

2009年08月20日 | 旅 歴史
 今日は兵庫県宍粟市一宮町三方町家原にある家原遺跡公園(えばらいせきこうえん)を紹介します。
 家原遺跡公園は三方盆地を一望におさめる一宮町北部の河岸段丘の上に営まれた縄文時代から中世にかけての大規模な複合遺跡、家原遺跡に造られた公園です。
 平成4年(1992)からの調査では、縄文、弥生、古墳時代の竪穴住居跡、奈良時代の廃棄土坑、平安から鎌倉時代の掘建柱建物跡など多くの遺構が確認されています。
 遺跡公園内には、家原遺跡で実際に発掘された遺構をもとに、竪穴住居や高床式の建物、掘建柱建物など12棟を忠実に復元しています。


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