旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

大石神社

2009年08月22日 | 旅 歴史
 兵庫県赤穂市にある大石神社を紹介します。
 大正元年(1912)、大石内蔵助良雄はじめ四十七義士と萱野三平を合祀して創建されました。境内には国指定史跡の大石良雄宅跡長屋門や庭園、義士ゆかりの武具・書画などを展示している義士宝物殿があります。大石内蔵助の愛刀「備前長船清光」(太刀)と「備前長船康光」(脇差)などがあります。 義士木像奉安殿は、昭和28年(1953)、義士切腹から満250年の大祭記念に設立されています。大鳥居のある参道には、赤穂義士47士の石造が並んでいます。 
 社殿は、忠臣蔵三百年祭事業の一環として、建て替えられています。また神門(義芳門)は、楠木正成を祀る神戸の湊川神社から昭和17年(1942)に移築したものだそうです。

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赤穂

2009年08月22日 | 旅 歴史
 今日は兵庫県赤穂市上仮屋にある赤穂城を紹介します。
 室町時代に赤松満祐の一族岡豊前守が、天正年間には宇喜多秀家が陣屋を築いていました。刈谷城(加里屋城)と呼ばれていました。関ヶ原合戦後、姫路藩池田輝政の所領となりました。
 赤穂藩の始まりは元和元年(1615)池田輝政の五男池田政綱が2万5千石を与えられて入城してからです。しかし、正保2年(1645)政綱の後を継いだ池田輝興が発狂して妻女を殺害したため、赤穂池田氏は2代31年間で廃絶となりました。
 常陸笠間から浅野長直が5万3千5百石で入封し、慶安元年(1648)から13年間を費やして新城を築きました。築城に当たっては甲州流軍学者の近藤正純、山鹿流の兵法者として有名な大石蔵内助の師匠、山鹿素行も関わったそうです。
 浅野長直・長友・長矩(ながのり)と続き、元禄14年に浅野長矩は、江戸城松の廊下で高家の吉良義央(よしなか)に刃傷に及び、即日切腹させられました。そして赤穂浅野家は取り潰しとなったのです。元禄15年(1702)12月14日、大石内蔵助を首領とする赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入り、主君の仇を討ちました。これは単なる仇討ちだけではなく、幕府の政道を問う歴史的大事件でもありました。
 討ち入りから浪士の人数である47年目に仮名手本忠臣蔵が大坂の竹本座で初演されました。以後、赤穂浪士事件は「忠臣蔵」と呼ばれるようになったそうです。
 浅野家取り潰し後の赤穂城は下野国烏山(栃木県)から永井直敬が3万3000石で入封しました。4年後森長直と替わり以後代々森氏2万石の居城となり11代で明治維新を迎えたということです。

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