兵庫県加古川市加古川町北在家にある鶴林寺を紹介します。
565年に、朝鮮から恵便という高僧が仏教を広めるため我が国へ来ました。 当時の我が国では、仏教をめぐって蘇我氏と物部氏が対立していました。物部氏は、兵を出して恵便をとらえようとしましたが恵便はあちこちと逃げた末現在の鶴林寺のあたりに潜みました。
聖徳太子は、恵便に仏教の教えを受けようとはるばるこの地を訪れ付近の住民が建てた「木の丸殿」という丸太造りの御殿で教えを受けたということです。太子が16歳(589年)になったとき、秦川勝に命じて精舎を建立し刀田山四天王寺聖霊院と名付けられたのが「鶴林寺」の始まりであると伝えられています。
「播磨の法隆寺」と呼ばれる刀田山鶴林寺(かただやま かくりんじ)には堂塔16棟、国宝2、重要文化財18、県指定文化財10、市指定文化財16、計46件のほか、寺宝200余点があります。古くから「刀田の太子さん」と人々に親しまれ、鬼追い(1月8日)、太子会式(3月21日~23日)は 多くの人出でにぎわうということです。
養老2年(718)、武蔵の大目「身人部春則」が太子の遺徳を顕彰するため、七堂伽藍を建立しました。そして、天永3年(1112)に寺号を「鶴林寺」と名を改めています。太子堂はこの年に建てられたようです。太子信仰が高まり鎌倉・室町時代には、寺坊は30数ヶ坊、寺領2万5千石もあったといわれています。信長、秀吉による宗教弾圧で疲弊し、続く江戸時代の政策で8カ坊、117石に激減、明治維新の排仏棄釈で宝生院、浄心院、真光院の3カ寺だけとなっています。

下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/

565年に、朝鮮から恵便という高僧が仏教を広めるため我が国へ来ました。 当時の我が国では、仏教をめぐって蘇我氏と物部氏が対立していました。物部氏は、兵を出して恵便をとらえようとしましたが恵便はあちこちと逃げた末現在の鶴林寺のあたりに潜みました。
聖徳太子は、恵便に仏教の教えを受けようとはるばるこの地を訪れ付近の住民が建てた「木の丸殿」という丸太造りの御殿で教えを受けたということです。太子が16歳(589年)になったとき、秦川勝に命じて精舎を建立し刀田山四天王寺聖霊院と名付けられたのが「鶴林寺」の始まりであると伝えられています。
「播磨の法隆寺」と呼ばれる刀田山鶴林寺(かただやま かくりんじ)には堂塔16棟、国宝2、重要文化財18、県指定文化財10、市指定文化財16、計46件のほか、寺宝200余点があります。古くから「刀田の太子さん」と人々に親しまれ、鬼追い(1月8日)、太子会式(3月21日~23日)は 多くの人出でにぎわうということです。
養老2年(718)、武蔵の大目「身人部春則」が太子の遺徳を顕彰するため、七堂伽藍を建立しました。そして、天永3年(1112)に寺号を「鶴林寺」と名を改めています。太子堂はこの年に建てられたようです。太子信仰が高まり鎌倉・室町時代には、寺坊は30数ヶ坊、寺領2万5千石もあったといわれています。信長、秀吉による宗教弾圧で疲弊し、続く江戸時代の政策で8カ坊、117石に激減、明治維新の排仏棄釈で宝生院、浄心院、真光院の3カ寺だけとなっています。

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