旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

鳥取城址(久松公園)

2009年08月15日 | 旅 歴史
 鳥取県鳥取市東町にある鳥取城址(久松公園)です。
 鳥取城は、市街の北方にそびえる標高263mの久松山(きゅうしょうざん)の山頂を中心とした山城部の山上の丸と、山麓の天球丸、二の丸、三の丸、右膳の丸、丸の内などからなる平山城部からなる性格の異なる二種類の遺跡で構成された梯郭式の城郭です。
 天文14年(1545)天神山城を本拠としていた因幡の守護、山名誠通が出城として、久松山に築城したのが鳥取城の始まりです。山名氏は11ヵ国の守護職に任じられた大勢力の名族でしたが、戦国時代末期になると、わずかに因幡、但馬のみになっていました。 
 天正元年(1573)山名豊国が鳥取城を因幡山名氏の本城として整備しました。その後、中国の大勢力にのし上がってきた毛利氏一族の吉川経家の傘下となりました。
 天正4年(1576)足利氏最後の将軍足利義昭が織田信長に追われて毛利氏のもとに落ち延びてきました。信長は羽柴秀吉を総大将に任じて中国攻めを命じました。天正8年(1580)の鳥取城攻めで山名豊国は秀吉の軍門に下りましたが、家臣が豊国を追放し、毛利氏の吉川経家が鳥取城主となりました。 
 天正9年(1581)秀吉は2万の大軍で鳥取城を取り囲み、兵糧攻めにしました。このため鳥取城内では飢餓地獄になり、籠城4ヶ月で吉川経家はついに開城して自刃しました。
 天正10年(1582)浅井氏の旧臣で、秀吉の与力となっていた宮部継潤が但馬豊岡(豊岡市京町)から入封します。慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後、西軍についた継潤は改易され、池田長吉が6万石で鳥取城主となりました。
 長吉は城の中心を久松山山麓に移し、4年がかりで城の大改築を行ない、ほぼ現在の形の鳥取城が完成しました。その後、元和3年(1617)姫路から池田光政が32万5千石で鳥取城主となり、城下町の整備を行ないました。
 寛永9年(1632)岡山城主の池田光仲が池田光政と入れ替わって鳥取城主となり、以後光仲系の池田氏12代で明治維新を迎えました。明治12年(1879)鳥取県は島根県に編入されたことで、県庁所在地(松江市)以外に城は必要なしと判断され破却されてしまいました。

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景福寺

2009年08月15日 | 旅 歴史
 今日は鳥取県鳥取市新品治町にある景福寺を紹介します。
 景福寺は應安5年(1372)六瀬の土豪平尾越中守景勝の開基、通幻禅師の開山と伝える曹洞宗のお寺です。
 慶長年間(1596-1615)池田輝政家臣で鳥取藩家老荒尾志摩守隆重が中興しました。池田氏の転封に従って姫路、岡山と移転して、寛永10年(1633)現在地に移りました。
 境内の一角に2つの大きな五輪塔があります。後藤基次(又兵衛)夫妻の墓です。黒田孝高(如水)に仕え、「黒田八虎」の一人に数えられました。その後、孝高死後、当主の長政と対立して出奔します。新たな仕官先の大名家に長政から「奉公構」が出されたため、乞食にまで身を落としたといわれています。
 大坂の陣の際は豊臣秀頼の招聘により入城、真田幸村とともに事実上の総大将格となりました。夏の陣で道明寺にて激戦の末に銃弾を浴びて戦死しました。
 基次の子為勝は母に抱かれて鳥取に落ち延び、成長してから池田光仲に仕えました。そして墓銘を刻んだのでした。
 またこの寺は鳥取藩家老荒尾家の菩提寺であるので荒尾累代の墓があります。

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