京都市左京区南禅寺福地町にある南禅寺の金地院(こんちいん)です。
南禅寺の塔頭のひとつです。 慶長の初め、以心崇伝によって南禅寺へ移されました。もとは北山にあった寺でした。以心崇伝は足利氏の家臣・一色秀勝の第二子でした。南禅寺に引き取られ、玄圃霊三の弟子となり建長寺や・南禅寺の住職になり、臨済宗の最高位についた人です。。
慶長13年(1608)に徳川家康の命により、以心崇伝は駿府に赴き、外交事務の担当をするようになります。黒衣の宰相ともいわれたそうです。
方広寺の鐘銘に「国家安康」があり、家康公の名を引き裂いており、「君臣豊楽」は豊臣家を主君として楽しむ、ととれると換言しました。それにより「方広寺鐘銘事件」が起こり、豊臣家を滅亡させたのです。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
南禅寺の塔頭のひとつです。 慶長の初め、以心崇伝によって南禅寺へ移されました。もとは北山にあった寺でした。以心崇伝は足利氏の家臣・一色秀勝の第二子でした。南禅寺に引き取られ、玄圃霊三の弟子となり建長寺や・南禅寺の住職になり、臨済宗の最高位についた人です。。
慶長13年(1608)に徳川家康の命により、以心崇伝は駿府に赴き、外交事務の担当をするようになります。黒衣の宰相ともいわれたそうです。
方広寺の鐘銘に「国家安康」があり、家康公の名を引き裂いており、「君臣豊楽」は豊臣家を主君として楽しむ、ととれると換言しました。それにより「方広寺鐘銘事件」が起こり、豊臣家を滅亡させたのです。
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