京都府京都市南区九条町にある東寺(教王護国寺)をお送りします。
東寺は平安遷都(794)の翌々年、延暦15年(796)桓武天皇が平安京鎮守のため、朱雀大路の最南端・羅城門の東西に建立した寺の一つで、西寺に対し東寺と呼ばれました。五重塔は天長3年(826)に着工し元慶元年(877)に完成しました。
東寺は弘仁14年(823)、嵯峨天皇から空海に与えられ、真言密教の根本道場となりました。空海は、入定(死)後87年目の延喜21年(921)に醍醐天皇から「弘法大師」の称号が贈られています。天福元年(1233)弘法大師像が完成しました。像の完成により、町の人々も供養に集まるようになり、庶民の寺としての東寺の歴史が始まりました。
観智院は東寺の塔頭の中でも最も格式が高い寺です。慶長10年(1605)に再建された建物です。
観智院の上座の間には宮本武蔵の水墨画、二羽の荒鷲が今にも飛びかからんかとする「鷲の図」があります。同じく襖絵の「竹林の図」も有名です。
足利尊氏は東寺に本陣を置き新田義貞軍を防ぎ、室町時代の幕を開けました。織田信長も足利尊氏にならい本陣を置き、安土桃山時代が始まりました。信長のあとを継いだ豊臣秀吉も永禄6年(1563)の落雷で焼失した五重塔の再建に力を注ぎ、秀頼は金堂の再建に着手しました。徳川家光は寛永12年(1635)の落雷で焼失した五重塔を再建しました。
明治政府が明治元年(1868)、神仏分離令を発令したため、神仏習合を唱えてきた寺院は大きな影響を受け、東寺も南大門等が焼かれてしまいました。現在の南大門は、明治28年(1895)に蓮華王院(三十三間堂)の西大門を購入し、移築したものです。
元慶元年(877)に完成した五重塔は落雷による火災で4度焼失しましたが、地震には大変強かったようです。高度な耐震設計が施されていたためで、安土桃山時代後期の慶長元年(1596)、京都は大地震にみまわれ伏見城の天守閣が倒壊し、東寺でも食堂、中門、講堂、灌頂院、南大門、北大門が倒壊したそうです。五重塔は何事もなかったかのようにそびえたっていたという話が残っています。
現在の五重塔は正保元年(1644)、三代将軍徳川家光によって再建されたものです。国宝に指定されています。高さ55mのこの塔は、日本に現存する五重塔としては日本一の高さがあります。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
東寺は平安遷都(794)の翌々年、延暦15年(796)桓武天皇が平安京鎮守のため、朱雀大路の最南端・羅城門の東西に建立した寺の一つで、西寺に対し東寺と呼ばれました。五重塔は天長3年(826)に着工し元慶元年(877)に完成しました。
東寺は弘仁14年(823)、嵯峨天皇から空海に与えられ、真言密教の根本道場となりました。空海は、入定(死)後87年目の延喜21年(921)に醍醐天皇から「弘法大師」の称号が贈られています。天福元年(1233)弘法大師像が完成しました。像の完成により、町の人々も供養に集まるようになり、庶民の寺としての東寺の歴史が始まりました。
観智院は東寺の塔頭の中でも最も格式が高い寺です。慶長10年(1605)に再建された建物です。
観智院の上座の間には宮本武蔵の水墨画、二羽の荒鷲が今にも飛びかからんかとする「鷲の図」があります。同じく襖絵の「竹林の図」も有名です。
足利尊氏は東寺に本陣を置き新田義貞軍を防ぎ、室町時代の幕を開けました。織田信長も足利尊氏にならい本陣を置き、安土桃山時代が始まりました。信長のあとを継いだ豊臣秀吉も永禄6年(1563)の落雷で焼失した五重塔の再建に力を注ぎ、秀頼は金堂の再建に着手しました。徳川家光は寛永12年(1635)の落雷で焼失した五重塔を再建しました。
明治政府が明治元年(1868)、神仏分離令を発令したため、神仏習合を唱えてきた寺院は大きな影響を受け、東寺も南大門等が焼かれてしまいました。現在の南大門は、明治28年(1895)に蓮華王院(三十三間堂)の西大門を購入し、移築したものです。
元慶元年(877)に完成した五重塔は落雷による火災で4度焼失しましたが、地震には大変強かったようです。高度な耐震設計が施されていたためで、安土桃山時代後期の慶長元年(1596)、京都は大地震にみまわれ伏見城の天守閣が倒壊し、東寺でも食堂、中門、講堂、灌頂院、南大門、北大門が倒壊したそうです。五重塔は何事もなかったかのようにそびえたっていたという話が残っています。
現在の五重塔は正保元年(1644)、三代将軍徳川家光によって再建されたものです。国宝に指定されています。高さ55mのこの塔は、日本に現存する五重塔としては日本一の高さがあります。
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