旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

二条城

2009年09月04日 | 旅 歴史
 京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある二条城を取り上げてみます。
 桃山文化の粋が結集されている二条城は、慶長8年(1603)徳川家康が、京都御所の守護と将軍上洛の際の宿所として京都所司代板倉勝重に命じて造営したものです。
 慶長16年(1611)、後水尾天皇の皇位継承のために上洛した時は、この城で豊臣秀頼と会見しています。また慶長19年(1614)の大阪冬の陣、翌年の夏の陣では幕府方の作戦本部になりました。
 寛永3年(1626)三代将軍家光が後水尾天皇を迎えるために大改修を行い大体いまの体裁を整えました。寛延3年(1750)伏見城から移築した天守が落雷で焼け、天明の大火では本丸のすべてと櫓や門の一部が焼失してしまいました。
 幕末になると開国をめぐり公武の緊張が高まり、14代将軍家茂が二度にわたって上洛し二条城に滞在したそうです。最後の15代将軍慶喜は慶応2年(1866)ここで将軍職を拝命し、翌年大政奉還をしています。
 堀を巡らし石垣に囲まれた広大な城内は、二の丸御殿(国宝)、本丸御殿(重要文化財)、二の丸庭園(特別名勝)などからなり、豪壮な外観に反して、内部はきらびやかさに満ちています。
 国宝の二の丸御殿は桃山時代武家風書院造りの代表的な建物です。城へ参上した大名の控室であった「遠侍」、参上した大名が老中職と挨拶を交した「式台」などがあります。
 将軍が外様大名に対面した部屋は「大広間」です。慶応3年(1867)、15代将軍慶喜が大政奉還を発表し、徳川幕府265年の幕を閉じた歴史的な部屋でもあります。
 その他に「蘇鉄の間」、「黒書院」、将軍の居間と寝室の「白書院」などが並んでいます。二の丸御殿の障壁画は狩野一門の作で、八方にらみの獅子図などがよく知られています。これも重要文化財に指定されています。
 各部屋の襖絵は狩野派一門の手によって部屋の目的に応じて描かれています。また欄間の彫刻、飾金具、長押(なげし)に打たれた花熨斗形(はなのしがた)の釘隠しなどは、金飾あざやかに豪華を極めています。
 二条城の総面積は約27万5千㎡です。小堀遠州作と伝わる二の丸庭園は、広大な敷地を利用して神仙蓬莱の世界を表わした池泉回遊式の見事な庭園です。蓬莱島・鶴島・亀島の三島を置き、四つの橋を架け、西北隅に滝を落とし、池の汀に多くの岩石を配しています。


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壬生寺

2009年09月04日 | 旅 歴史
 今日は京都市中京区坊城通仏光寺にある壬生寺を紹介します。
 新選組は文久3年(1863) 3月に、ここ壬生の地において結成されました。慶応2年(1866)頃、新選組は毎月四と九のつく日を壬生寺境内での兵法訓練の日にしていたそうです。 
 壬生寺は、正暦2年(991)、三井寺の快賢僧都が仏師の定朝に地蔵菩薩像を造らせて本尊としたのがはじまりといわれています。その後、白河天皇が訪れて地蔵院の号を与えました。
 建保元年(1213)に平宗平(むねひら)が現在地に移して伽藍を建立しましたが、正嘉元年(1257)に焼失してしまいました。
 宗平の子の政平(まさひら)はこれを再興して地蔵院から宝幢三昧寺に改めました。律宗別格本山である壬生寺はこのため地蔵院とも宝幢三昧寺とも称されているのです。
 正安年間(1299-1302)に円覚十方(えんかくじゅっぽう)上人道御(どうぎょ)が融通大念仏を修し、浄財を募って堂宇を修復しました。この時に境内で猿楽を演じたのが壬生狂言の始まりといわれています。
 毎年節分と4月21日から1週間に大念仏堂で行われる「カンデンデン」の壬生狂言は有名で、国の重要無形民俗文化財にも指定されています。
 中世末期に衰退した壬生寺は秀吉、家康の保護を受け江戸時代には再び隆盛になりましたが天明の大火で全焼しました。今の本堂は1967年に再建されたものだそうです。
 本堂には、重要文化財に指定されている本尊の地蔵菩薩立像が安置されています。唐招提寺から移座されたものだそうです。また、境内には新撰組隊士の墓も残っています。

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