京都市左京区銀閣寺町にある銀閣寺(慈照寺)を取り上げてみます。
室町時代、東山文化の頃に大きな文化の影響を与えた「銀閣」は、のちに寺に改められ「慈照寺」と名前を変えました。
銀閣は観音殿といい、創建時の風雅な姿をそのまま残す国宝です。世界文化遺産にも登録されています。
観音殿(銀閣)は鹿苑寺の舎利殿(金閣)、西芳寺の瑠璃殿を踏襲し、本来観音殿と呼ばれました。二層からなり一層の心空殿は書院風。
二層の潮音閣は、板壁に花頭窓をしつらえて桟唐戸を設けた唐様仏殿の様式。閣上にある金銅の鳳凰は東面し、観音苔薩を祀る銀閣を絶えず守り続けています。
足利義政は、祖父にあたる三代将軍足利義満の北山殿金閣(鹿苑寺)にならい、隠栖生活を過ごすため、山荘東山殿を文明14年(1482)に造営しました。この東山殿が銀閣寺の発祥です。
銀閣寺は俗称であり、正しくは山号を東山(とうざん)、慈照寺です。義政の法号慈照院にちなみ、後にこう命名されたのです。金閣寺とともに相国寺の山外塔頭のひとつなのです。
京都の東に連なる山々は東山(ひがしやま)と呼ばれ、如意が岳(大文字山)を中心になだらかに続いています。
総門をくぐり中門までの約50メートルに銀閣寺垣が続きます。石垣・竹垣・椿の生垣が見事に調和しています。
銀閣寺形手水鉢
中門から中に入ると東山文化のわびさびを感じさせてくれる美しい庭園が目に飛び込みます。庭園は特別史跡、特別名勝に指定されています。
正面に月待山、銀沙灘(ぎんしゃだん)と呼ばれる白砂や台形の向月台(こうげつだい)が配されています。月見の風情が伺え、枯山水と池泉回遊式の庭園は見事です。
本堂へ続く東求堂(とうぐどう)も国宝で、同仁斎(どうじんさい)という現存最古の書院造りの部屋が有名です。東求堂の拝観は事前申込みが必要です。
義政は8才で将軍となり政務に励みましたが、山名、細川氏らの対立を収められませんでした。妻である日野富子まで政治に口を挟み、政局は乱脈を極めました。
後継者争いから応仁元年(1467)応仁の乱が起こり10年間戦いが続きました。そのさなかの文明5年(1473)、義政は将軍職を9才の義尚に譲ってしまい銀閣寺造営に情熱を向けたのでした。
文明14年(1482)に乱で焼失した浄土寺の跡地に銀閣を造営して翌年移っているそうです。浄土寺は相国寺の西に移ったそうです。
義政は文化面に優れた感覚を持ち、祖父の義満の金閣に劣らない建築を志しました。横川景三ら相国寺の僧を相談相手にしていたそうです。
国の特別史跡・名勝に指定されている庭園は名手善阿弥(ぜんあみ)、襖絵は小栗宗湛、狩野正信らの一流人を用いています。
資金は段銭を課し、公家、寺院から普請料を徴収したそうです。常の御所、禅堂西指庵、持仏堂の東求堂などを完成させました。最後に観音堂(銀閣)を上棟したのは死の前年の長亨3年(1489)だったそうです。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
室町時代、東山文化の頃に大きな文化の影響を与えた「銀閣」は、のちに寺に改められ「慈照寺」と名前を変えました。
銀閣は観音殿といい、創建時の風雅な姿をそのまま残す国宝です。世界文化遺産にも登録されています。
観音殿(銀閣)は鹿苑寺の舎利殿(金閣)、西芳寺の瑠璃殿を踏襲し、本来観音殿と呼ばれました。二層からなり一層の心空殿は書院風。
二層の潮音閣は、板壁に花頭窓をしつらえて桟唐戸を設けた唐様仏殿の様式。閣上にある金銅の鳳凰は東面し、観音苔薩を祀る銀閣を絶えず守り続けています。
足利義政は、祖父にあたる三代将軍足利義満の北山殿金閣(鹿苑寺)にならい、隠栖生活を過ごすため、山荘東山殿を文明14年(1482)に造営しました。この東山殿が銀閣寺の発祥です。
銀閣寺は俗称であり、正しくは山号を東山(とうざん)、慈照寺です。義政の法号慈照院にちなみ、後にこう命名されたのです。金閣寺とともに相国寺の山外塔頭のひとつなのです。
京都の東に連なる山々は東山(ひがしやま)と呼ばれ、如意が岳(大文字山)を中心になだらかに続いています。
総門をくぐり中門までの約50メートルに銀閣寺垣が続きます。石垣・竹垣・椿の生垣が見事に調和しています。
銀閣寺形手水鉢
中門から中に入ると東山文化のわびさびを感じさせてくれる美しい庭園が目に飛び込みます。庭園は特別史跡、特別名勝に指定されています。
正面に月待山、銀沙灘(ぎんしゃだん)と呼ばれる白砂や台形の向月台(こうげつだい)が配されています。月見の風情が伺え、枯山水と池泉回遊式の庭園は見事です。
本堂へ続く東求堂(とうぐどう)も国宝で、同仁斎(どうじんさい)という現存最古の書院造りの部屋が有名です。東求堂の拝観は事前申込みが必要です。
義政は8才で将軍となり政務に励みましたが、山名、細川氏らの対立を収められませんでした。妻である日野富子まで政治に口を挟み、政局は乱脈を極めました。
後継者争いから応仁元年(1467)応仁の乱が起こり10年間戦いが続きました。そのさなかの文明5年(1473)、義政は将軍職を9才の義尚に譲ってしまい銀閣寺造営に情熱を向けたのでした。
文明14年(1482)に乱で焼失した浄土寺の跡地に銀閣を造営して翌年移っているそうです。浄土寺は相国寺の西に移ったそうです。
義政は文化面に優れた感覚を持ち、祖父の義満の金閣に劣らない建築を志しました。横川景三ら相国寺の僧を相談相手にしていたそうです。
国の特別史跡・名勝に指定されている庭園は名手善阿弥(ぜんあみ)、襖絵は小栗宗湛、狩野正信らの一流人を用いています。
資金は段銭を課し、公家、寺院から普請料を徴収したそうです。常の御所、禅堂西指庵、持仏堂の東求堂などを完成させました。最後に観音堂(銀閣)を上棟したのは死の前年の長亨3年(1489)だったそうです。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
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