旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

南禅寺

2009年09月14日 | 旅 歴史
 京都府京都市左京区南禅寺福地町にある南禅寺です。
 南禅寺は、正応4年(1291)、宋から帰国した無関普門(むかんふもん)を開山とし、亀山天皇が東山の離宮を禅寺に改めたことにはじまります。臨済宗南禅寺派の大本山です。
 室町時代は五山の上位に列せられた格式の高さを誇る大寺院です、2世の南院国師の時に南禅寺と改められました。
 亀山法皇は建長元年(1249)、後嵯峨上皇の皇子として生まれ、10歳で皇位に就かれ第90代亀山天皇になりました。その頃東アジアの情勢が緊迫し、上皇になられてからは蒙古来襲という国難に対処しました。
 伽藍のほぼ完成した嘉元3年(1305)亀山法皇は嵯峨の亀山殿で57歳で崩御されました。御陵は亀山殿の跡地に建立された天龍寺境内にあります。南禅寺はその後も著名の禅僧が歴代住持として住山して五山文学の中心地として栄えました。
 南禅寺山門は5間3戸2重門の威容を誇ります。創建当初の門は室町時代に焼失し、現在見るものは寛永年間に伊勢伊賀の領主藤堂高虎が大阪夏の陣で戦死した藩士の霊を弔うため寄進し再建したものです。天下竜門とも称し、上層は別に五鳳楼とも呼ばれています。
 禅寺特有の重厚な造りと太い柱が圧倒的な量感で迫ります。知恩院三門、東本願寺大師堂門とともに日本三大門のひとつ。 元治元年(1864)6月、新選組は肥後の宮部鼎蔵の下僕・忠蔵をこの付近で捕縛しました。尋問に一切答えなかった忠蔵は、三門の楼上に晒しものにされたそうです。
 日本史上屈指の義賊「石川五右衛門」が連想されます。元禄時代の歌舞伎の台本の中で、戯作者が山門に五右衛門を登楼させ「絶景かな絶景かな」の名せりふをはかせたことで有名になりました。三門の向こうの山の緑がとても美しい場所です。生い茂る松、背後に続く山々。自然の偉大さが垣間見えます。
 3世の一山一寧(妙慈弘済大師)は元弘の後に元朝より平和交渉の使僧として来日しました。北条貞時によりスパイ容疑で修善寺に幽閉されました。しかし、のちに建長寺の10世になっています。
 仏殿は三門の奧にあります。法堂で明治末年の再建です。天井の龍は今尾景年(けいねん)の筆です。
   国宝指定されている南禅寺方丈は江戸時代(1611)に移築したものです。狩野探幽の水呑の虎などの襖絵などが有名です。
 小堀遠州作の方丈庭園は石組みの配置から虎の子渡しの庭と呼ばれています。砂と石と松で構成された枯山水庭園の代表的なものです。


下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日記@BlogRanking
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

粟田神社

2009年09月14日 | 旅 歴史
 今日は京都府京都市東山区粟田口鍛冶町にある粟田神社を紹介します。
 粟田神社は旧粟田口村の産土神です。貞観18年(876)、清和天皇が全国の諸神に疫病封じの祈祷の勅命を出した折、八坂神社で祈願をしていた勅使の夢枕に、大己貴神(オオナムチ)が現れました。
この地に素盞嗚尊(スサノヲノミコト)を祭神とする社を建てるようお告げがあったことから建てられました。また古代の粟田一族(大宝律令の撰定に参加した粟田朝臣真人などがその一族)を祀った神社との説もあります。
 旧社名は感神院新宮粟田天王宮でしたが、明治4年(1871)の神仏分離令に基づき神社に統合され「粟田神社」と改称されました。 
 境内からは京都市街や比叡山が一望できます。毎年8月16日に行なわれる五山の送り火の際には、絶好のビューポイントとなるそうです。


下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日記@BlogRanking
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする