今日は京都府京都市東山区林下町にある知恩院を紹介します。
大晦日の除夜の鐘の放映でお馴染みのお寺です。地元では「ちおいんさん」と呼ばれていますが正式には華頂山大谷寺知恩教院といいます。華頂山(かちょうざん)の山裾に広がる浄土宗の総本山です。
祇園の北側にある知恩院は法然がここで布教を始めたところでした。法然は美作国(岡山)の生まれで9才の時、父の漆間時国(うるまのときくに)が政敵に殺害され、臨終の遺言で15才で比叡山へ上り出家しました。
法然房源空(げんくう)と称し「智恵第一の法然房」と讃えられました。その後念仏さえ唱えれば極楽に往生できると考え43才で下山してしまいます。
文治2年(1186)、天台僧顕真(けんしん)に大原に招かれそこで行った大原談義で一躍有名になりました。九条兼実(かねざね)の求めで「選択本願念仏集」を撰述しました。
これらの教えで後鳥羽上皇の女官、松虫と鈴虫が出家したため上皇が怒り、法然は土佐へ流されました。4年後京都に帰ってからは大谷の禅房、今の知恩院境内の勢至堂のあたりに居を構えました。
建暦2年(1212)に浄土宗の開祖法然が没しました。弟子たちはその東側に廟を定めましたが延暦寺の襲撃を受けました。文暦2年(1234)に法然の弟子の勢観房源智上人が報恩のために伽藍を建立、念仏の根本道場の基礎を築き大谷寺と称しました。
知恩院は、応仁の乱 (1467-77) で焼失し一時、近江の伊香立 (いかだち)に難を避けました。乱のあと再興しました。
大永3年(1523)、百万遍知恩寺と本山争いが起こりました。天正3年(1575)正親町(おおぎまち)天皇の綸旨(りんじ)で知恩院が本山と決定しました。
信長、秀吉の援助を受けて復興に向かい、家康は徳川家の菩提所とし大伽藍の建造を発願、寺領700石を寄進して大小106棟の建物からなる現在の寺観を整えました。
元和5年(1619)後陽成天皇の皇子八宮(はちのみや)を入寺させて(良純法親王)門跡寺院とさせました。寛永10年(1633)の火災でほとんどが焼失してしまいました。
三代将軍・家光の尽力により伽藍が復興され、現在に至っています。いまでも東山屈指の寺院として威厳を保っている。
三門は、二代将軍・秀忠の建立になるわが国最大の三門で、重要文化財に指定されています。この巨大な山門を入ると、徳川幕府が戦を想定して築いたとされる城郭のような造りの大伽藍が迎えてくれます。
本堂は御影堂と呼ばれています。これも重要文化財です。中央須弥壇(しゅみだん)の厨子の中に法然の像を安置しています。
比叡山で修行した法然は、平安時代末期この地に吉水の禅房を作り、四国配流から帰ると大谷禅房を結びました。そして浄土宗を開き、弟子を通じて教えを全国に広めたのです。
法然上人が没すると弟子達が廟堂を建て祭りましたが、比叡山の迫害で、遺骸は西山光明寺で荼毘に付されたりしました。その後この地に建立されたのが勢至堂で、知恩院の始まりにあたる場所です。
重要文化財の勢至堂は七間四面単層入母屋造り本瓦葺きです。享禄3年(1530)の再建で現在の知恩院では最古の建築物です。
法然上人御廟は慶弔18年(1613)に常陸の国土浦城主松平伊豆守の寄進です。宝形造本瓦葺、方三間の建物を唐門つきの玉垣でめぐらしています。
重要文化財の知恩院経蔵があります。 江戸時代初期の元和7年(1621)に三門と同時期に徳川秀忠によって建てられました。内部中央には廻転できる八角形の輪蔵があり一切経5600余巻が漆塗りの箱に納められています。
大晦日に荘厳な除夜の鐘を京の街に響かせる日本一の大きさを誇る鐘楼、賊の侵入を防ぐために工夫されたとされる鶯張りの廊下などでも知られています。
しだれ桜の名木「美幸」があります。方丈庭園は背後の東山を借景にとりいれた名園です。大方丈の菊の間にある襖から雀が飛んでいったそうです。「抜け雀」は七不思議の一つになっています。
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