京都府京都市左京区一乗寺才形町にある金福寺です。
佛日山金福寺は貞観6年(864)に慈覚大師が自作の聖観音菩薩の像を祀り創建されました。。天台宗のお寺でしたが江戸時代に鉄舟和尚が再興して臨済宗南禅寺派の寺になりました。その頃に松尾芭蕉がたびたび訪れた縁で境内の後丘の庵を芭蕉庵と言われるようになりました。
芭蕉庵はその後荒廃しました。その後、与謝蕪村が庵を再興しました。寺には今も蕪村の墓があります。この寺は観音の霊場で、俳諧の聖地ともいわれています。
金福寺は、舟橋聖一の「花の生涯」で紹介された、幕末の安政の大獄で幕府のスパイとして活躍した村山たか女が「妙寿尼」という尼として過ごした隠棲地でもありました。
安政5年(1858)、44才の井伊直弼は大老になり将軍家跡継ぎと日米修好通商条約をめぐり反対派への弾圧を開始した時、たかは長野主善とともに直弼の手足となりました。その後捕らえられ「生きさらし」の刑で三条大橋の橋柱に縛り付けられたのです。
佛日山金福寺は貞観6年(864)に慈覚大師が自作の聖観音菩薩の像を祀り創建されました。。天台宗のお寺でしたが江戸時代に鉄舟和尚が再興して臨済宗南禅寺派の寺になりました。その頃に松尾芭蕉がたびたび訪れた縁で境内の後丘の庵を芭蕉庵と言われるようになりました。
芭蕉庵はその後荒廃しました。その後、与謝蕪村が庵を再興しました。寺には今も蕪村の墓があります。この寺は観音の霊場で、俳諧の聖地ともいわれています。
金福寺は、舟橋聖一の「花の生涯」で紹介された、幕末の安政の大獄で幕府のスパイとして活躍した村山たか女が「妙寿尼」という尼として過ごした隠棲地でもありました。
安政5年(1858)、44才の井伊直弼は大老になり将軍家跡継ぎと日米修好通商条約をめぐり反対派への弾圧を開始した時、たかは長野主善とともに直弼の手足となりました。その後捕らえられ「生きさらし」の刑で三条大橋の橋柱に縛り付けられたのです。