旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

姫路城

2009年08月25日 | 旅 歴史

 今日は姫路市本町にある姫路城を紹介します。
 姫路城は、日本を代表する最も完成された城郭建築です。木造城郭建築群と石造りの城壁、白色の土塀から構成される構造が最もよく残っています。しかも、長い歴史の中で一度も戦や火災に巻き込まれることなく、現在にその姿を伝えているのです。
 今日に見る姫路城の全容を整えたのは本多忠政だといわれています。元和4年(1618)長男忠刻とその室千姫(豊臣秀頼に嫁ぎ落城の際助けられた徳川秀忠の長女)のために、西の丸を整備して、現在の規模にしたということです。
 姫路城は播磨の守護職赤松則村が元弘3年(1333)ここに砦を築き、その子貞範が正平元年(1346)城を構えたことに始まりました。そして戦国期は領主は小寺氏が領主でした。小寺氏は天文14年(1545)御着城に移り姫路城は家老の黒田重隆に守らせました。
 重隆の孫が黒田官兵衛孝高、後の黒田如水です。如水は早くから、信長、秀吉へ恭順の意を明らかにし、姫路城を秀吉に献じ自らは別の城に移りました。羽柴秀吉が天正8年(1580)西国攻略の際、如水の進言によりここを根拠地とし、翼9年3層の天守閣を完成させました。 
 天正8年(1580)秀吉が池田輝政、黒田孝高を普請奉行に任じ拡張工事を行ない。巨大な要塞にしました。羽柴秀長、木下家定と続き、関が原の役後、徳川家康の女婿池田輝政(52万石)が入封しました。池田氏は3代続きました。
 池田氏が鳥取に転封となると、伊勢から本多氏が入城しました。本多忠政は今日に見る姫路城の全容を整えました。その後、城主は松平氏、榊原氏と変わり、寛永3年(1749)酒井忠恭が入城後は10代120年に渡って酒井氏が治め明治維新を迎えました。

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斑鳩寺

2009年08月24日 | 旅 歴史
 兵庫県揖保郡太子町鵤にある斑鳩寺(いかるがでら)を取り上げます。
 法隆寺の別院として播磨の国に建てられた寺です。1300年前頃、聖徳太子が御開創になった霊刹です。 昔は七堂伽藍、数十の坊庵がある壮大な寺でしたが450年前戦禍によって焼失しました。その後当山中興昌仙法師等により再建されました。
 仁王門を入ると、法隆寺夢殿を模して作られたという八角円堂の聖徳殿が建っています。寛文5年(1665)に再建された建物で、太子堂とも呼ばれています。会津飯盛山のさざえ堂とそっくりです。聖徳太子16才のとき、父の用明天皇の病気平癒を祈る聖徳太子を写した太子植髪像を祀っています。
 587年4月、用明天皇が新嘗大祭の最中に病気で倒れられました。16才の太子は飲食を絶って七日七夜の間、日夜を問わず柄香炉を捧げてその枕辺に立ち、常行三昧の行法を行い、父の病気平癒を祈ったそうです。植髪太子像はそのときの皇子の姿なのです。
 聖徳殿に対峙するように三重塔が建っています。永禄8年(1565)、赤松政秀の志願で再建された塔で、国の重要文化財に指定されています。輪柱には太子伝来の仏舎利が納められているそうです。
 講堂は、丈六の巨大な三体の座像を本尊として祀っています。ここも国の重要文化財に指定されています。中央に釈迦如来、向かって右手に薬師如来、左手に如意林観音を配しています。止利仏師一刀三礼の作と伝えられています。

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花岳寺

2009年08月24日 | 旅 歴史
 今日は兵庫県赤穂市加里屋にある花岳寺(かがくじ)を紹介します。
 この寺の門は、明治6年に廃城として撤去が決まった赤穂城の塩屋惣門を移築したものだそうです。大石邸長屋門とこの門は赤穂市内に残っている貴重な元禄以前の建物です。額の「臺雲山」(たいうんさん)は花岳寺の山号です。
 正面にある大きな松は、大石内蔵助の母・松樹院が亡くなったときに相生村の裏山から移植したものです。浅野家断絶後、赤穂を発つときに、この松の下でなごりを惜しんだことから「大石なごりの松」といわれています。残念なことに、昭和2年松喰い虫のため枯れ、今のは2代目です。 
 花岳寺は、浅野長直が常陸笠間藩から赤穂藩へ転封になった正保2年(1645)に、浅野家の菩提寺として建立しました。この寺の梵鐘は、2代藩主浅野長友が父長直のために鋳造したものです。
 元禄16年(1703)2月4日に義士たちが切腹した報が赤穂に届くと、町民たちは死を悼み悲しんで花岳寺の梵鐘をつきまくったといいます。それ以来この梵鐘からは音が出なくなり、「鳴らずの鐘」になったといいます。 


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大石内蔵助屋敷

2009年08月23日 | 旅 歴史
 兵庫県赤穂市にある大石内蔵助屋敷です。
 大石内蔵助の屋敷は、間口28間(約50,5m)、奥行45間5尺(約83m)、畳数にして308畳の広い家でした。享保14年の火災で建物の大半が焼失し、現在、長屋門だけが残っています。 



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近藤源八宅跡長屋

2009年08月23日 | 旅 歴史
 兵庫県赤穂市にある近藤源八宅跡長屋です。
 近藤源八正憲は甲州流軍学を修め千石番頭の重職にありました。源八の妻は大石内蔵助の叔母にあたましたが義盟には加わらなかったそうです。源八の父は赤穂城築城の際縄張り設計をしたそうです。ここは「源八長屋」の愛称で親しまれています。
 赤穂城内の江戸期の建物は大石内蔵助宅跡長屋門とここの長屋門だけだそうです。

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大石神社

2009年08月22日 | 旅 歴史
 兵庫県赤穂市にある大石神社を紹介します。
 大正元年(1912)、大石内蔵助良雄はじめ四十七義士と萱野三平を合祀して創建されました。境内には国指定史跡の大石良雄宅跡長屋門や庭園、義士ゆかりの武具・書画などを展示している義士宝物殿があります。大石内蔵助の愛刀「備前長船清光」(太刀)と「備前長船康光」(脇差)などがあります。 義士木像奉安殿は、昭和28年(1953)、義士切腹から満250年の大祭記念に設立されています。大鳥居のある参道には、赤穂義士47士の石造が並んでいます。 
 社殿は、忠臣蔵三百年祭事業の一環として、建て替えられています。また神門(義芳門)は、楠木正成を祀る神戸の湊川神社から昭和17年(1942)に移築したものだそうです。

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赤穂

2009年08月22日 | 旅 歴史
 今日は兵庫県赤穂市上仮屋にある赤穂城を紹介します。
 室町時代に赤松満祐の一族岡豊前守が、天正年間には宇喜多秀家が陣屋を築いていました。刈谷城(加里屋城)と呼ばれていました。関ヶ原合戦後、姫路藩池田輝政の所領となりました。
 赤穂藩の始まりは元和元年(1615)池田輝政の五男池田政綱が2万5千石を与えられて入城してからです。しかし、正保2年(1645)政綱の後を継いだ池田輝興が発狂して妻女を殺害したため、赤穂池田氏は2代31年間で廃絶となりました。
 常陸笠間から浅野長直が5万3千5百石で入封し、慶安元年(1648)から13年間を費やして新城を築きました。築城に当たっては甲州流軍学者の近藤正純、山鹿流の兵法者として有名な大石蔵内助の師匠、山鹿素行も関わったそうです。
 浅野長直・長友・長矩(ながのり)と続き、元禄14年に浅野長矩は、江戸城松の廊下で高家の吉良義央(よしなか)に刃傷に及び、即日切腹させられました。そして赤穂浅野家は取り潰しとなったのです。元禄15年(1702)12月14日、大石内蔵助を首領とする赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入り、主君の仇を討ちました。これは単なる仇討ちだけではなく、幕府の政道を問う歴史的大事件でもありました。
 討ち入りから浪士の人数である47年目に仮名手本忠臣蔵が大坂の竹本座で初演されました。以後、赤穂浪士事件は「忠臣蔵」と呼ばれるようになったそうです。
 浅野家取り潰し後の赤穂城は下野国烏山(栃木県)から永井直敬が3万3000石で入封しました。4年後森長直と替わり以後代々森氏2万石の居城となり11代で明治維新を迎えたということです。

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興禅寺

2009年08月21日 | 旅 歴史
 兵庫県丹波市春日町黒井にある興禅寺です。
 大梅山興禅寺は曹洞宗のお寺で、本尊は釈迦如来です。徳川家光の乳母として有名な「春日局生誕の地」として知られる国指定史跡です。
 水をたたえた七間濠、高石垣と白いぬり塀をめぐらせた興禅寺は、黒井城の下館でした。下館とは戦国時代の城主が合戦がない平時に住んだ場所のことです。
 お福の父、斉藤内蔵利三は明智光秀の重臣で、丹波攻めで黒井城を落とした後、下館を陣屋に改めたのです。
 興禅寺の前身は「杖林山誓願寺」という真言宗のお寺でした。今の位置から150m下った場所にあったようです。八木城城主内藤宗勝が黒井城を攻城した時に誓願寺は戦火にあい焼失してしまいました。
 寛永3年(1626)下館跡に現在の興禅寺が建てられました。山号、宗派、寺名も変えましたが開基は誓願寺の復興に努力した黒井城城主荻野悪右衛門直正(赤井直正)となっています。
 お福(春日局)産湯の井戸が残されています。深さ1.7mで、お福が初湯に浸かったと伝えられています。


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やぐら公園

2009年08月21日 | 旅 歴史
 兵庫県丹波市柏原にあるやぐら公園です。
 JR福知山線柏原駅前に「やぐら公園」があります。平成12年(2000)に江戸時代からある本物の市指定文化財の太鼓やぐらを模してやぐらが作られました。
 この「時の太鼓やぐら」は、高さが約8.5mあります。からくり時計になっていて、最上階のロボットが太鼓を打ち鳴らした後、舞を披露する仕組みになっています。

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高源寺

2009年08月21日 | 旅 歴史
 今日は兵庫県丹波市青垣町桧倉にある高源寺を紹介します。
 瑞巌山高源寺は兵庫県丹波市(旧氷上郡青垣町)にある臨済宗妙心寺派のお寺です。本尊は釈迦如来で、もみじの寺として知られています。
 高源寺は正中2年(1325)遠渓祖雄(えんけいそゆう)禅寺によって開山されました。祖雄は徳治元年(1306)元(中国)にわたって杭州にある天目山で普応国師(中峰明本)に学び、正和4年(1315)帰朝しました。
 永正14年(1517)後柏原天皇の勅願寺となり、大いに栄え、末寺3千を超える丹波の名刹となりました。
 織田信長の命を受けた明智光秀の丹波攻めですべてが焼失してしまいました。江戸時代に入り元の場所から離れて再建されたそうです。
 寺宝の絹本着色普応国師像(画)は祖雄が帰国に際し、師の普応国師から授けられたもので、国の重要文化財に指定されています。
 祖雄はこの高源寺を開く時、天目山と似ている岩屋山を選び、都から離れたこの地を根本道場にしたようです。天目楓(てんもくかえで)の種を持ち帰り植えたようです。
 約1万平方mの広い境内には、方丈、仏殿、山門、客殿、多宝塔などが建ち並んでいます。仏殿は享保5年(1720)年頃、初めに再建され、山門と高さ20mの三重塔は寛政2年(1790)頃、再建されたそうです。
 秋には数百本の小ぶりな天目楓と千本以上ある紅葉が鮮やかに取り囲みます。丹波紅葉三山の一つにも数えられています。

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生野銀山

2009年08月20日 | 旅 歴史
 兵庫県朝来市生野町小野にある生野銀山です。
 生野銀山は兵庫県中央部、朝来(あさご)市にあった銀山です。生野町は明治22年(1889)以来、百年以上合併をしないで独立独歩で歩んできましたが、平成17年(2005)4月に合併して朝来市となりました。
 生野銀山の開坑は、大同2年(807)といわれていますが、はっきりした年代はわからないようです。文献や様々な資料から、中世戦国時代にはすでに本格的に操業されていたようです。応永34年(1427)山名時熈(ときひろ)が赤松満祐討伐のために、生野に来て古城山に山城を築き、これが後に銀山への拠点となりました。 
  室町の天文11年(1542)には山名祐豊(すけとよ)が銀鉱脈を発見、本格的な採掘が始まったそうです。その後、竹田城主太田垣氏を経て織田信長、豊臣秀吉の直轄地になります。
 江戸時代には徳川家康が「銀山奉行」を設置しました。佐渡金山、石見(いわみ)銀山と並び徳川幕府の貴重な財源になりました。この頃、小野の金香瀬周辺だけでなく、白口方面にも鉱脈が発見されていきました。
 三代将軍家光の時、最盛期を迎えました。月産150貫(約562kg)の銀を産出したそうです。生野の銀は朝鮮の綿布や中国の絹と交換貿易された日本の主要な輸出品になっていました。
 明治元年(1868)生野銀山は政府直轄の鉱山になりました。フランス人技師ジャン・フランソワ・コワニエが招き、軌道や巻揚機の新設など数々の先進的施策を行ない、目覚ましい近代化を成し遂げました。坑口は、フランス式の石組で築造されています。
 明治22年(1889)に宮内省御料局の所管に移され皇室の財産になりました。明治29年(1896)には三菱合資会社に払い下げられ、国内有数の大鉱山となりました。昭和48年(1973)「山はね」や落盤など鉱山の老朽化、地下資源の枯渇による品位の低下などからに閉山したのでした。
 その間掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達っしました。採掘した鉱石の種類は70種にも及んでいます。現在は旧坑道や鉱石標本などを活用した観光施設「史跡生野銀山」として生まれ変わり、多くの観光客が訪れています。

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生野鉱物館・鉱山資料館

2009年08月20日 | 旅 歴史
 兵庫県朝来市生野町小野にある生野鉱物館・鉱山資料館です。
 主な事業内容 鉱山の様子を観光坑道、鉱山資料館で見ることが出来ます。国内産出鉱石標本では国内最大級の生野鉱物館で見ることが出来ます 。
 鉱物館では世界的に有名な「三菱ミネラルコレコション」、そして和田維四郎(つなしろう)、木内石亭(せきてい)などのコレクション、約2千点の貴重な鉱物を収蔵、展示しています。

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家原遺跡公園

2009年08月20日 | 旅 歴史
 今日は兵庫県宍粟市一宮町三方町家原にある家原遺跡公園(えばらいせきこうえん)を紹介します。
 家原遺跡公園は三方盆地を一望におさめる一宮町北部の河岸段丘の上に営まれた縄文時代から中世にかけての大規模な複合遺跡、家原遺跡に造られた公園です。
 平成4年(1992)からの調査では、縄文、弥生、古墳時代の竪穴住居跡、奈良時代の廃棄土坑、平安から鎌倉時代の掘建柱建物跡など多くの遺構が確認されています。
 遺跡公園内には、家原遺跡で実際に発掘された遺構をもとに、竪穴住居や高床式の建物、掘建柱建物など12棟を忠実に復元しています。


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穴栗市歴史資料館

2009年08月19日 | 旅 歴史
 兵庫県宍粟市一宮町三方町にある穴栗市歴史資料館(しそうしれきししりょうかん)です。
 穴栗市は兵庫県中西部に位置する新しい市です。歴史資料館は、明治時代に建築された旧三方村役場の洋館風庁舎を模した建物です。白塗の板壁に屋根は瓦葺き、2階の正面にはバルコニーがあります。
 一宮町内の前方後円墳を含む伊和中山古墳群や縄文時代から中世にいたる大規模な複合集落跡である家原遺跡の出土遺物や資料を展示しています。12の復元建物「古代の村」があります。

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不動院岩屋堂

2009年08月19日 | 旅 歴史
 今日は鳥取県八頭郡若桜町にある不動院岩屋堂を紹介します。
 不動院岩屋堂は吉川の川のほとりにそそり立つ真言宗醍醐派の修験道寺院です。創建は大同元年(806)といわれています。中世以前、本寺である妙高山神光寺は寺領150石を有する大伽藍を誇りましたが、天正年間(1573-1591)秀吉来攻の際に焼失してこの岩屋堂だけが焼け残ったと伝えられています。
 現在の堂は鎌倉時代初期の源頼朝による再建と伝えられましたが、昭和30年(1955)から32年にわたって行われた解体修理で室町時代初期頃の建立と推定されています。昭和29年(1954)に国の重要文化財の指定を受けています。
 高さ約13m、間口約7m、奥行約10mの天然の岩窟に嵌め込まれるようにして造られた寺院建築で、屋根は前面が入母屋造り、背面が切妻造り、床下が舞台造りになっています。

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