8時半、起床。快晴の立春である。朝食はハムトーストと紅茶。新聞の書評欄に目を通してから、答案の採点作業に取りかかる。昼食は炒飯。昼寝を1時間ほどして、採点作業を再開。作業に飽きてきたら、富山栄輔『サーファー真木藏人』をパラパラと読む。G君の卒論「サーファーの社会学的研究」の参考文献の一冊で、面白そうだったので、Amasonに出品されていた中古本(定価1200円がわずか247円。ただし郵送代が340円かかる。それでも安いが)を取り寄せたのである。サーファーとは単にサーフィンをする人ではなく、一つのライフスタイルである、と著者は述べている。
「『キープ・サーフィン』という言葉がある。
『一生サーフィンを続けよう』という、サーファーの間で古くから合い言葉のように使われている言葉だ。
多くの人が一度はサーフィンを体験するが、同じように多くの人がサーフィンから離れていく。若い頃はサーフィンだけに没頭していればよかったものが、就職すると当然サーフィンに費やす時間は制限される。しかも休みの日にいい波があるとは限らない。しばらくすると仕事は忙しくなり、結婚して子供ができると海に行く時間はさらに少なくなる。当然体力も落ちてくる。たまに海に行っても、若い頃のように波に乗れない。海の中で邪魔者になっている疎外感。そしてサーフィンは楽しいものではなくなり、いつしか海から離れていく。
いつまでもサーフィンを楽しみ、続けるためには、サーフィンのためのライフスタイルを作っていく必要がある。
いかに気持ち良くサーフィンするかを大きなテーマとして生活を作っていかないことには、サーフィンはいつしか楽しいものではなくなってしまうものだ。
しかし、大人になれば仕事をしなければならないし、妻や子を養っていかなければならない。社会的なことを全て捨て去ってサーフィンだけに人生を捧げるサーファーもいるが、そういう生活が本当に幸せなものかどうかには大きな疑問がある。
サーフィンといかに付き合っていくか、いかにサーフィンを続けるかは、サーファーにとって永遠のテーマなのだ。」(40-41頁)
サーフィンはその自然志向において数あるスポーツの中の筆頭である。自然志向は、それをどこまでも推し進めれば、社会からのドロップアウトにつながる。実際、社会からドロップアウトしてしまったサーファーを指す「磯乞食」という言葉もある。もちろんそんなサーファーはごく一部で、多くのサーファーは仕事や家庭と折り合いをつけながらサーフィンを続けるか、社会の荒波に呑み込まれてしまうかのどちらかだ。
サーフィンについて言えることは、ある程度まで、読書についてもあてはまる。「キープ・リーディング」すなわち「一生読書を続けよう」。私が企業に就職しなかったのは、金儲け(営利追求)に関心がなかったこともあるが、読書中心の生活を続けたかったからでもある。読書それ自体は消費活動、非生産的な活動である。読書だけしていたのでは生活の糧を得ることはできない。それ故、読書と密接に関連した活動、すなわち読書から得たこと(およびそれを材料にして考えたこと)を話したり書いたりすることで、生活の糧を得る方法はないものかと考え、もし書評を書いて生計が立つのであれば、これが一番理想の商売だが、世の中を見渡すに書評の専門家というのはおらず、どれも作家・評論家の副業ないし余技としての書評である。しかし作家・評論家という職業はなろうと思ってなれるものではない。出版社に就職することもチラッと考えたが、そこには読書が好きな人は多いであろうが、やはり企業には違いないわけだから、読書中心の生活ができるとは思えなかった。図書館の職員というのはかなり魅力的だったが、自分の父親(千代田区役所の職員だった)のことを考えてみるに、図書館の職員はたまたま図書館に配属されているだけで、定年までずっと図書館の職員でいられるわけでない。古本屋の店主は老人になってからの仕事に思えた。結局、大学の教師を目指すことにしたのであるが、では、現在、読書中心の生活を送れているかというと、自分が学生の頃に思い描いていたほどではない。ただし読書の概念を拡張して、学生の卒論やレポートや答案を読むことも読書の一部なのだと考えれば、読書中心の生活といえなくもない。欲を言えば切りがないから、この辺で手を打っておくべきだろう。
夕食はピーマンの肉詰め、タコと水菜とレタスのサラダ、ジャガイモと若布の味噌汁、御飯。深夜、採点作業終わる。今日も一日、散歩にも出ず、読書中心の生活だった。
「『キープ・サーフィン』という言葉がある。
『一生サーフィンを続けよう』という、サーファーの間で古くから合い言葉のように使われている言葉だ。
多くの人が一度はサーフィンを体験するが、同じように多くの人がサーフィンから離れていく。若い頃はサーフィンだけに没頭していればよかったものが、就職すると当然サーフィンに費やす時間は制限される。しかも休みの日にいい波があるとは限らない。しばらくすると仕事は忙しくなり、結婚して子供ができると海に行く時間はさらに少なくなる。当然体力も落ちてくる。たまに海に行っても、若い頃のように波に乗れない。海の中で邪魔者になっている疎外感。そしてサーフィンは楽しいものではなくなり、いつしか海から離れていく。
いつまでもサーフィンを楽しみ、続けるためには、サーフィンのためのライフスタイルを作っていく必要がある。
いかに気持ち良くサーフィンするかを大きなテーマとして生活を作っていかないことには、サーフィンはいつしか楽しいものではなくなってしまうものだ。
しかし、大人になれば仕事をしなければならないし、妻や子を養っていかなければならない。社会的なことを全て捨て去ってサーフィンだけに人生を捧げるサーファーもいるが、そういう生活が本当に幸せなものかどうかには大きな疑問がある。
サーフィンといかに付き合っていくか、いかにサーフィンを続けるかは、サーファーにとって永遠のテーマなのだ。」(40-41頁)
サーフィンはその自然志向において数あるスポーツの中の筆頭である。自然志向は、それをどこまでも推し進めれば、社会からのドロップアウトにつながる。実際、社会からドロップアウトしてしまったサーファーを指す「磯乞食」という言葉もある。もちろんそんなサーファーはごく一部で、多くのサーファーは仕事や家庭と折り合いをつけながらサーフィンを続けるか、社会の荒波に呑み込まれてしまうかのどちらかだ。
サーフィンについて言えることは、ある程度まで、読書についてもあてはまる。「キープ・リーディング」すなわち「一生読書を続けよう」。私が企業に就職しなかったのは、金儲け(営利追求)に関心がなかったこともあるが、読書中心の生活を続けたかったからでもある。読書それ自体は消費活動、非生産的な活動である。読書だけしていたのでは生活の糧を得ることはできない。それ故、読書と密接に関連した活動、すなわち読書から得たこと(およびそれを材料にして考えたこと)を話したり書いたりすることで、生活の糧を得る方法はないものかと考え、もし書評を書いて生計が立つのであれば、これが一番理想の商売だが、世の中を見渡すに書評の専門家というのはおらず、どれも作家・評論家の副業ないし余技としての書評である。しかし作家・評論家という職業はなろうと思ってなれるものではない。出版社に就職することもチラッと考えたが、そこには読書が好きな人は多いであろうが、やはり企業には違いないわけだから、読書中心の生活ができるとは思えなかった。図書館の職員というのはかなり魅力的だったが、自分の父親(千代田区役所の職員だった)のことを考えてみるに、図書館の職員はたまたま図書館に配属されているだけで、定年までずっと図書館の職員でいられるわけでない。古本屋の店主は老人になってからの仕事に思えた。結局、大学の教師を目指すことにしたのであるが、では、現在、読書中心の生活を送れているかというと、自分が学生の頃に思い描いていたほどではない。ただし読書の概念を拡張して、学生の卒論やレポートや答案を読むことも読書の一部なのだと考えれば、読書中心の生活といえなくもない。欲を言えば切りがないから、この辺で手を打っておくべきだろう。
夕食はピーマンの肉詰め、タコと水菜とレタスのサラダ、ジャガイモと若布の味噌汁、御飯。深夜、採点作業終わる。今日も一日、散歩にも出ず、読書中心の生活だった。