フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2月14日(水) 雨のち曇り、春一番吹く

2007-02-15 02:54:21 | Weblog
  午前中、かかりつけの大学病院で持病の尿管結石の定期検査。異常なし。中年になると、いろいろと身体のメンテナンスを心掛けねばならないので大変だが、健康に不安を抱えていては仕事や趣味に打ち込めない。今日は母も同じ病院で定期検査があり、持病の糖尿病の具合は先月より持ち直したようである。病院の近所の和菓子屋で苺大福を買って帰る。今日ぐらいは甘いものもいいだろう。甘いものと言えば、今日はバレンタインデーで、妻と母からチョコレートをもらう。娘はケーキを買ってきてくれた。
  小川洋子『物語の役割』を読み終える。実作者による物語論として面白く読めた。たくさん傍線を引いた中から、3箇所だけ引用しておこう。

  「たとえば、非常に受け入れがたい困難にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語を作っているわけです。…(中略)…作家は特別な才能があるのではなく、誰もが日々の日常生活の中で作り出している物語を、意識的に言葉で表現しているだけのことだ。自分の役割はそいういうことなんじゃないのかと思うようになりました。」(22頁)

  「何かが起こる。それを表現する。紙の上に再現する。これが言葉の役割です。言葉が最初にあって、それに合わせて出来事が動くことは絶対にありえません。ですから過去を見つめることが、私は小説を書く原点だと思います。
  小説を書いているときに、ときどき自分は人類、人間たちのいちばん後方を歩いているなという感触を持つことがあります。人間は山登りをしているとすると、そのリーダーとなって先頭に立っている人がいて、作家という役割の人間は最後尾を歩いている。先を歩いている人たちが、人知れず落としていったもの、こぼれ落ちたもの、そんなものを拾い集めて、落とした本人さえ、そんなものを自分が持っていたと気づいていないようなものを拾い集めて、でもそれが確かにこの世に存在したんだという印を残すために小説を書いている。そういう気がします。」(75頁)

  「自分が死んだ後に、自分の書いた小説が誰かに読まれている場面を想像するのが、私の喜びです。そういう場面を想像していると、死ぬ怖さを忘れられます。
  だから今日もまた私は、小説を書くのです。」(122頁)

  私がいま取り組んでいる『清水幾太郎と彼らの時代』は、小説ではなく、評伝である。それも文学的評伝ではなく、社会学的評伝(ライフコースの事例研究)である。しかし、小川洋子の言っていることは、社会学的評伝についてもあてはまることが多い。清水幾太郎という一人の知識人の人生の物語と、この百年の日本人(庶民・大衆)の人生の物語のシンクロナイズ(そして反シンクロナイズ)を記述し、分析すること。健康チェックも終わったので、気合を入れて取りかかるとしよう。

  声散って春一番の雀たち 清水基吉