フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2月17日(土) 晴れのち雨

2007-02-18 03:05:26 | Weblog
  7時半、起床。朝食はひしゃも、焼売、御飯。午前中は原稿書き。昼食は雑煮。午後から大学へ。午後9時頃まで入試関連の業務。右腕がだるくなる。夕食はお弁当(ちらし鮨)。
  帰りの車内で、アンドルー・ゴードン『日本の200年』上巻(みすず書房)を読み始める。それほど期待しないで読み始めたのだが、面白くて、危うく蒲田駅を乗り越すことろだった。この本の特色はその原題に端的に表れている。

  「本書のタイトル A Modern History of Japan(日本の近現代史)は、近現代性と相互関連性というふたつのテーマの重要性を表現している。本書のような作品には、Modern Japanese History(近代日本史)というタイトルをつけるのが普通だろう。そのようなタイトルをつけるということは、日本的特殊性が叙述の中心になることを示唆する、という意味をもつはずであり、「近代」と呼ばれている時代にたまたま生じた、特殊「日本的な」物語へと読者の目を向けさせる、というニュアンスをもつだろう。本書は、日本的であることと近代性とのあいだのそのようなバランスを転換したいという狙いから、A Modern History of Japan を採用した。ここでは、日本と呼ばれる場でたまたま展開した、特殊「近代的な」物語が語られることになる。
  言い換えると、日本の近現代史は、一貫して、より広範な世界の近現代史と不可分のものだったのであり、したがって、相互連関性が本書の中心的なテーマのひとつでなければならない。国外からもたらされた思想、できごと、製品やモノ、物的・人的資源は、あるときはプラスの方向に、あるときはマイナスの方向に向けて、日本におけるできごとに大きな影響をおよぼしてきたし、逆もまた真であった。このダイナミックな過程で、日本で暮らす人々は、他の地域で暮らす人々と多くを共有してきた。」(「まえがき」より)

  要するにグローバルな視点から書かれた日本の近現代史(19世紀と20世紀)である。10年ほど前に「新しい歴史教科書を作る会」が作成した英文のパンフレットに「それぞれの国は、他の国々とは異なる独自の歴史認識をもっている。さまざまな国が歴史認識を共有することは不可能である」と書かれていたそうだが、著者の立場はこれと真っ向から対立する。すなわち、「日本の近現代史が、全世界に共通の近現代史というテーマにかんする一連のバリエーションとして理解可能だという」立場である。かつてのマルクス主義的歴史学もそういう全世界に共通の近現代史というものを想定していたが(資本主義から社会主義へという物語)、本書が想定しているのはそれとはまた別の物語、「ますますグローバル化する世界」という物語である。
  「ますますグローバル化する世界」という物語の視点からすると、大学入試で、日本史と世界史のどちらかを選択させるのはあまりに旧態然としたやり方ということになろう。「歴史」という1つの科目にしてしまって、英語と国語と歴史の3科目で入試(私立文系の場合)ということにしたらどうか。
  社会学の演習での発表などを聞いていて感じることは、学生たちは最近10年間くらいのことしか知らないのではないかということである。なんでもかんでも近年の現象、傾向だと思い込んでいるところがある。彼らが「昔は…」と言うとき、10年前も、20年前も、高度成長期も、戦後復興期も、戦中も、戦前も、みんな一緒くたにして「昔は…」である。だから授業では、そうじゃないんだというところから話をしていかなくてはならず、けっこう骨が折れる。日本の近現代史についてのしっかりした知識の上に立って「いま」を論じてほしい。
  10時半、帰宅。風呂を浴びてから、録画しておいたNHKのTVドラマ「ハゲタカ」(全6回)の初回を観る。金融モノのドラマとしては、『華麗なる一族』よりも断然面白い。