9時、起床。朝食はドライカレーとボタージュスープ。食後、フィールドノートの更新。中村光夫選『私小説名作選』(集英社文庫)所収の徳田秋声「風呂桶」を読む。大正13年の作である。冒頭から引き込まれる。
「津島はこのごろ何を見ても、長くもない自分の生命を測る尺度のような気がしてならないのであった。好きな草花を見ても、来年の今ごろにならないと、同じような花が咲かないのだと思うと、それを待つ心持が寂しかった。一年に一度しかない、旬のきまっている筍だとか、松茸だとか、そういうものを食べても、同じ意味で何となく心細く思うのであった。不断散歩しつけている通りの路傍樹の幹の、めきめき太ったのを見ると、移植された時からもう十年たらずの歳月のたっていることが、またそれだけ自分の生命を追い詰めているのだと思われて、いい気持がしないのであった。」
この『私小説名作選』には26篇のいわゆる私小説(作者の実体験と心情を書いた小説)が年代順に収められていて、「風呂桶」は2番目に配置されている。筆頭は田山花袋「少女病」(明治40年)である。どこにでもいそうな人間が自身の日常を語る、それも赤裸々に語るというのが、私小説のポイントである。私小説は明治の終わり頃に出現した新しい文学ジャンルであるが、日本文学には「日記」の伝統があり、日本社会には「正直」という徳目があった。そうした土壌に「口語文体」という新しい語り口と西洋流の「懺悔」という内面開示の手法が移植されて、告白文学としての私小説が誕生したのである。「私」を語りたいという欲望は、「私」への関心の高まり(個人主義の普及の一側面)と、「私」の抑圧の高まり(資本主義の普及の一側面)と表裏一体のものである。私小説を読むという行為は、他者の「私語り」に耳を傾けることであるが、その語りに自分の内部にあるものと同じものや似たものを見出すとき、自己の「私語り」の代替行為となる。また、自己の「私語り」を始めるときのモデルとしても機能する。自分のことを赤裸々に語るといっても、そこにはおのずから上手下手が生まれる。説得力の有無が生じる。「私語り」とは自己提示=印象管理の一つの方法である以上、他者(読み手)の反応に無関心でいることはできないのである。私小説の誕生から100年(ちょうど100年!)、私小説はブログという新たな形態に進化してますますの隆盛を迎えている。
昼から大学へ。今日は大学院の後期課程の入試である。昼食は「すず金」の鰻重。午後2時から現代人間論系の会合。新学部のあれこれの制度について意見交換を行う。午後3時から試験の採点。4時過ぎに終わり、大学を出る。研究棟前の白梅が例年よりも早く見頃を迎えている。

丸善丸の内店に寄って、高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』(文藝春秋)を購入。蒲田に着いてから、シャノアールでアイスココアを飲みながら、読む。帰宅して、風呂を浴び、夕食。餃子、餃子、餃子。お腹一杯食べる。食後、『ミヤザワケンジ・グレティストヒッツ』を読んでから、春休み中の原稿執筆のプラン作り。深夜、しばらく前に録画しておいた内田有紀主演の2時間ドラマ『地方紙を買う女』を観る。松本清張原作のサスペンスだが、なかなかよかった。内田は薄幸の女性(犯罪者)という役がよく似合う女優になった。
「津島はこのごろ何を見ても、長くもない自分の生命を測る尺度のような気がしてならないのであった。好きな草花を見ても、来年の今ごろにならないと、同じような花が咲かないのだと思うと、それを待つ心持が寂しかった。一年に一度しかない、旬のきまっている筍だとか、松茸だとか、そういうものを食べても、同じ意味で何となく心細く思うのであった。不断散歩しつけている通りの路傍樹の幹の、めきめき太ったのを見ると、移植された時からもう十年たらずの歳月のたっていることが、またそれだけ自分の生命を追い詰めているのだと思われて、いい気持がしないのであった。」
この『私小説名作選』には26篇のいわゆる私小説(作者の実体験と心情を書いた小説)が年代順に収められていて、「風呂桶」は2番目に配置されている。筆頭は田山花袋「少女病」(明治40年)である。どこにでもいそうな人間が自身の日常を語る、それも赤裸々に語るというのが、私小説のポイントである。私小説は明治の終わり頃に出現した新しい文学ジャンルであるが、日本文学には「日記」の伝統があり、日本社会には「正直」という徳目があった。そうした土壌に「口語文体」という新しい語り口と西洋流の「懺悔」という内面開示の手法が移植されて、告白文学としての私小説が誕生したのである。「私」を語りたいという欲望は、「私」への関心の高まり(個人主義の普及の一側面)と、「私」の抑圧の高まり(資本主義の普及の一側面)と表裏一体のものである。私小説を読むという行為は、他者の「私語り」に耳を傾けることであるが、その語りに自分の内部にあるものと同じものや似たものを見出すとき、自己の「私語り」の代替行為となる。また、自己の「私語り」を始めるときのモデルとしても機能する。自分のことを赤裸々に語るといっても、そこにはおのずから上手下手が生まれる。説得力の有無が生じる。「私語り」とは自己提示=印象管理の一つの方法である以上、他者(読み手)の反応に無関心でいることはできないのである。私小説の誕生から100年(ちょうど100年!)、私小説はブログという新たな形態に進化してますますの隆盛を迎えている。
昼から大学へ。今日は大学院の後期課程の入試である。昼食は「すず金」の鰻重。午後2時から現代人間論系の会合。新学部のあれこれの制度について意見交換を行う。午後3時から試験の採点。4時過ぎに終わり、大学を出る。研究棟前の白梅が例年よりも早く見頃を迎えている。

丸善丸の内店に寄って、高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』(文藝春秋)を購入。蒲田に着いてから、シャノアールでアイスココアを飲みながら、読む。帰宅して、風呂を浴び、夕食。餃子、餃子、餃子。お腹一杯食べる。食後、『ミヤザワケンジ・グレティストヒッツ』を読んでから、春休み中の原稿執筆のプラン作り。深夜、しばらく前に録画しておいた内田有紀主演の2時間ドラマ『地方紙を買う女』を観る。松本清張原作のサスペンスだが、なかなかよかった。内田は薄幸の女性(犯罪者)という役がよく似合う女優になった。