フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2月5日(月) 晴れ

2007-02-06 03:47:49 | Weblog
  今日は採点作業の予備日だったのだが、昨日頑張って採点作業を終わらせたので、久しぶりのオフである。近所の写真館へ行って、教職員証の更新用の写真を撮ってもらう。4枚で3000円。娘が就活の履歴所用に撮ったときは2500円だったそうだが、学生料金なのだろう。出来上がった写真はいくらか修正が施されている。捏造はいけないが、3000円も払っているのだ、このくらいはやってもらわないと割が合わない。数年に一度、証明写真を撮るわけだが、確実に老化しているのがわかる。つらい現実だが、こればっかりは修正が効かない。
  昼飯は外に食べに出る。駅前の商店街の中ほどにある「若貴」という回転鮨屋に入る。回転鮨屋ではあっても、こちらの注文に応じて握ってくれる。実際、回転している鮨はネタも酢飯も少々乾き気味なので、もっぱら注文して握ってもらう。大トロ2皿、赤身、アジ、コハダ、ホタルイカ、ネギトロ巻を各1皿。計7皿食べて、お勘定は982円。驚くべき安さである。
  シャノアールで珈琲を飲みながら、持参した武藤光朗『現代日本の挫折と超越』(創文社、1993年)を読む。先日、「日本の古本屋」のサイトで購入した本である。武藤光朗は、『社会主義と実存哲学』(1958年)や『現代日本の精神状況』(1966年)などの著作や、ヤスパースの『哲学的世界定位』の翻訳などで知られる哲学者で、1998年に84歳で亡くなっている。私が大学3年のとき非常勤で文学部の人文専修の演習を担当されており、私はそこで武藤先生と出会った。大塚久雄の名著『社会科学の方法』を読んだことは覚えているが、他にどんな本を読んだかは忘れてしまった。印象に残っているのは、武藤先生のスマートな物腰と清廉な雰囲気である。私は武藤先生に学者というものの典型を見ていたように思う。しかし、実際の先生は、世俗を離れた哲学者ではなく、現実の政党政治や労働組合運動に一定のスタンスで積極的に関わっておられた。

  「一九六〇年一月、私たち「民主社会主義研究会議」(略称「民社研」)のメンバーは「民主社会主義」を党の理念としてかかげる民主社会党の結成に協力した。
  近代資本主義の非人間性の克服を目ざした近代社会主義の運動は、二十世紀の歴史を通じて、スターリン独裁とヒトラー独裁に代表される左右の全体主義恐怖政治を出現させてしまった。その歴史の逆説への反省のもとに、「社会主義」はあくまでも「民主的」でなければならないという自覚が、その「民主社会主義」という党理念の言語的表現には込められていた。
  近代資本主義的利潤追求が社会生活にもたらした経済的不平等に対して、その解消を目指した社会主義的平等化が、個人の自由を抹殺する全体主義恐怖政治を出現させてしまった。-近代的自我の解放の歴史的過程がもたらしたこうした矛盾を乗り越えようとする苦心の跡が、この「民主社会主義」という言葉にはにじみ出ている。
  しかし近代的自我の解放が求める自由と平等の矛盾を止揚する私たちの行動を根源的に動機づけるものは、友愛の精神である。自分自身と平等に自由な魂を持つ他人の存在を求める意思が友愛の精神にほかならないからである。
  それゆえ、民社党結成当時の党の理念としての「民主社会主義」は、もっと人間的に、「友愛民主主義」と表現されてもよかったのではないか。」(139-140頁)

  これは1990年に書かれた「『友愛民主党』を待望する-その綱領私案-」という文章の一部である。武藤先生は民社党の知的ブレーン集団である民社研の中心的メンバーであった。しかし教室では政治的な話は一切されなかった。私が政治にあまり関心がなかったので覚えていない可能性もあるが、おそらくはマックス・ウェーバーの価値自由の理念を貫いておられたのだと思う。私は、一度、大森山王の先生のご自宅まで行ったことがある。夏休みのレポートを郵送していたのでは締切に間に合いそうもなかったので、直接先生のご自宅のポストに入れに行ったのである(いまの私の締切ギリギリ生活は昨日今日始まったものではない)。レポートをポストに入れて、それで回れ右をして帰ってきた。いまにして思えば、玄関のブザーを鳴らして、先生に直接お渡しすればよかったと思う。そうすれば「まぁ、ちょっと上がっていきなさい」ということになり、先生とお話ができたであろうに。『現代日本の挫折と超越』は先生晩年の論文集である。「新しい改革者を求めて」という1992年の論文の中では、村上春樹『ノルウェーの森』(1987年)が分析の対象として取り上げられている。当時、先生は78歳であったはずだが、その感性の若々しさに驚く。武藤先生といまお話ができたらと思う。でもそれはもう叶わない。先生が後半生を賭けて支持した民社党は政党再編の荒波の中で1994年12月に解党した。

  「僕は夏になって街に戻ると、いつも彼女と歩いた同じ道を歩き、倉庫の石段に腰を下ろして一人で海を眺める。泣きたいと思う時にはきまって涙が出てこない。そういうものだ。」(村上春樹『風の歌を聴け』講談社文庫版、150頁)