午前9時、起床。朝食は焼売、ひじきの煮物、御飯。午前中、『知識人と狂信』所収の武藤光朗の論文の最後の1本「暴力革命とエロス的幻想」(1969年)を読む。今回、同じ筆者のものを短期間にまとめて読んで、彼の思考のスタイルというものがわかった気がする。
昼食は妻が買ってきた菓子パン(調理済みパンというのか)3個。ゆで卵とレタスのサンドイッチ、照り焼きチキンをナンではさんだもの、クリームパン。食べながら先日録画しておいたベルリンフィルの木管五重奏団の演奏(ダンツィ「木管五重奏曲ヘ長調作品56」ほか)を聴く(観る)。同じ室内楽でも弦楽四重奏団などとは違って、演奏中の体の動きは小さい。5人全員が中高年男性ということもあって、紳士的な雰囲気が漂っている。ところで、私は子どもの頃から、楽章と楽章の間のわずかな演奏中断の時間帯になぜ拍手をしてはいけないのかがわからなかった。どうして最後の楽章が終わるまで拍手を我慢しなくてはならないのか、間で拍手をすると奏者の緊張感が途切れるからよくないのだろうか、あちこちで咳払いの音がするが本当にみんな喉払いをしたいのだろうか、この静寂が気まずくてわざと咳払いをしているのはないのかなど、あれこれ考えた。実をいうと、いまだによくわからない。5人の奏者は間の時間にどうしているのか注意していたら、ハンカチで額の汗を拭いたり、口元を拭ったり、楽譜のページをめくったり、静かに呼吸を整えたり、いろいろであった。次の楽章のスタンバイ・オーケーになるタイミングには個人差があって、ちょうど競馬でゲートに入るタイミングが馬によって違うのに似ている。早くスタンバイができている奏者は、「まだかな?」みたいな感じで、スタンバイの遅い奏者は「おまたせしました」みたいな感じで、無言でアイコンタクトを交わしている。表情はみな硬く、緊張感が持続している。もしこの瞬間に、聴衆のだれかが拍手をすれば、奏者はそちらを向いてニッコリ会釈をするのではないか、そしてリラックスした雰囲気が会場全体に生まれるのではないか、そんなことを想像した。しかしそうした行為をするのは、喫茶店でクリームソーダのお代わりをする以上に難しい。
昼寝をしようか、散歩に出ようか考えて、散歩に出ることにした。まだ午後の早い時間だったので、電車に乗って、上野の東京都美術館でやっている「オルセー美術館展」を観にいく。1月27日の公開初日から2週間が経っているし、平日だし、と思って出かけたのだが、けっこう混んでいた。やはり印象派は人気がある。ポスターやチケットに使われているマネの「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ」は、かつてヴァレリーがマネの最高傑作と評した作品で、今回の展覧会の人気の要因の1つになっていると思うが、東京都美術館のホームページに載っている写真は実物よりもずいぶんと表情がきつい。これはどうしたことだろう。実物のほうがずっと魅力的です。今回の企画で興味深かったのは、「芸術家の生活」というセクション(5つのセクションのうちの1つ)。ここにはマネのモリゾの肖像画のように画家が他の画家や作家を描いた絵が展示されている。芸術家というと変わり者というか、人付き合いが苦手な孤高の人といったイメージがあるけれど、ゴッホとゴーギャンという有名な例もあるように、芸術家同士の親交や社交は盛んだった。きっとそうやって切磋琢磨しながら、孤独の病に陥らないようにしていたのだろう。それにしてもバジールという画家はずいぶんと背が高かったのだな。アトリエに集まった芸術家たちの群像を描いた絵が2枚あるのだが、バジールは飛び抜けて背が高い。2メートル近くあったんじゃないだろうか。ルノアールの「バジールの肖像」は椅子に座ってキャンバスに向かっているバジールを描いたものだが、背中を丸くし、長い足をもてあましているように見える。バジールは、印象派の運動の帰結を見ることなく、29歳のときに普仏戦争に志願して戦場で死んだ。これも彼の体格が立派だったせいのような気がしてならない。
夕食は海鮮鍋。最後に御飯にスープをかけて食べるのが楽しみ。食後、高橋源一郎『ミヤザワケンジ・グレーティストヒッツ』の冒頭の一篇「オッベルと象」を読む。本書は24の短篇から構成されていて、そのすべてが宮沢賢治の作品からタイトルを借用している。ただしパロディーとかではない。かといってまったく無関係な作品かというと、そうとも言い切れない。元の作品から出発して、文学的想像力を縦横無尽に働かせて空間移動を行い、その移動の痕跡もきれいに掃除してしまったのだけれども、にもかかわらず、そこには確かに宮沢賢治の世界に独特の静謐なやすらぎと悲しみと不安が漂っている。高橋源一郎はやはり凄い作家である。第16回宮沢賢治賞受賞作品。
深夜、録画しておいた『拝啓、父上様』を観る。一平(二宮和也)の名誉のために言うが、彼はエリ(福田沙紀)の胸を触ったかもしれないが、もんでなどいないと思われ…。それにしても、父上様、このドラマに登場する老若男女はみな不器用で魅力的な人たちなわけで…。倉本聰の世界です。
昼食は妻が買ってきた菓子パン(調理済みパンというのか)3個。ゆで卵とレタスのサンドイッチ、照り焼きチキンをナンではさんだもの、クリームパン。食べながら先日録画しておいたベルリンフィルの木管五重奏団の演奏(ダンツィ「木管五重奏曲ヘ長調作品56」ほか)を聴く(観る)。同じ室内楽でも弦楽四重奏団などとは違って、演奏中の体の動きは小さい。5人全員が中高年男性ということもあって、紳士的な雰囲気が漂っている。ところで、私は子どもの頃から、楽章と楽章の間のわずかな演奏中断の時間帯になぜ拍手をしてはいけないのかがわからなかった。どうして最後の楽章が終わるまで拍手を我慢しなくてはならないのか、間で拍手をすると奏者の緊張感が途切れるからよくないのだろうか、あちこちで咳払いの音がするが本当にみんな喉払いをしたいのだろうか、この静寂が気まずくてわざと咳払いをしているのはないのかなど、あれこれ考えた。実をいうと、いまだによくわからない。5人の奏者は間の時間にどうしているのか注意していたら、ハンカチで額の汗を拭いたり、口元を拭ったり、楽譜のページをめくったり、静かに呼吸を整えたり、いろいろであった。次の楽章のスタンバイ・オーケーになるタイミングには個人差があって、ちょうど競馬でゲートに入るタイミングが馬によって違うのに似ている。早くスタンバイができている奏者は、「まだかな?」みたいな感じで、スタンバイの遅い奏者は「おまたせしました」みたいな感じで、無言でアイコンタクトを交わしている。表情はみな硬く、緊張感が持続している。もしこの瞬間に、聴衆のだれかが拍手をすれば、奏者はそちらを向いてニッコリ会釈をするのではないか、そしてリラックスした雰囲気が会場全体に生まれるのではないか、そんなことを想像した。しかしそうした行為をするのは、喫茶店でクリームソーダのお代わりをする以上に難しい。
昼寝をしようか、散歩に出ようか考えて、散歩に出ることにした。まだ午後の早い時間だったので、電車に乗って、上野の東京都美術館でやっている「オルセー美術館展」を観にいく。1月27日の公開初日から2週間が経っているし、平日だし、と思って出かけたのだが、けっこう混んでいた。やはり印象派は人気がある。ポスターやチケットに使われているマネの「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ」は、かつてヴァレリーがマネの最高傑作と評した作品で、今回の展覧会の人気の要因の1つになっていると思うが、東京都美術館のホームページに載っている写真は実物よりもずいぶんと表情がきつい。これはどうしたことだろう。実物のほうがずっと魅力的です。今回の企画で興味深かったのは、「芸術家の生活」というセクション(5つのセクションのうちの1つ)。ここにはマネのモリゾの肖像画のように画家が他の画家や作家を描いた絵が展示されている。芸術家というと変わり者というか、人付き合いが苦手な孤高の人といったイメージがあるけれど、ゴッホとゴーギャンという有名な例もあるように、芸術家同士の親交や社交は盛んだった。きっとそうやって切磋琢磨しながら、孤独の病に陥らないようにしていたのだろう。それにしてもバジールという画家はずいぶんと背が高かったのだな。アトリエに集まった芸術家たちの群像を描いた絵が2枚あるのだが、バジールは飛び抜けて背が高い。2メートル近くあったんじゃないだろうか。ルノアールの「バジールの肖像」は椅子に座ってキャンバスに向かっているバジールを描いたものだが、背中を丸くし、長い足をもてあましているように見える。バジールは、印象派の運動の帰結を見ることなく、29歳のときに普仏戦争に志願して戦場で死んだ。これも彼の体格が立派だったせいのような気がしてならない。
夕食は海鮮鍋。最後に御飯にスープをかけて食べるのが楽しみ。食後、高橋源一郎『ミヤザワケンジ・グレーティストヒッツ』の冒頭の一篇「オッベルと象」を読む。本書は24の短篇から構成されていて、そのすべてが宮沢賢治の作品からタイトルを借用している。ただしパロディーとかではない。かといってまったく無関係な作品かというと、そうとも言い切れない。元の作品から出発して、文学的想像力を縦横無尽に働かせて空間移動を行い、その移動の痕跡もきれいに掃除してしまったのだけれども、にもかかわらず、そこには確かに宮沢賢治の世界に独特の静謐なやすらぎと悲しみと不安が漂っている。高橋源一郎はやはり凄い作家である。第16回宮沢賢治賞受賞作品。
深夜、録画しておいた『拝啓、父上様』を観る。一平(二宮和也)の名誉のために言うが、彼はエリ(福田沙紀)の胸を触ったかもしれないが、もんでなどいないと思われ…。それにしても、父上様、このドラマに登場する老若男女はみな不器用で魅力的な人たちなわけで…。倉本聰の世界です。