10時、起床。かなりの冷え込み。冬はやっぱりこうでなきゃ、と思ったりする。朝食は夕べの残りのヒレカツ、トースト、オレンジ・マーマレード、紅茶。新聞の書評欄に目を通してから、散歩に出る。くまざわ書店で以下の本を購入し、ルノアールで読む。
藤村信『ヨーロッパで現代世界を読む』(岩波書店)
イアン・ハッキング『何が社会的に構成されるのか』(岩波書店)
岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書)
貴田庄『小津安二郎文壇交友録』(中公新書)
『ヨーロッパで現代世界を読む』は藤村信の遺著である(彼は昨夏、82歳で亡くなった)。藤村信という名前を聞いてもいまの大学生は知らないであろうが、1970年代に大学生であった者には、岩波書店の総合雑誌『世界』にときどき掲載される「パリ通信」の著者として記憶されているジャーナリストである。本書の巻末に赤川次郎が「わが青春の〈パリ通信〉」というエッセーを寄せている。
「正直のところ、政治、経済の基礎的な知識を欠いている私にとって、『世界』は到底隅々まで読める雑誌ではなかった(今でもそうだが)。毎号、ページをめくっては、理解できそうな記事を捜す有様だったのである。
その中で、〈パリ通信〉は明るく大きく開かれた窓のようなページだった。
他の多くの論文は、読者が「これぐらいのことは当然知っている」という前提で書かれていたが、〈パリ通信〉はそうではない。複雑なヨーロッパの歴史を背景に、何がどう今の出来事へつながるかを、ほとんど予備知識のない読み手でも戸惑うことのない明快さで描き出す。
その簡潔な文体の美しさ。-「分かりやすさ」と共に〈パリ通信〉の魅力となっていたのはエッセイ文学としてのレベルの高さだった。」(p.256-257)
『何が社会的に構成されるのか』は社会構成主義の批判的検討の書。社会構成主義(あるいは社会構築主義)というのは、一見「客観的」と思われる事物が実は一定の社会のあり方とは独立に実在するものでなく、社会によって構成されたものに過ぎないという考え方で、現代社会学の基礎理論の1つとなっているものである。文化構想学部と文学部のブリッジ科目にも「ソーシャル・コンストラクショニズム入門」という科目が用意されているので、文化構想学部の現代人間論系や、文学部の社会学コースに進級を希望する学生は履修することを勧める(一文・二文の学生も履修することができる)。講師は千葉大学の片桐雅隆先生である。
「岩波ジュニア新書」でいう「ジュニア」とは何か。中学生を中心にその前後を対象にしているのだろうと思っていたが、『ヨーロッパ思想入門』はとてもそういう水準の本ではない。「はじめに」からしてすでに並々ならぬものを感じる。
「『ヨーロッパ思想入門』と銘打ったこの本で、筆者が意図したことは、ヨーロッパ思想の本質を語ることである。
ヨーロッパ思想は二つの礎石の上に立っている。ギリシャの思想とヘブライの信仰である。この二つの礎石があらゆるヨーロッパ思想の源泉であり、二〇〇〇年にわたって華麗な展開を遂げるヨーロッパ哲学は、これら二つの源泉の、あるいは深化発展であり、あるいはそれらに対する反逆であり、あるいはさまざまな形態におけるそれらの化合変容である。
…(中略)…
この二つの源泉から、ヨーロッパ思想はその活力を汲み出している。その展開がヨーロッパ哲学である。このことができるだけ明晰に見えるように、筆者は、この本の第3部でヨーロッパ哲学のわずかな、しかし重要な節目を歌った。それは華麗な大交響曲からの、筆者の好みによって選び出された、ほんの数小節である。しかし、それで、ヨーロッパ哲学の本質は伝わると筆者は確信している。」
アメリカの4年制大学でジュニアというと3年生のことだが、本書に限っては、「ジュニア」もその用法に従っているのかもしれない。
私は小津安二郎が好きで、志賀直哉も好きである。だから小津が志賀の小説を好み、志賀も小津の映画を好んでいたという事実を知ることは、気持ちがいい。『小津安二郎文壇交友録』の帯には志賀と小津が並んで歩いているところを正面から撮った写真が載っている。志賀の方が小津よりも背が高かったことを私はこの写真で初めて知って、ちょっと驚いた。
昼食は東口の「万豚記(ワンツーチー)」のたまごとレタスの炒飯。初めて入った店で、アッサリ塩味を期待して注文したのだが、アッサリは期待通りだったものの、塩味が少し足りないように思った。それと「お水はセフルサービスでお願いします」と貼り紙がしてあったが、お代わりはそれでもいいとして、最初の一杯はコップに注いで出してくれるのが接客というものではなかろうか。オフィスでの「お茶汲み」というと屈辱的な労働の代名詞のようになってしまったが、飲食業では基本中の基本であり、それを「セルフサービス」という横文字を掲げて放棄し、恥じるところがないという風潮を嘆かわしく思う。それから、炒飯を食べるのに使う蓮華も自分でカウンターに置いてあるのを取らないとならないのだ。お冷の場合は不要という人もいるだろうが、蓮華を使わずに炒飯やスープを食す客はいないだろうから、当然、炒飯と一緒に持ってきてほしい。「万豚記」はチェーン店のようなので、どれもこれも本部が決めたマニュアル通りなのであろうが、改めた方がいいと思うけどな…。
早朝からバスで河津に花見に出かけていた母は、夜の9時過ぎに帰ってきて、「帰りのバスが一時間くらい遅れて…」と言いながら、部屋に入るなりTVを点けて『華麗なる一族』をかけた。川沿いの桜並木はきれいだったが、とにかく風が冷たかったそうだ。
深夜、円楽引退のニュースを知る。
藤村信『ヨーロッパで現代世界を読む』(岩波書店)
イアン・ハッキング『何が社会的に構成されるのか』(岩波書店)
岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書)
貴田庄『小津安二郎文壇交友録』(中公新書)
『ヨーロッパで現代世界を読む』は藤村信の遺著である(彼は昨夏、82歳で亡くなった)。藤村信という名前を聞いてもいまの大学生は知らないであろうが、1970年代に大学生であった者には、岩波書店の総合雑誌『世界』にときどき掲載される「パリ通信」の著者として記憶されているジャーナリストである。本書の巻末に赤川次郎が「わが青春の〈パリ通信〉」というエッセーを寄せている。
「正直のところ、政治、経済の基礎的な知識を欠いている私にとって、『世界』は到底隅々まで読める雑誌ではなかった(今でもそうだが)。毎号、ページをめくっては、理解できそうな記事を捜す有様だったのである。
その中で、〈パリ通信〉は明るく大きく開かれた窓のようなページだった。
他の多くの論文は、読者が「これぐらいのことは当然知っている」という前提で書かれていたが、〈パリ通信〉はそうではない。複雑なヨーロッパの歴史を背景に、何がどう今の出来事へつながるかを、ほとんど予備知識のない読み手でも戸惑うことのない明快さで描き出す。
その簡潔な文体の美しさ。-「分かりやすさ」と共に〈パリ通信〉の魅力となっていたのはエッセイ文学としてのレベルの高さだった。」(p.256-257)
『何が社会的に構成されるのか』は社会構成主義の批判的検討の書。社会構成主義(あるいは社会構築主義)というのは、一見「客観的」と思われる事物が実は一定の社会のあり方とは独立に実在するものでなく、社会によって構成されたものに過ぎないという考え方で、現代社会学の基礎理論の1つとなっているものである。文化構想学部と文学部のブリッジ科目にも「ソーシャル・コンストラクショニズム入門」という科目が用意されているので、文化構想学部の現代人間論系や、文学部の社会学コースに進級を希望する学生は履修することを勧める(一文・二文の学生も履修することができる)。講師は千葉大学の片桐雅隆先生である。
「岩波ジュニア新書」でいう「ジュニア」とは何か。中学生を中心にその前後を対象にしているのだろうと思っていたが、『ヨーロッパ思想入門』はとてもそういう水準の本ではない。「はじめに」からしてすでに並々ならぬものを感じる。
「『ヨーロッパ思想入門』と銘打ったこの本で、筆者が意図したことは、ヨーロッパ思想の本質を語ることである。
ヨーロッパ思想は二つの礎石の上に立っている。ギリシャの思想とヘブライの信仰である。この二つの礎石があらゆるヨーロッパ思想の源泉であり、二〇〇〇年にわたって華麗な展開を遂げるヨーロッパ哲学は、これら二つの源泉の、あるいは深化発展であり、あるいはそれらに対する反逆であり、あるいはさまざまな形態におけるそれらの化合変容である。
…(中略)…
この二つの源泉から、ヨーロッパ思想はその活力を汲み出している。その展開がヨーロッパ哲学である。このことができるだけ明晰に見えるように、筆者は、この本の第3部でヨーロッパ哲学のわずかな、しかし重要な節目を歌った。それは華麗な大交響曲からの、筆者の好みによって選び出された、ほんの数小節である。しかし、それで、ヨーロッパ哲学の本質は伝わると筆者は確信している。」
アメリカの4年制大学でジュニアというと3年生のことだが、本書に限っては、「ジュニア」もその用法に従っているのかもしれない。
私は小津安二郎が好きで、志賀直哉も好きである。だから小津が志賀の小説を好み、志賀も小津の映画を好んでいたという事実を知ることは、気持ちがいい。『小津安二郎文壇交友録』の帯には志賀と小津が並んで歩いているところを正面から撮った写真が載っている。志賀の方が小津よりも背が高かったことを私はこの写真で初めて知って、ちょっと驚いた。
昼食は東口の「万豚記(ワンツーチー)」のたまごとレタスの炒飯。初めて入った店で、アッサリ塩味を期待して注文したのだが、アッサリは期待通りだったものの、塩味が少し足りないように思った。それと「お水はセフルサービスでお願いします」と貼り紙がしてあったが、お代わりはそれでもいいとして、最初の一杯はコップに注いで出してくれるのが接客というものではなかろうか。オフィスでの「お茶汲み」というと屈辱的な労働の代名詞のようになってしまったが、飲食業では基本中の基本であり、それを「セルフサービス」という横文字を掲げて放棄し、恥じるところがないという風潮を嘆かわしく思う。それから、炒飯を食べるのに使う蓮華も自分でカウンターに置いてあるのを取らないとならないのだ。お冷の場合は不要という人もいるだろうが、蓮華を使わずに炒飯やスープを食す客はいないだろうから、当然、炒飯と一緒に持ってきてほしい。「万豚記」はチェーン店のようなので、どれもこれも本部が決めたマニュアル通りなのであろうが、改めた方がいいと思うけどな…。
早朝からバスで河津に花見に出かけていた母は、夜の9時過ぎに帰ってきて、「帰りのバスが一時間くらい遅れて…」と言いながら、部屋に入るなりTVを点けて『華麗なる一族』をかけた。川沿いの桜並木はきれいだったが、とにかく風が冷たかったそうだ。
深夜、円楽引退のニュースを知る。