8時起床。朝食はおでん、明太子、御飯。9時に家を出て、10時から大学院博士課程の二次試験。今回の社会学専攻の受験生は2名と例年より少なめだ。1人40分ほどかけて面接を行う。
昼食は「すず金」で鰻重と肝焼きを一串。肝焼きの苦味とタレの甘さが絶妙である。日本文学専攻の兼築先生もやってきた。彼は本当はダイエットに励まないとならないはずなのだが、「すず金」の常連である。高田馬場の「とん太」というトンカツ屋が安くて旨いという話をしてくれたので、今度行ってみようと思う。高くて旨いのは当たり前で、この「すず金」や「とん太」のように安くて旨いことが肝腎なのである(注:ここでいう「安い」というのは大人の世界の感覚なので、学生諸君は勘違いしてはいけません)。
あゆみブックスでジャン=ルイ・ヴィエイヤール=バロン『ベルクソン』(白水社)を購入し、シャノアールで読む。昔からクセジュ文庫とはあまり相性がよくないのだが、この本は面白い。著者はフランス人だが、文章のタッチはイギリス人のようである。
「彼は自分の字に自信をもっていた。それはきわめて入念な字で、洗練と読みやすさに意を用いて鍛錬されたものであった。ところが、ルイ・ラヴェル宛の、『自意識』(1933)を送ってもらったことへの礼状の下書きが残っていて、それはわれわれにまったく別種の筆跡を示している。このことは次のような考え(ゲオルグ・ジンメルがゲーテについていったことだが)を確認させる。すなわち、社会的に共有される諸習慣を尊重するところ大であるというのは、ひとりの偉大な精神にとっては、自分の個人的自由を保つための一手段であるかもしれないが、自分の力の否定などではけっしてない、ということである。」(24頁)
一つの小さなエピソードから世間知と哲学知を兼ね備えたベルクソンという人物を浮き彫りにする手際は見事である。評伝はイギリス文学の伝統的ジャンルだが、著者はそこから多くを学んでいるように思われる。
研究室に戻って『ベルクソン』の続きを読む。4時から大学院の委員会。1時間足らずで終了し、次の会議まで少々時間があるので、「フェニックス」に行ってチーズケーキと紅茶を注文し、文庫化されたばかりの齋藤孝『原稿用紙10枚を書く力』(大和書房)を読む。すでに単行本で一度読んでいる本なので、30分で読み終わる。新学部の基礎演習の副教材として使えると思う。5時半から新学部の論系・コースの運営準備委員長会議。これがなんと延々3時間もかかった。夕方から始める会議で食事抜きの3時間はしんどい。だんだんみんながイライラしてくるのがわかった。新しい制度に関する提案・検討の場としてははなはだ具合が悪かった。
夕食は「秀永」の油淋鶏(鶏の唐揚げのネギソース掛け)定食。ここではいつもこれを注文する。鶏肉そのものも、揚げ方も、ネギソースの甘酸っぱさも、ネギソースのかかったレタスも、気に入っている。たまに「ごめんなさい。今日は油淋鶏終わっちゃいました」と言われることがあり、そのときはとても悲しい。「秀永」の油淋鶏に限らず、「○○○を食べよう」と思って店に入って、その○○○がなかったときの落胆というのは、人生で出会う数々の落胆の中のトップとはいかないまでも、かなり上位に来るのではないだろうか。
10時、帰宅。昨年定年退職された正岡寛司先生から先生が今度訳されたジョナサン・H・ターナー『感情の起源』(明石書店)が送られてきた。「ジョナサン・ターナー 感情の社会学」シリーズ(全5冊)の最初の1冊であるが、今年中に『社会の檻』(7月刊)と『出会いの発達過程』(12月刊)の出版が予告されている。このお仕事ぶりには舌を巻くしかない。風呂から上がり、録画しておいた『拝啓、父上様』を観る。フィールドノートの更新は、眠くなったので、明日に回す。
昼食は「すず金」で鰻重と肝焼きを一串。肝焼きの苦味とタレの甘さが絶妙である。日本文学専攻の兼築先生もやってきた。彼は本当はダイエットに励まないとならないはずなのだが、「すず金」の常連である。高田馬場の「とん太」というトンカツ屋が安くて旨いという話をしてくれたので、今度行ってみようと思う。高くて旨いのは当たり前で、この「すず金」や「とん太」のように安くて旨いことが肝腎なのである(注:ここでいう「安い」というのは大人の世界の感覚なので、学生諸君は勘違いしてはいけません)。
あゆみブックスでジャン=ルイ・ヴィエイヤール=バロン『ベルクソン』(白水社)を購入し、シャノアールで読む。昔からクセジュ文庫とはあまり相性がよくないのだが、この本は面白い。著者はフランス人だが、文章のタッチはイギリス人のようである。
「彼は自分の字に自信をもっていた。それはきわめて入念な字で、洗練と読みやすさに意を用いて鍛錬されたものであった。ところが、ルイ・ラヴェル宛の、『自意識』(1933)を送ってもらったことへの礼状の下書きが残っていて、それはわれわれにまったく別種の筆跡を示している。このことは次のような考え(ゲオルグ・ジンメルがゲーテについていったことだが)を確認させる。すなわち、社会的に共有される諸習慣を尊重するところ大であるというのは、ひとりの偉大な精神にとっては、自分の個人的自由を保つための一手段であるかもしれないが、自分の力の否定などではけっしてない、ということである。」(24頁)
一つの小さなエピソードから世間知と哲学知を兼ね備えたベルクソンという人物を浮き彫りにする手際は見事である。評伝はイギリス文学の伝統的ジャンルだが、著者はそこから多くを学んでいるように思われる。
研究室に戻って『ベルクソン』の続きを読む。4時から大学院の委員会。1時間足らずで終了し、次の会議まで少々時間があるので、「フェニックス」に行ってチーズケーキと紅茶を注文し、文庫化されたばかりの齋藤孝『原稿用紙10枚を書く力』(大和書房)を読む。すでに単行本で一度読んでいる本なので、30分で読み終わる。新学部の基礎演習の副教材として使えると思う。5時半から新学部の論系・コースの運営準備委員長会議。これがなんと延々3時間もかかった。夕方から始める会議で食事抜きの3時間はしんどい。だんだんみんながイライラしてくるのがわかった。新しい制度に関する提案・検討の場としてははなはだ具合が悪かった。
夕食は「秀永」の油淋鶏(鶏の唐揚げのネギソース掛け)定食。ここではいつもこれを注文する。鶏肉そのものも、揚げ方も、ネギソースの甘酸っぱさも、ネギソースのかかったレタスも、気に入っている。たまに「ごめんなさい。今日は油淋鶏終わっちゃいました」と言われることがあり、そのときはとても悲しい。「秀永」の油淋鶏に限らず、「○○○を食べよう」と思って店に入って、その○○○がなかったときの落胆というのは、人生で出会う数々の落胆の中のトップとはいかないまでも、かなり上位に来るのではないだろうか。
10時、帰宅。昨年定年退職された正岡寛司先生から先生が今度訳されたジョナサン・H・ターナー『感情の起源』(明石書店)が送られてきた。「ジョナサン・ターナー 感情の社会学」シリーズ(全5冊)の最初の1冊であるが、今年中に『社会の檻』(7月刊)と『出会いの発達過程』(12月刊)の出版が予告されている。このお仕事ぶりには舌を巻くしかない。風呂から上がり、録画しておいた『拝啓、父上様』を観る。フィールドノートの更新は、眠くなったので、明日に回す。