フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

7月3日(火) 曇り

2007-07-04 03:01:46 | Weblog
  今日は会議が3つ。昼休みに開かれた某会議には、予想通り、お弁当は出なかった。これは二重に労働基準法の精神に反している。第一に、休憩時間(昼休み)の剥奪であり、第二に、食事(昼食)の剥奪である。前者については、当方は9時から5時までというサイクルで働いているわけではないから、それほど目くじらを立てないが、後者については文句を言いたい。昼休みがつぶれても、3限が空いているのであれば、そこで昼食をとることができる。しかし、今日の私はその後も会議は立て続けに2つあって(基礎演習担当者懇談会、基本構想委員会)、昼食をとる時間がないのである。実際には、2番目の会議と3番目の会議の間のわずかの時間にミルクホールで購入したねじりパンと缶コーヒーで空腹を凌いだのであるが、残りの人生における有限の食事の貴重な1回をこのような貧しい食事で済ませてしまったことに忸怩たるものを感じる。
  学部再編もいい。大学院改革もいい。125周年事業もいい。でも、そのために教職員が心身をすり減らし、生活の風景、人生の風景が貧しいものになってしまったら、本末転倒ではなかろうか。たかが昼食のことからずいぶんと大きく出たなと言わないでいただきたい。神は細部に宿るという。
  帰りがけにあゆみブックスで、アンドレ・コント=スポンヴィル『資本主義に徳はあるか』(紀伊国屋書店)を購入し、電車の中で読む。

  「まず、なにが問題となっているかをはっきりさせておきましょう。私が「道徳の回帰」という言い方をするとき、あるいはメディアでそうした言い方がされるとき、それは、こんにち人びとが彼らの両親や祖父母の世代に比べてずっと道徳的になっているといったことを意味しているわけではありません。これは、本質的に言論のなかでの道徳の回帰なのです。それは、実際問題として人びとがいっそう徳にかなっているということではありません。人びとが以前にもまして道徳について語るようになったというであり、ことによると現代人のじっさいの行動のなかでじつのところ道徳は以前よりも貧弱になってきているからこそ、その分だけ道徳について語られるようになっているのだという仮説をたてることもできるかもしれません・・・。」(12頁)

  昨年度の「現代人の精神構造」における御子柴先生の授業を彷彿とさせる語り口である。グローバル化した資本主義社会における倫理の問題は、現代人間論系が取り組むべき基本問題の1つであろう。今日のお弁当問題も、食事というものを大切に考える人間と経費削減という大学本部の至上命令の衝突であり、「食いしん坊の倫理と資本主義の精神」として定式化することができる。