午前、自宅を出る前に、玄関前で迎火を焚き、母、私、妻、娘の4人(息子は朝から大学へ出かけた)で先祖の霊を出迎える。わが家はこの種の行事はきちんとやる方で、道行く人が珍しいものを見るような目でわれわれを見ていた。(午後、私が出かけた後に、菩提寺の住職が来て、お経を上げてくれたのだが、奥さんとお子さん同伴だったという。今日一日で何軒もの檀家を回るのだが、場所によっては無人の自動車を路上に放置しておけないところがあって、同伴者が必要なのである。満1歳2ヶ月のお子さんは、住職=お父さんがお経を上げている側で「マーマ!」と連呼していたそうだ)。
昼食は「五郎八」で。揚げ餅そばを注文して、しばらくしてから手元にあった品書きを見たら、「本日は限定メニューでお願いいたします」とあって(何かの事情であってあれこれのメニューに対応できないことがときどきあるのだ)、そこには私が注文した揚げ餅そばは入っていなかった。い、いかん。私はメニューにないものを注文してしまったのだ。そして、本来であれば、「お客さん、申し訳ありませんが・・・」となるところを、私が常連客であるからだろう、その注文に応じてくれてしまったのだ。素直に指示に従っている他の客からすれば、愉快なことではないであろう。ここは、注意書きに気づかずに、うっかり注文をしてしまった客を演じ通さなくてはならない。無駄口はたたかず、出てきた揚げ餅うどんをそそくさと食べ、店を出た。
4限の大学院の演習は清水幾太郎「敵としてのアメリカニズム」(『中央公論』昭和18年4月号)を読む。アメリカニズムを批判するというポーズをとりながら、当時、巷に横行していた表層的なアメリカニズム批判の批判を眼目とした評論であるが、言論統制下という特殊な状況で書かれた文章を解読する(表向きのメッセージの裏側に込められたメッセージを読み取ること)は現代の学生にはなかなか難しいようである。
6限の「現代人の精神構造」は、田島先生の宗教シリーズの最終回の予定であったが、親戚にご不幸があって講義が不可能となったため、安藤先生、大藪先生、私の3人で、これまでの講義のポイントを復習しながら補足的な講義を行なうという、試験を来週に控えた学生たちには大サービスの企画とあいなった。う~ん、サービス過剰だったかもしれない。授業の後、安藤先生、助手のAさんと一緒に焼肉屋「ホドリ」で食事をして帰る。
昼食は「五郎八」で。揚げ餅そばを注文して、しばらくしてから手元にあった品書きを見たら、「本日は限定メニューでお願いいたします」とあって(何かの事情であってあれこれのメニューに対応できないことがときどきあるのだ)、そこには私が注文した揚げ餅そばは入っていなかった。い、いかん。私はメニューにないものを注文してしまったのだ。そして、本来であれば、「お客さん、申し訳ありませんが・・・」となるところを、私が常連客であるからだろう、その注文に応じてくれてしまったのだ。素直に指示に従っている他の客からすれば、愉快なことではないであろう。ここは、注意書きに気づかずに、うっかり注文をしてしまった客を演じ通さなくてはならない。無駄口はたたかず、出てきた揚げ餅うどんをそそくさと食べ、店を出た。
4限の大学院の演習は清水幾太郎「敵としてのアメリカニズム」(『中央公論』昭和18年4月号)を読む。アメリカニズムを批判するというポーズをとりながら、当時、巷に横行していた表層的なアメリカニズム批判の批判を眼目とした評論であるが、言論統制下という特殊な状況で書かれた文章を解読する(表向きのメッセージの裏側に込められたメッセージを読み取ること)は現代の学生にはなかなか難しいようである。
6限の「現代人の精神構造」は、田島先生の宗教シリーズの最終回の予定であったが、親戚にご不幸があって講義が不可能となったため、安藤先生、大藪先生、私の3人で、これまでの講義のポイントを復習しながら補足的な講義を行なうという、試験を来週に控えた学生たちには大サービスの企画とあいなった。う~ん、サービス過剰だったかもしれない。授業の後、安藤先生、助手のAさんと一緒に焼肉屋「ホドリ」で食事をして帰る。