夕べは早めに(といっても12時は回っていたが)寝たので、今朝は6時に目が覚める。基礎講義のレポートの提出状況をネットで調べたら、現代人間論系へのレポート提出は48名で、現時点(受講生全体の2割程度が提出を終えている)では暫定1位である。もっとも他の論系との差はあってないようなものだが、少なくとも、他の論系に遅れをとってはいないことがわかって安堵する。基礎講義のレポート提出先と論系への進級希望とは同じではないが、それを予測する一つの指標にはなる。さっそく現代人間論系の先生方に「開票速報」のメールを送る。
昼過ぎ、家を出る。昼食は早稲田に着いてから食べるつもりでいたが、駅に向かって歩きながら、けっこうお腹が空いていることに気がついた。立ち止まって、少考し、意を決して「鈴文」の暖簾をくぐる。火曜日に続いて、今週は二度目である。週に二度のとんかつは掟破りなのではないか、人として許されるのかという思いがあって、逡巡したのであるが、ランチの150グラムのとんかつであれば許されるだろうと判断した。なぜなら、火曜日もランチのとんかつだったので、今回と併せて300グラム、つまり特ロースかつ(300グラム)を週一で食べたのと同じ計算になるから。例によって醤油→塩+レモン→醤油のパターンで食べる。旨い。これだけ食べても飽きないから不思議だ。私が来るのは月曜と火曜のことが多く、金曜の昼に来たのはたぶん初めてだが、かなり混んでいる。週初めより週末の方が人はとんかつを食べたくなるのだろうか。私の右隣のカウンター席には男女のカップルが並んで座っていたが、その若い女性はとんかつだけ食べて、ご飯はほとんど、キャベツにいたってはまったく手をつけなかった。「出されたものは残さず食べる」ことを礼儀作法として教えられて育った世代の人間には正視に耐えぬ光景である。ご飯を残すのはダイエットのためだろう。キャベツに手をつけないのは嫌いだからだろう。百歩譲ってそのわがままを容認するとしても、私がそのカップルの男性であれば、「ご飯とキャベツ、もらってもいいか」と言って彼女のわがままの後始末をつけるであろう。しかし、いまは個人化の時代だからなのか、あるいは二人の関係がそこまでいっていないからなのか、その男性は彼女の残したご飯とキャベツには無関心であった。よっぽど「お嬢さん、そのご飯とキャベツをいただいてもよろしいでしょうか?」と言ってやろうかと思いましたね。そうなったら、さすがに彼氏も「俺の女(のご飯とキャベツ)に手を出すな!」と色をなしたであろう。
早稲田に着き、フェニックスで珈琲を飲んでから、4限の大学院の演習に臨む。今回のテキストは清水幾太郎が昭和13年の『思想』10月号に発表した「東洋の発見と創造」。昭和研究会文化部会(三木清が中心で、清水はメンバーの一人)が昭和14年1月に発表した「新日本の思想原理」との関係について話をする。戦争(日支事変)の渦中にあって、文筆を業とする知識人やジャーナリストと体制との関係にはいくつかのパターンがあった。体制に迎合する者、体制に逆らって刑務所に入れられる者、筆を絶って沈黙を通した者、清水と三木はそのいずれでもなく、「戦時レトリック」を駆使して、つまり体制に迎合すると見せて体制を批判する文章を書き続けた。それは結局は体制への迎合なのだという見方は成り立つ。成り立つけれども、私はその見方を積極的にはとる気にはなれない。人間というのはもう少し複雑なものだろうと思う。複雑なものを複雑なままで扱っては分析にならないが、抽象化・単純化のレベルの設定を高くし過ぎると、論文ではなく政治的文書(そこでは悪玉と善玉がはっきりしている)になってしまう。
6限は「現代人の精神構造」の試験。試験監督の依頼を事務所にしておいたので、5人の院生の方が用紙の配布・回収・整理をしてくれた。問題は4人の教員が1問ずつ出して、学生はその中から1つを選択して解答する形式であったが、7割の学生が同じ問題を選択した。それは私の出題した問題であるのだが、おそらく学生はその問題を組みしやすいと考えて選択したのであろう。しかしそういう思考は安全策ではあるものの、「A+」や「A」を狙うのであれば得策とはいえない。なぜならたくさんある答案の中でそれなりに抜きん出た内容でないと「A+」や「A」、とりわけ「A+」は与えられないからだ。古人も「鶏口となるも牛後となるなかれ」と言っている。古人のことはいいとして、私としても5割くらは引き受ける覚悟はできていた。しかし7割とは思わなかった。試験の開始直前に「採点は大久保が一番辛いです」と一言アナウンスすれば、こんなことにはならかったであろう。「安藤先生が一番温情がある」と付け加えれば、さらによかったであろう(もちろんホントかどうかは知らない)。しかし、すべては後の祭りである。「天や」で夕食(大江戸丼)をとり、あゆみブックスで片岡義男の短編小説集『青年の完璧な幸福』(スイッチ・パブリッシング)を購入し、電車の中で冒頭の作品「アイスキャンディは小説になるか」を読む。私もそのうちクリームソーダをモチーフにした小説を書いてみようかと思う。
昼過ぎ、家を出る。昼食は早稲田に着いてから食べるつもりでいたが、駅に向かって歩きながら、けっこうお腹が空いていることに気がついた。立ち止まって、少考し、意を決して「鈴文」の暖簾をくぐる。火曜日に続いて、今週は二度目である。週に二度のとんかつは掟破りなのではないか、人として許されるのかという思いがあって、逡巡したのであるが、ランチの150グラムのとんかつであれば許されるだろうと判断した。なぜなら、火曜日もランチのとんかつだったので、今回と併せて300グラム、つまり特ロースかつ(300グラム)を週一で食べたのと同じ計算になるから。例によって醤油→塩+レモン→醤油のパターンで食べる。旨い。これだけ食べても飽きないから不思議だ。私が来るのは月曜と火曜のことが多く、金曜の昼に来たのはたぶん初めてだが、かなり混んでいる。週初めより週末の方が人はとんかつを食べたくなるのだろうか。私の右隣のカウンター席には男女のカップルが並んで座っていたが、その若い女性はとんかつだけ食べて、ご飯はほとんど、キャベツにいたってはまったく手をつけなかった。「出されたものは残さず食べる」ことを礼儀作法として教えられて育った世代の人間には正視に耐えぬ光景である。ご飯を残すのはダイエットのためだろう。キャベツに手をつけないのは嫌いだからだろう。百歩譲ってそのわがままを容認するとしても、私がそのカップルの男性であれば、「ご飯とキャベツ、もらってもいいか」と言って彼女のわがままの後始末をつけるであろう。しかし、いまは個人化の時代だからなのか、あるいは二人の関係がそこまでいっていないからなのか、その男性は彼女の残したご飯とキャベツには無関心であった。よっぽど「お嬢さん、そのご飯とキャベツをいただいてもよろしいでしょうか?」と言ってやろうかと思いましたね。そうなったら、さすがに彼氏も「俺の女(のご飯とキャベツ)に手を出すな!」と色をなしたであろう。
早稲田に着き、フェニックスで珈琲を飲んでから、4限の大学院の演習に臨む。今回のテキストは清水幾太郎が昭和13年の『思想』10月号に発表した「東洋の発見と創造」。昭和研究会文化部会(三木清が中心で、清水はメンバーの一人)が昭和14年1月に発表した「新日本の思想原理」との関係について話をする。戦争(日支事変)の渦中にあって、文筆を業とする知識人やジャーナリストと体制との関係にはいくつかのパターンがあった。体制に迎合する者、体制に逆らって刑務所に入れられる者、筆を絶って沈黙を通した者、清水と三木はそのいずれでもなく、「戦時レトリック」を駆使して、つまり体制に迎合すると見せて体制を批判する文章を書き続けた。それは結局は体制への迎合なのだという見方は成り立つ。成り立つけれども、私はその見方を積極的にはとる気にはなれない。人間というのはもう少し複雑なものだろうと思う。複雑なものを複雑なままで扱っては分析にならないが、抽象化・単純化のレベルの設定を高くし過ぎると、論文ではなく政治的文書(そこでは悪玉と善玉がはっきりしている)になってしまう。
6限は「現代人の精神構造」の試験。試験監督の依頼を事務所にしておいたので、5人の院生の方が用紙の配布・回収・整理をしてくれた。問題は4人の教員が1問ずつ出して、学生はその中から1つを選択して解答する形式であったが、7割の学生が同じ問題を選択した。それは私の出題した問題であるのだが、おそらく学生はその問題を組みしやすいと考えて選択したのであろう。しかしそういう思考は安全策ではあるものの、「A+」や「A」を狙うのであれば得策とはいえない。なぜならたくさんある答案の中でそれなりに抜きん出た内容でないと「A+」や「A」、とりわけ「A+」は与えられないからだ。古人も「鶏口となるも牛後となるなかれ」と言っている。古人のことはいいとして、私としても5割くらは引き受ける覚悟はできていた。しかし7割とは思わなかった。試験の開始直前に「採点は大久保が一番辛いです」と一言アナウンスすれば、こんなことにはならかったであろう。「安藤先生が一番温情がある」と付け加えれば、さらによかったであろう(もちろんホントかどうかは知らない)。しかし、すべては後の祭りである。「天や」で夕食(大江戸丼)をとり、あゆみブックスで片岡義男の短編小説集『青年の完璧な幸福』(スイッチ・パブリッシング)を購入し、電車の中で冒頭の作品「アイスキャンディは小説になるか」を読む。私もそのうちクリームソーダをモチーフにした小説を書いてみようかと思う。