フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

11月1日(土) 晴れ

2008-11-02 02:27:10 | Weblog
  その猫には名前がなかった。子猫の方には「なつ」「あき」という名前があったが(われわれが付けたのである)、親猫の方は「母猫」と呼ばれていた。最近姿を見なくなっていて、もしかしたら死んだのかもしれないと思っていたら、やはりそうだった。うちの二軒となりのアパートの住人がよく面倒を見ていて、そこで息を引き取ったと聞いた。亡骸は区役所に連絡をして埋葬してもらったそうである。1万いくらかかったそうで、その話を聞いた母が半分だそうかと話していた。年齢はよくわからないが、去年あたりから、声がだんだんかすれて来て、猫らしい声を出せなくなっていた。また、歯が悪いのか、ハムなどを与えてもなかなか噛み切れないようだった。死ぬ少し前に、わが家の勝手口に「なつ」と一緒にやってきて、しかしご飯に刻んだハムを混ぜて味噌汁を少しかけてやったものには口をつけず、牛乳を飲んでいた。抱き上げてみると、かなり痩せて、とても軽かった。これではこの冬を越すのは難しいだろうとそのとき思ったが、母猫の姿を見たのはそれが最後だった。あれはたぶんお別れにきたのだと母は言っていたが、私もそんな気がする。何度か子を産んだはずだが、ちゃんと育ったのは「なつ」と「あき」だけだったのではなかろうか。オスの「あき」はしだいに離れて(追い払われて)いったが、メスの「なつ」の方はずっと母猫の側にいた。「なつ」は小さい頃に避妊手術をしたせいか(われわれが受けさせたのだ)、子猫らしさがいつまでも残っていて、母猫の方も、その後に産んだ4匹の子猫たちをすぐに喪くしてしまった空洞を「なつ」と過ごすことで埋めていたようなところがあった。「なつ」と「あき」の父親とおぼしき足の悪い老いた大きな猫がいたが、去年の秋に勝手口のところにじっとしているのを見たのが最後なので、たぶん冬の間に死んだのだと思う。母猫も一年遅れて後を追ったのだ。元気だった頃は、私が家の前の道に立って「オーイ」と呼ぶと、どこからか姿を現して、手の平をかざすと寄ってきてそこに頭を擦り付けた。淋し気な顔をした、小柄で、おとなしい猫だった。幸福な一生とはいえなかったかもしれないが、不幸なことばかりではなかったと思う。そもそも動物の一生に幸福も不幸もないのかもしれない。生まれて、生きて、そして死んでいくのだ。

           
      手前が母猫、後ろが「なつ」、右が「あき」(2006年8月11日撮影)

  午後、散歩に出る。「とん清」で牡蠣フライ定食を食べ、「ルノアール」で食後の珈琲を飲みながらオースター『幻影の書』を読む。一時間ほど読んでから、JRの線路沿に川崎方面に歩いて、タイヤ公園や雑色商店街まで足を延ばす。風が少しあってひんやりしていたが、東京は今日、木枯らし一号が吹いたそうだ。今夜の夕食は松茸ご飯だった(トルコ産とのこと)。