日本社会学会の大会が東北大学であり、昨日から仙台に来ている。昨夜は早寝をして、今朝はこれから午前の部(9時30分から)に間に合うようにホテルを出ないとならないので、更新はのちほど。
東北大学で日本社会学会の大会が開催されるのは20年ぶりである(と思う)。当時、私は早稲田大学の助手をしていて、朝日新聞連載の「私の転機」を分析した「生活史における転機の研究」という発表をした。いまでも講義の中で取り上げる思い入れのある研究テーマだったので、質問者の顔や質問内容まで記憶に残っている。
記憶に残っているといえば、その大会の最終日のある部会で、私の知り合いの研究者の発表に対してこれも私の知り合いの別の研究者が猛烈に批判的な(侮蔑的といってもいいような)コメントを述べ、しかも「新幹線の時刻に遅れそうだから」と発表者の返答も聞かずに教室を出て行ってしまった。批判された研究者は、部会が終わった後、「大久保さん、あれはないですよね」と憤懣やる方ないという表情で愚痴をごぼした。私はその研究者に深く同情し、「まったくだ」と相槌を打った。そのときの屈辱をバネにしてというわけではないかもしれないが、その研究者は見事に大成し、いまではある学会の未来の会長候補と誰もが認めるまでになった。今日の午前中、私は「現代日本における若者の市民性」という4人チームの発表を聴いたのだが、その発表が行われたB棟102教室が20年前に私がその出来事を目撃した教室だった。その教室に入ったとき、私には既視感があり、なぜなだろうと考えて、すぐに20年前の出来事をありありと思い出したのである。
昼食は、弘前大学の高瀬君と、大学のすぐ近くの宮城県立美術館のレストランでとった。高瀬君とはその後別行動をとったが、夜、私の宿泊先のホテルのロビーで待ち合わせて、夕食も一緒にとった。私が少し風邪気味であることを知って、彼は「これは効きます」と言って、自分用に処方された漢方薬を3包みくれた。
東北大学で日本社会学会の大会が開催されるのは20年ぶりである(と思う)。当時、私は早稲田大学の助手をしていて、朝日新聞連載の「私の転機」を分析した「生活史における転機の研究」という発表をした。いまでも講義の中で取り上げる思い入れのある研究テーマだったので、質問者の顔や質問内容まで記憶に残っている。
記憶に残っているといえば、その大会の最終日のある部会で、私の知り合いの研究者の発表に対してこれも私の知り合いの別の研究者が猛烈に批判的な(侮蔑的といってもいいような)コメントを述べ、しかも「新幹線の時刻に遅れそうだから」と発表者の返答も聞かずに教室を出て行ってしまった。批判された研究者は、部会が終わった後、「大久保さん、あれはないですよね」と憤懣やる方ないという表情で愚痴をごぼした。私はその研究者に深く同情し、「まったくだ」と相槌を打った。そのときの屈辱をバネにしてというわけではないかもしれないが、その研究者は見事に大成し、いまではある学会の未来の会長候補と誰もが認めるまでになった。今日の午前中、私は「現代日本における若者の市民性」という4人チームの発表を聴いたのだが、その発表が行われたB棟102教室が20年前に私がその出来事を目撃した教室だった。その教室に入ったとき、私には既視感があり、なぜなだろうと考えて、すぐに20年前の出来事をありありと思い出したのである。
昼食は、弘前大学の高瀬君と、大学のすぐ近くの宮城県立美術館のレストランでとった。高瀬君とはその後別行動をとったが、夜、私の宿泊先のホテルのロビーで待ち合わせて、夕食も一緒にとった。私が少し風邪気味であることを知って、彼は「これは効きます」と言って、自分用に処方された漢方薬を3包みくれた。