フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

11月6日(木) 晴れ

2008-11-07 10:36:46 | Weblog
  3限の大学院の演習を終えて、遅い昼食をとりに「メルシー」へ行くと、院生のAさんがいた。「メルシー」は、そのフランス語の店名に反して、お世辞にもお洒落な雰囲気の店ではない。「よく来るの?」と聞いたら「はい」とのこと。かつて(といってもそれほど昔ではない)女性がひとりで牛丼の吉野家には入れない時代があったが、何ごとも変化しつつあるのだ。Aさんには今日いいことがあった。ささやかな祝福の意味で、彼女の注文したタンメンは私の奢りということにさせていただく。
  5限は基礎演習。隔週授業で本来は休みの週なのだが、11月末締め切りのレポートの指導を急ぐ必要があるので、先週・今週・来週と3週連続で行う。学生を研究室に呼んで1対1で指導することもできないわけではないが、他の学生のレポートの内容を知ることは、そしてそれに対する私の講評を聞くことは、自分のレポートを再考する上で役に立つはずだと思う。
  授業を終え、大学を出るときに、生協の書店で『フランク・オコナー短編集』(岩波文庫)が目にとまって、購入。フランク・オコナー(1903-1966)はアイルランド出身の作家で、日本ではあまり知られていないが、実際、私自身も2年前に村上春樹が『めくらやなぎと眠る女』で第二回フランク・オコナー国際短篇賞を受賞したときに初めてその名前を知った。最近読んだジョンバ・ラヒリ『見知らぬ場所』が今年度の同賞の受賞作で、フランク・オコナーとはどんな作家なのだろうと思っていたところだったので、まさにグッド・タイミングだった。帰りの電車の中でさっそく読もうと思って購入したのだが、早稲田駅の改札のところに、新橋駅で人身事故があった影響で京浜東北線と山の手線が止まっているとの情報が出ていた。さて、どうしよう。とりあえず東西線で大手町まで行き、都営三田線に乗り換えて、さらに三田で京浜急行に接続する都営浅草線に乗り換えて、京急蒲田まで帰るというプランを組み立てる。帰宅は30分ほど遅れると家に電話を入れる。地下鉄はいつもより混んでいて、落ち着いてオコナーの小説を読むどころではなくなった。三田で乗り換えるとき、駅員さんにJRの状況を確認したら、蒲田方面はもう動いていると言われたので、京急を利用する必要はなくなり、田町から京浜東北線に乗って蒲田まで帰った。帰宅は30分ほど遅れると電話してあるので、「シャノアール」で読みかけの短篇「ぼくのエディプス・コンプレックス」を読み終えてから、帰宅することにした。何でわざわざそんなことをするのか不可解に思う方が多い(ほとんどか?)と思うが、帰宅すれば、風呂→夕食というコースが待っており、読書が再開されるのは夕食後ということになる。短篇小説でそういう中断はありえない、というのが私の感覚である。

         

  「ぼくの人生では戦争中が一番平和なときだった。ぼくが使っていた屋根裏部屋の窓は南東向きで、母さんがつけくれたカーテンはほとんど役に立たず、日の出とともに目が覚めた。そうすると、前の日にたいへんだと思っていたことがみんな溶けてなくなって、さあ、これから輝こう、楽しもう、とまるで太陽のような気分になるのだった。あのときほど人生が単純で、明快で、希望に満ちているように思えたことはない。ぼくは布団から足を突き出して、それぞれを右足さん(ミセス・ライト)、左足さん(ミセス・レフト)と呼び、その日をどう過ごすべきかふたりがいろいろ話し合っている、という状況を想像した。少なくとも右足さんは話し合いに熱心だった。右足さんははっきりものを言う人なのだ。ただ左足さんはそうでもなく、だいたい相づちばかり打っていた。」(10頁)

  「朝御飯をすませると、ぼくたちは町に行った。聖アウグスチヌス教会でミサに出て、父さんのためにお祈りをしてから買い物。午後天気が良ければぼくたちは町はずまで散歩したり、修道院長をしている母さんの親友のドミニクさんに会いに行ったりした。母さんは修道院の人にお願いして父さんのために祈ってもらっていた。ぼくも寝る前の祈りでは、どうぞ父さんが無事戦争から戻ってきてくれますように、と神様にお願いしていた。今にしてみると、何てことを祈っていたんだ! と思う。」(12頁)

  「ぼくのエディプス・コンプレックス」は、戦争(アイルランド独立戦争)から還ってきた父親と、母親と息子(語り手)をめぐる関係をフロイト理論のパロディとしてユーモラスに描いた自伝的作品である。
  電話で知らせたとおりいつもより30分ほど遅く帰宅すると、いつもならば遅い娘が今日はもう帰っていて、しかも入浴まで済ませて、空腹に耐えながら私の帰りを待っていた。