日に日に寒くなっている気がする。こういう時期が一番苦手だ。風邪を引かないように注意しなければ。というわけで、今日は皮ジャンを着ていく(コートはまだ早いだろう)。2限の授業(現代社会とセラピー文化)のある教室に入っていったら、革ジャン姿の私を見て、学生が「先生、かっこいい」と言った。う~ん、競輪場なんかによくいるオッサンだけどね。思わず両手を顔の前で交差させ、ダイゴの決めポーズを真似てみようかと思ったが、やめておく。
昼食は「秀永」の広東麺。こういう日は熱々の麺類が一番だ。
事務所へ行って、あれこれの書類を提出。締め切りを失念していてすっかり遅くなってしまったものもある。すみません。研究室でたまっている雑用を片付ける。いや、なかなか片付かない。いつも思うことだが、秘書がいたらどんなにかいいだろう。世間では「教授」というと『白い巨塔』の財前教授を連想する人が少なくないが、ぜ~んぜん、違いますから。
5限の「質的調査法特論」はケース報告を2件。ちょっとペースが遅い。はたして年内に全部のケース報告が終るだろうか(終らないと分析に進めない)。夜、今後のスケジュールをメールで受講生に送る。
帰りの車内で、柴田元幸の論文「家族の呪縛-二十一世紀アメリカ小説をめぐって-」(柴田編『文字の都市』東京大学出版会、所収)を読む。現代のアメリカの作家たちが「家族」というテーマに執着していることを論じたものである。これは村上春樹以後の日本の作家たち(とくに男性作家)の作品が単身生活者の文学であるのとは対照的である。「理想の家族像」はアメリカの作家たち、少なくともその作品の登場人物たちを異様なほど呪縛しているが、それはおそらく彼らが少年時代に繰り返し見ていた『パパは何でも知っている』に代表されるようなTVドラマの影響だろうと、柴田は考える。
「どの家族も、不可能な理想の家族像に近づこうとして空しくあがき、それによって似たような不幸に陥っていく。幸福な家族はどこも似たようなものだが不幸な家族はそれぞれに独自の形で不幸である、とは『アンナ・カレーニナ』のあまりにも有名な書き出しだが、これらアメリカの家族を見ていると、不幸な家族はどこも似たようなものではないか、という気がしてくるのだ。」(213頁)
確かにアメリカの現代作家に比べると、日本の現代作家の作品の家族離れ(少なくとも標準的な家族からの逸脱)は進んでいる。ただし、作家ではない、普通の日本人についてはそういうことはいえない。新聞の身の上相談の大部分はあいかわらず家族問題についてのものである。家族が幸福の源泉であると同時に不幸の源泉にもなっているのだ。愛情にあふれる家族、やすらぎのある家族、明るい笑い声のする(サザエさん一家のような!)家族、そうした家族像への憧れは根強く、したがって理想と現実のギャップに人々は苦しみ悩むことになる。だからこそ、自然主義の作家たち(たとえば田山花袋)は執拗に家族を描いた。そして、同じ意味で、しかしベクトルは反対方向を向いているが、現代日本の作家たちは家族の呪縛から逃れるために単身生活者を主人公にした遊戯的あるいは幻想的な作品を書いているのではないだろうか。
昼食は「秀永」の広東麺。こういう日は熱々の麺類が一番だ。
事務所へ行って、あれこれの書類を提出。締め切りを失念していてすっかり遅くなってしまったものもある。すみません。研究室でたまっている雑用を片付ける。いや、なかなか片付かない。いつも思うことだが、秘書がいたらどんなにかいいだろう。世間では「教授」というと『白い巨塔』の財前教授を連想する人が少なくないが、ぜ~んぜん、違いますから。
5限の「質的調査法特論」はケース報告を2件。ちょっとペースが遅い。はたして年内に全部のケース報告が終るだろうか(終らないと分析に進めない)。夜、今後のスケジュールをメールで受講生に送る。
帰りの車内で、柴田元幸の論文「家族の呪縛-二十一世紀アメリカ小説をめぐって-」(柴田編『文字の都市』東京大学出版会、所収)を読む。現代のアメリカの作家たちが「家族」というテーマに執着していることを論じたものである。これは村上春樹以後の日本の作家たち(とくに男性作家)の作品が単身生活者の文学であるのとは対照的である。「理想の家族像」はアメリカの作家たち、少なくともその作品の登場人物たちを異様なほど呪縛しているが、それはおそらく彼らが少年時代に繰り返し見ていた『パパは何でも知っている』に代表されるようなTVドラマの影響だろうと、柴田は考える。
「どの家族も、不可能な理想の家族像に近づこうとして空しくあがき、それによって似たような不幸に陥っていく。幸福な家族はどこも似たようなものだが不幸な家族はそれぞれに独自の形で不幸である、とは『アンナ・カレーニナ』のあまりにも有名な書き出しだが、これらアメリカの家族を見ていると、不幸な家族はどこも似たようなものではないか、という気がしてくるのだ。」(213頁)
確かにアメリカの現代作家に比べると、日本の現代作家の作品の家族離れ(少なくとも標準的な家族からの逸脱)は進んでいる。ただし、作家ではない、普通の日本人についてはそういうことはいえない。新聞の身の上相談の大部分はあいかわらず家族問題についてのものである。家族が幸福の源泉であると同時に不幸の源泉にもなっているのだ。愛情にあふれる家族、やすらぎのある家族、明るい笑い声のする(サザエさん一家のような!)家族、そうした家族像への憧れは根強く、したがって理想と現実のギャップに人々は苦しみ悩むことになる。だからこそ、自然主義の作家たち(たとえば田山花袋)は執拗に家族を描いた。そして、同じ意味で、しかしベクトルは反対方向を向いているが、現代日本の作家たちは家族の呪縛から逃れるために単身生活者を主人公にした遊戯的あるいは幻想的な作品を書いているのではないだろうか。