午前中、自宅で授業の資料作りをしていたら、学文社から書留が届いた。厚味のある封筒だったので、これが現金だったらいいなと思って開けたら、本当に現金で、一万円札が十数枚入っていた。3月に出版された『日常生活の社会学』(1500部)の印税だった。本を出せば印税が入るのは当たり前なのだが、忘れていた上に、いまは銀行振り込みの時代だから、封筒からいきな現金が出きてびっくりした。ちょうど『社会学年誌』の編集の件で電話をしようと思っていたところだったので、その用件のついでに、いま現金書留を受領しましたと報告をする。「今日は妻の誕生日なので、ちょうどよかったです」とお礼を言うと、編集部のOさんはクスリと笑った。そのとき妻も書斎にいたのだが、電話を切った後で、「またいい夫を演じたわね」と言った。さすがに社会学者の妻だけあって批評が社会学的である(ゴフマンの「印象管理」の概念)。はい、今年度の「夫にしたい社会学者ナンバーワン」を狙っているのです。
3限の授業(ライフストーリーの社会学)の後、TAのI君と「メーヤウ」で昼食。タイ風レッドカリー(ご飯は普通盛)とラッシー。食後に、冬季限定メニューの珈琲とケーキ(ショコラ)のセットを注文した。セットの代金はわずか300円である。これって、食事をした客だけが注文できるのか、それとも単独でも注文できるのだろうか。隣のテーブルの男子学生はカリーを食べ、女子学生はケーキと珈琲だったので、単独でもOKなのかもしれない。だとしたら画期的な安さである。支払いのとき店の人に確認したかったが、聞きそびれた。ケチと思われたくなかったのかもしれない。印象管理は大切だ。
生協書店とあゆみブックスで以下の本を購入。
イアン・パーカー『ラディカル質的心理学』(ナカニシヤ書店)
ネヴィル・シミントン『精神分析とスピリチュアリティ』(創元社)
榎本博明・岡田努編『自己心理学1 自己心理学研究の歴史と方法』(金子書房)
山下範久『現代帝国論』(NHKブックス)
大澤真幸・北田暁大『歴史の<はじまり>』(左右社)
見田宗介『まなざしの地獄』(河出書房新社)
「まなざしの地獄」は1973年に雑誌『展望』に発表された論文で、後に『現代社会の社会意識』(弘文堂、1979)に他の論稿と一緒に収められた。大変に有名な論文で、これを読んで感嘆したという社会学者は多い。今回、「新しい望郷の歌」(1965)を併録して単行本化された。解説を弟子の大澤真幸が書いている。
「大学二年の秋頃であったかと思う。やはり比較社会学演習で、先生は、予定していた講義の準備ができなかったとおっしゃって、どこかの機関が行った日本全国の若者の意識調査の結果を記したプリントを配られた。「講義の準備が間に合わなかったので、今日は、この調査の結果を解釈してみようと思います」、先生は、授業の冒頭でそう宣せられた。私たちの手元に与えられたのは、どこにでもありそうなアンケートの集計結果であり、いかにも平板に感じられた。調査は凡庸だし、いくら見田先生といえども、付け焼刃的な分析では、たいしたことにはなるまい、私はそう思って期待はしなかった。
ところが、まったくつまらなく見えたアンケートの集計結果を記した数字の一つひとつに対して先生が繰り出してくる解釈は、実に斬新で、当時の私には思いもよらぬものばかりだったのである。斬新ではあるが、しかし、決して奇抜ではなく、言われてみれば、誰もが思いつく平均的な解釈よりもはるかに説得的だった。それは、回答者がそう答えるに至る背景的な経験への、あるいは質問に接した回答者が感じるであろう逡巡や見栄への、繊細で豊かな想像力に裏打ちされた解釈であった。私は心底驚き、舌を巻いた。私には、あの頃、若さからくる傲慢さがあって、どの学者の講義を聴いても、あの程度の水準ならばそう遠くない将来には到達できる、といった思いをもっていたが、このときの見田先生の解釈を聴いて初めて、自分はあの域に達することができるだろうかという畏れを抱いたのであった。あのときの見田先生が若い私にちらりと垣間見せてくれたもの、それこそ、本書で使われている言葉で表現すれば「統計的事実の実存的意味」である。」(100-101頁)
蒲田には6時ちょっと前に着いて、耳鼻科の診察時間にギリギリ間に合う。鼓膜に付着した耳垢を除去してもらったが、左の耳に手間取った。結局、除去しきれないで、土日の二日間、左の耳に水薬を差して鼓膜に付着した耳垢を柔らかくしてから除去しましょうということになった。それにしても鼓膜って、触ると痛いものなんですね。ちょっとした拷問だった。もしこれが本物の拷問だったら、私、すぐに白状しちゃいますね。
3限の授業(ライフストーリーの社会学)の後、TAのI君と「メーヤウ」で昼食。タイ風レッドカリー(ご飯は普通盛)とラッシー。食後に、冬季限定メニューの珈琲とケーキ(ショコラ)のセットを注文した。セットの代金はわずか300円である。これって、食事をした客だけが注文できるのか、それとも単独でも注文できるのだろうか。隣のテーブルの男子学生はカリーを食べ、女子学生はケーキと珈琲だったので、単独でもOKなのかもしれない。だとしたら画期的な安さである。支払いのとき店の人に確認したかったが、聞きそびれた。ケチと思われたくなかったのかもしれない。印象管理は大切だ。
生協書店とあゆみブックスで以下の本を購入。
イアン・パーカー『ラディカル質的心理学』(ナカニシヤ書店)
ネヴィル・シミントン『精神分析とスピリチュアリティ』(創元社)
榎本博明・岡田努編『自己心理学1 自己心理学研究の歴史と方法』(金子書房)
山下範久『現代帝国論』(NHKブックス)
大澤真幸・北田暁大『歴史の<はじまり>』(左右社)
見田宗介『まなざしの地獄』(河出書房新社)
「まなざしの地獄」は1973年に雑誌『展望』に発表された論文で、後に『現代社会の社会意識』(弘文堂、1979)に他の論稿と一緒に収められた。大変に有名な論文で、これを読んで感嘆したという社会学者は多い。今回、「新しい望郷の歌」(1965)を併録して単行本化された。解説を弟子の大澤真幸が書いている。
「大学二年の秋頃であったかと思う。やはり比較社会学演習で、先生は、予定していた講義の準備ができなかったとおっしゃって、どこかの機関が行った日本全国の若者の意識調査の結果を記したプリントを配られた。「講義の準備が間に合わなかったので、今日は、この調査の結果を解釈してみようと思います」、先生は、授業の冒頭でそう宣せられた。私たちの手元に与えられたのは、どこにでもありそうなアンケートの集計結果であり、いかにも平板に感じられた。調査は凡庸だし、いくら見田先生といえども、付け焼刃的な分析では、たいしたことにはなるまい、私はそう思って期待はしなかった。
ところが、まったくつまらなく見えたアンケートの集計結果を記した数字の一つひとつに対して先生が繰り出してくる解釈は、実に斬新で、当時の私には思いもよらぬものばかりだったのである。斬新ではあるが、しかし、決して奇抜ではなく、言われてみれば、誰もが思いつく平均的な解釈よりもはるかに説得的だった。それは、回答者がそう答えるに至る背景的な経験への、あるいは質問に接した回答者が感じるであろう逡巡や見栄への、繊細で豊かな想像力に裏打ちされた解釈であった。私は心底驚き、舌を巻いた。私には、あの頃、若さからくる傲慢さがあって、どの学者の講義を聴いても、あの程度の水準ならばそう遠くない将来には到達できる、といった思いをもっていたが、このときの見田先生の解釈を聴いて初めて、自分はあの域に達することができるだろうかという畏れを抱いたのであった。あのときの見田先生が若い私にちらりと垣間見せてくれたもの、それこそ、本書で使われている言葉で表現すれば「統計的事実の実存的意味」である。」(100-101頁)
蒲田には6時ちょっと前に着いて、耳鼻科の診察時間にギリギリ間に合う。鼓膜に付着した耳垢を除去してもらったが、左の耳に手間取った。結局、除去しきれないで、土日の二日間、左の耳に水薬を差して鼓膜に付着した耳垢を柔らかくしてから除去しましょうということになった。それにしても鼓膜って、触ると痛いものなんですね。ちょっとした拷問だった。もしこれが本物の拷問だったら、私、すぐに白状しちゃいますね。