フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

11月12日(水) 曇り

2008-11-13 09:12:05 | Weblog
  早朝は晴れていたそうだが、私が起きたときはすでに曇っており、家を出る頃には小雨が降っていた。
  2時から運営主任会。直前にミルクホールで昼食をとる。菓子パン2個と珈琲。焼きたてのハム&ポテトが美味しかった。ミルクホールのガラス戸からは主任会の行われるプレハブ校舎へ向う先生方の後姿が見える。2時になり、先生方も小走りになる。私も急がなければと思いつつ、熱い珈琲は一口で飲むわけにはいかず、5分遅れで会議室に入った。本来の運営委員会が1時間、その後に臨時で開かれた文化構想学部だけの運営主任会が1時間、合わせてが2時間で終了。後半の会議の司会を務めた教務主任の安藤先生は会議がもっと長引くことを覚悟していたようだが、文化構想学部の各論系の主任をしている先生方はみんな大人で、激怒して「巨人の星」の星一徹のように目の前のちゃぶ台をひっくり返すような真似をする人はいないので、1時間で終ったのである。それにしても、私の目の前に本物のちゃぶ台がなかったのは幸いであった・・・。
  4時半から現代人間論系の教室会議。別の会議と時間が重なっていたため、最初は6人でスタートしたが、徐々に人数が増えて、10人になった。ゼミ選考(第一次)など、今日は案件がもりだくさんで、2時間かかった。
  大学を出る前に教員ロビーのメールボックスをのぞいたら、一冊の本が入っていた。小沼純一『無伴奏 イザイ、バッハ、そしてフィドルの記憶へ』(アルテス)。ウジューヌ・イザイの「無伴奏ヴィオリン・ソナタ」を取り上げて、無伴奏で、つまり一人きりで楽器を弾くということの意味について考察した本だ。同じ楽器でも、ピアノやギターのように同時に複数の音を出せる楽器ではなく、ヴァイオリンというひとつひとつの音を奏でるタイプの楽器のソロ演奏に着目した点が重要である。究極の孤独。あるいは弾き手=聴き手であるところの究極の対話。無伴奏というスタイルにそうしたイメージをもつのは、われわれが孤独というものを恐れ、かつ憧れているからであろう。静かな場所で読みたい本だ。