フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

11月15日(土) 曇り

2008-11-16 10:09:11 | Weblog
  明日は家に篭って報告書の原稿を書く予定なので、今日は外出することにする。9時半過ぎに家を出て、飯田橋ギンレイホールにロブ・ライナー監督作品『最高の人生の見つけ方』を観に行く。邦題は自己啓発本みたいだが、原題は「THE BUCKET LIST」。自分の余命が長くないことを知った人間が(あるいは自分がそのような立場におかれたと想定して)死ぬまでにやっておきたいことを書き記したメモのことである。イザベル・コイシュ監督作品『死ぬまでにしたい10のこと』(原題:My Life Without Me)で主人公の23歳の女性が作成したメモがまさにそれだった。彼女の場合は死ぬまでにしたいことは次のようなものだった。

  1 娘たちに毎日愛してると言う
  2 娘たちの気に入る新しいママを見つける
  3 娘たちが18才になるまで毎年贈る誕生日のメッセージを録音する
  4 家族とビーチへ行く
  5 好きなだけお酒と煙草を楽しむ
  6 思っていることを話す
  7 夫以外の男の人とつきあってみる
  8 誰かが私と恋におちるよう誘惑する
  9 頬の感触と好きな曲だけしか覚えてない刑務所のパパに会いに行く
  10 爪とヘアスタイルを変える

  少しの度胸といくらかのお金があればできることばかりだ。それに比べると、『最高の人生の見つけ方』の二人の主人公(モーガン・フリーマンとジャック・ニコルソンが演じている)のリストにはお金のかかりそうなことがたくさん書かれている。スカイダイビング、カーレース、ピラミッドのてっぺんに上る、アフリカでライオン狩り、パリのレストランでキャビアをたらふく食べる・・・それらがみんな実現できてしまうのは二人の老人の一人が大金持ちだからだ。やはりお金はないよりもあった方がいい。しかし、当然のことだが、映画の後半、二人の老人はお金では手に入れられないものに回帰していく。自動車整備工(フリーマン)は妻とたくさんの子どもが待つ家庭へ。大病院の経営者(ニコルソン)は離婚した妻(何人かいるのだが)との間に生まれた娘(ずっと音信不通になっている)に会いに行く。ポジティブで、ユーモアがあり、そして家族至上主義のハリウッドならではの作品だ。
  映画館を出て「紀の善」で昼食(赤飯弁当)。デザートに抹茶ババロアを注文して、ジャック・ロンドンの短編集『火を熾(おこ)す』の表題作を読む。極寒の雪原で焚き火を熾すのにしくじって死んでいく男の話だ。自然と人間の戦いの話といってもいい。自然への畏敬の念と与えられた条件の下でベストを尽くした人間への鎮魂。骨太できびきびした文体と相まって後味は悪くない。
  「紀の善」を出て、さてどこへ行こうかと、神楽坂下の交差点のところでしばしたたずむ。今日は同僚の大藪先生が会長をされている乳幼児の発達心理学のシンジウムが戸山キャンパスで開催されることを思い出し、会長講演を拝聴しに行くことにする。散歩がてら神楽坂の上まで歩き、そこから地下鉄に乗って、大学へ。キャンパスの落葉が浜辺の貝殻のように見える。

         

         

         

         

  会長講演のタイトルは「共同注視研究の現状と課題」。共同注視というのは、相手が見ているものを自分も見ることで、9ヶ月の乳児は、視線を交わしていた大人が何かに視線を向けるとその向けたものに自分も視線を向けることができる。視線の共有であると同時に、相手の意図を察する能力の芽生えでもある。これは乳児が間主観的な主体へと成長していく過程における画期的な出来事で、大藪先生はこの分野の研究の第一人者である。大藪先生の熱意を込めた語りは、現代人間論系総合講座1のときと同様である。やっぱり熱い人なんだ。来年度から立ち上がるゼミでは、私が人間発達論ゼミ1、大藪先生が人間発達論ゼミ2の担当である。同じプログラムのゼミ同士、何かジョイント企画を立てたいものである。合同合宿(研究発表)なんてどうだろう。熱い合宿になることだけは間違いない。
  帰路、丸の内のオアゾの地下の鞄屋でプライスオフの商品を購入。正札どおりだと高くて買う気になれないが、半値なら適正価格という気がする。靴と鞄は日常的に使うもので愛着のわきやすいものだが、どちらもボロボロになる一歩手前で買い換えないといけない(少なくとも大人は)。
  蒲田に着き、「シャノアール」で『火を熾す』の中の別の作品「一枚のステーキ」を最後まで読んでから、帰宅。歳をとったボクサーが家族を養う金を稼ぐために若いボクサーと対戦し、死闘の末に破れる話だ。

  「ポケットには小銭一枚なかた。三キロの道のりはひどく長く感じられた。俺はもう本当に歳だ、そう思った。ドメイン公園を抜ける最中、不意にベンチに腰を下ろした。試合の結果を聞こうと、妻が寝ずに待っていると思うとたまらなかった。そのことが、どんなノックアウトよりもつらかった。女房に合わせる顔がない、心底そう思った。
  体中から力が抜け、体中がひりひり痛んだ。砕けてしまった指関節の痛みを思えば、たとえ土方の仕事にありついても、つるはしやシャベルを握れるようになるには一週間かかるだろう。腹の底の空腹の震えが、彼を呪わしく苛んだ。みじめな気分に打ちのめされて、両目が濡れてきた。そんなことは初めてだった。キングは両手で顔を覆って泣いた。泣きながらストーシャー・ビルを思い出し、ずっと昔のあの夜にビルが自分に仕えたことを思い出した。哀れなストーシャー・ビル! 更衣室でビルが泣いたわけが、いまの彼にはわかった。」(179頁)

  「訳者あとがき」(柴田元幸)によると、本書に収められた9編は主人公が勝者になる場合と敗者になる場合の両方があるそうだから、私は今日たまたま敗者になる場合を2編続けて読んだことになる。きっと敗者を描いた作品の方が味わいがあるに違いない。「一枚のステーキ」は1909年に書かれたものだが、百年前のものとはとても思えない(「20ラウンド」という言葉以外は)。といよりも、百年前なんてついこの間のことなのだというべきだろう。ジャック・ロンドンは1916年に40歳で亡くなったが、同じ年、夏目漱石が49歳で亡くなっている。彼の人生に興味を持ったので、アマゾンで『ジャック・ロンドン放浪記』(小学館)を注文する。